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ヘッドフォンを外して  作者: an-coromochi
三章 狼の真似をする犬。それにもなれない羊なんです。
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狼の真似をする犬。それにもなれない羊なんです。 2

「春泉さん、自分を卑下するのはやめなさい」


 いつまでも、大人ぶった声と顔で柊が淡々と告げる。


「事実だろうが!私は…!私は、こんなもんがなけりゃ、まともに教室にも居られない出来損ないだ!」


 そう言って、ヘッドフォンを強く掴む。


 相棒がガチャリと上げた抗議の声にも耳を貸さずに、肩で息をしている春泉は、座ったままで向かい側の柊を睨みつけた。


「やめて」低い、うんざりしたような声をため息と共に吐き出す。


「お前らが当たり前みたいにできることができない!可愛そうな奴だって、哀れんでいるんだろ?」


 資料室の壁や天井に反響して、声が拡散する。レーザー光を屈折させる鏡みたいに、事務機のガラスがうっすらと、立ち上がって怒鳴りつけた春泉と、無言で両手を膝の上に置いたまま姿勢良くしている柊を映す。


 下らない。


 信じようとしていた?

 それとも信じていた?


 胸糞悪い、文句一つ言わないコイツが抑えきれる衝動を、自分が今抑えきれていないことが、何よりも納得いかないのだ。


 まるで柊からの叱責を求めているように、春泉は彼女の大事なものへと手を伸ばした。


「お前だけじゃない。どうせ冬原だって、心の中じゃ私のことを見下してんだ」


 無関心そうな鈍色の光を放っていた柊の瞳に、明らかな変化があった。


 怒りと苛立ち。


 人が持つ感情の中でも、かなり純粋な感情の部類に入るだろうそれが、彼女の瞳を熱くたぎらせている。


「もう一度言うわよ」今度は、わざとらしいため息もなかった。「やめなさい」


 自分と同じでないものが、自分と同じように感情の波に押し流されそうになっているのを見て、とても気分が良くなる。


 こんなことをしても、自分が前に進んでいるわけではないのに。


 それでも、自らの尊厳を保つためか、それとも単純な八つ当たりか、春泉は口元をニヒルに歪めて告げる。


「あぁそうか、お前らだって『普通』じゃないもんな」


 柊の目がみるみると大きく開いていく。

 今度は、その感情が驚愕なのか、憤怒なのかが分からなくなる。


 不味い、言っちまった。


 心の左半分では、どうしようもない罪悪感と、後悔に苛まれている自分がいる。その一方で、今の春泉の全権を握っていた残りの右半分が、喜びを感じているのが分かった。


 春泉の、疑いようもない差別的な発言を耳にした柊は、自分を落ち着かせるように両手を重ね、肩を震わせながら長息を吐き出していた。


 それでも、昂ぶった神経を抑えることはできなかったようで、もう一度、肺から息を絞り出して、今度は両の掌で自身の顔を覆った。


 泣く、と春泉は思った。


 ようやく、左半分が体と頭の支配権を取り戻しつつあった春泉は、何か言わなければと焦りを感じている。


 あぁ、最低なことを言った。

 自分が一番嫌いなことをしてしまった。


 土足でズカズカと、彼女たちの心の中に上がりこんで、踏み荒らすような真似をした。


 二人が育てた美しい花畑を、ただ当たり散らすためだけに足蹴にしたのだ。


 謝らなくちゃ。


 頭はそう指令を体に送り続けているのに、返ってくるのは、無慈悲なエラーコードばかりだ。


 日頃できないことが、土壇場でできるわけがない。


 つまり、素直に謝る習慣のない人間が、急に懇切丁寧に頭を下げて謝罪ができるわけもないのだ。


 口だけが、エアーポンプを失った水槽の中の魚のように、パクパクと閉じたり開いたりしているが、体内の酸素は軒並み出し尽くしたらしく、水面には泡一つ浮かび上がらない。


 柊が顔を上げた。

 その瞳と邂逅する。


 大粒の涙を浮かべているのではないか、と危惧していた彼女の瞳は、春泉の予想とは大きく違って、ただただ、灼熱の感情を逆巻かせていた。


 柊はふぅ、と再度大きな吐息を漏らした。それがため息ではないことは、容易に想像できた。


 突如、けたたましい大きな物音が資料室に響き渡った。


 すぐに、その音の正体が、部屋の隅に無残に転がっているパイプ椅子が倒れた音だと気づく。それから一テンポ遅れて、柊がその長い足で椅子を蹴りつけたのだと理解した。


 状況は理解した、何がどうなったことで、椅子が転がっているのか、それは理解した。


 だが、その衝動的とも言える暴力行為については、思考が追いつかなかった。


 それを説明するように、柊が目を覚ましたばかりの獅子のようにゆっくりと、しかし、明瞭に殺気立った様子で言う。


「…ったく、黙って聞いてれば、ぎゃあぎゃあ、うるさいのよ」


 仮初とはいえ、誰もが羨む上品さと優雅さをまとっていた、柊は消えてしまった。代わりに、傲慢さと凶暴さを着込んだ女が立っていた。


 まるで別人じゃないか。


 自分が座っていた椅子さえも、膝の裏で蹴り上げるようにしてどかした柊を見つめる。


 一歩一歩、大型ネコ科動物を連想させる、しなやかな足取りでこちらとの距離を詰めてくる。


 直前まで謝罪を要請していた司令塔が、今度は急に撤退を命じてくるものの、もう遅い。


 すでに春泉の直ぐ隣まで来ていた柊は、非常に攻撃的な目つきで彼女を見下ろすと、緩慢な動作で、春泉が座っている椅子の背もたれに片手を乗せ、もう片方の手を大テーブルの上にそっと置いた。


 びくり、と肩が跳ねる。


「何よ、今更怖がってんの?」


 嘲りを含んだ言葉にも、羞恥を感じる余裕がない。


「アンタが売ってきた喧嘩でしょうが、買われて困るようなら、初めから売らなきゃいいのよ」


 自分の右半分はすっかり左半分の後ろに隠れてしまい、ただ怯えを隠すので必死になってしまっている。


 静かに言葉を紡いでいた柊が突然、ドン、と机を叩いて一際大きな声を上げた。


「聞いてんの!」

「う、うん」


 普段は心の奥に追いやられているのに、こういうときだけ引きずり出される、脆弱で臆病な自分が情けない声を上げる。


「うんって…、アンタねぇ…」


 呆れた様子の柊は、大きく舌打ちをするとぐっと顔を近づけてきた。それから、喉を震わせ、低い声で忠告してくる。


「いい?私はアンタの想像通り、世間様の言う、『普通』ではないし、ついでに言うとアンタに興味なんて無い」


 ぼそぼそと小さな声で、しかし、ハッキリとした滑舌を用いて自らの信条を説明していた柊は、声も上げられないほど縮み上がっている春泉に、時折返事を要求してきた。


「私は、夕陽がいればそれでいい」

「うん」


「そういう人間だから、私のことはどうぞ好き勝手に軽蔑して、恨んで、罵ってくれて構わないわ」


 やり返さないわけじゃないけどね、と恐ろしいことを付け加えた柊は、その言葉の正確さを証明するかのごとく、執拗に叱責を続ける。


「だけど、夕陽は違う。あの娘は、本当にアンタのためを思って行動してる。いや、違うわね、結局は自分のためでしょう。でもそれは、アンタの言う下らない自己満足のためなんかじゃない」

「…うん」


「あの娘は頭が良いから、常に自分が、周囲が後悔しない選択を模索し、心がけている。アンタと執行が後悔しない選択を選べるように。だから――」


 ぐっ、と柊が春泉の胸ぐらを掴んで顔を寄せた。その拍子に、小さな音を立てたヘッドフォンが、言わんこっちゃない、と笑ってるみたいだった。


 今までで一番憤りを漲らせた柊が、何かを噛み潰すみたいにゆっくりと唱える。


「夕陽を貶めるような発言や行為だけは控えなさい。さもないと…この学校に居られなくしてやるから」


 子どもの脅し、とは思えなかった。


 この目は、声は、本気だ。


 普段の柊から感じられていたペテン師の声は霧散して、衝動をコントロールすることをやめた彼女からは、一片の嘘も見当たらなかった。


 彼女は、そのためならどんな手段も厭わないのだと本能が察する。


 怖い、と思った。

 だが、それと同時に、少しだけ彼女たちが羨ましくなった。


 それだけ想ってくれる相手がいる冬原を、そして、自分さえもかなぐり捨ててしまえるぐらい、想える相手がいる柊を。


 自分の左側がすすり声を上げる。


 恐怖のせいか、それとももっと他の、苛立ちや怒りを凌駕するほどに純粋で、制御不可能な感情のせいなのかは分からなかった。


「ちょっと、今夕陽が来たら勘違いされるじゃない。泣き止みなさい」

「む、無理言うなよ…」

「あぁもう」


 面倒そうな声を発した柊は、ポケットから取り出したハンカチを春泉の目元に押し当てた。


 彼女から漂う、甘ったるい香りにそぐわぬ乱暴な手付きに抗議の声を上げるが、「何よ」と睨まれたせいで、何も言えなくなった。


「泣くくらいなら、ちょっとは素直にしてなさい」


 素直、素直って何だ。

 必要なときに、必要な言葉が出ること?

 それとも、自分を抑えないこと?


 無理だ。


 自分にはもう、どの気持ちが抑えていない自分なのかも分からない。


 右の自分も、左の自分も、好き勝手に人とぶつかるか、逃げて回るだけだ。


 ガラリ、と戸が開いた音。

 それから何かを一生懸命言い訳している柊の声、そして珍しく怒ったような声を上げる冬原。

 彼女が立て直したであろうパイプ椅子が軋む音。


 執行の声は聞こえなかった。

読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


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