無声映画みたいな逢瀬を所望します。 1
この区分で、二章は終わりとなります。
その先には薄暗く細長い廊下が続いており、さっきまで自分がいた場所とは、明らかな異質さが漂っていた。
まるで、違う世界に迷い込んだみたいだ。
通路の両脇に、規則的に並んだ両開きの扉が見える。こういう施設の扉は、あんなにも大仰なものがベーシックなのだろうか。
「こんにちは」
唐突に沈黙を突き破った声に、心臓が収縮する。だが、直ぐにその声の主が自分の手をいつの間にか離していた執行なのだと気づき、その姿を探した。
通路とは逆の方向へ、T字になるようにして広がっていたカウンターにその姿はあった。
小洒落たビンテージ調の看板が立っている。そういう雰囲気を醸し出すためのものなのか、と他人事のように推測する。
そのカウンターにマネキンみたいに立っていた老人に声をかけた執行は、何やらこっそりと話をしているようだったが、直ぐにそれを終えると財布を出した。
するりと、長財布から千円札を取り出す。
意外と安いんだな、と全力で現実からの離脱を試みている脳味噌が考える。
それから早歩きで寄って来た執行が、また自分の手を握った。
優しく丁寧な手つきに、もういいやと諦観する。
乱暴はされないだろう、勝手極まりない推測だが、比較的紳士な対応をしてくれそうな気がする。
そもそも、執行にはそういう趣味があったのか。
いや、それは個人の自由だ。でも私は巻き込まれてしまったわけで…。
まあ同性にも異性にもモテそうだし、光栄なことなのか?
不味い、段々と思考がおかしな方向に走り出してしまっている。
今思えば老人に助けを求めるなり、手が離れた隙に逃げ出せば良かったのだが、思考停止状態の自分では、そんな当たり前のことすら思いつかなかった。
執行は緩やかな足取りで、両扉の上に取り付けられているナンバープレートを確認しながら移動していた。
そして、お目当ての番号を見つけたらしい彼女は、「ここだ」と声を出して春泉のほうを振り返った。
「ごめんね、私の趣味で」全くである。「でもきっと、楽しんでもらえると思うから」
執行が低く、だが決して固くはない柔らかな口調で囁く。
自信満々の顔でそう告げられると、かえって、もう感謝するべきなのかもしれないとさえ思ってしまうから不思議だ。
「う、ん」
気の利いた台詞も、皮肉も浮かばない自分に嫌気が差す。
こうして私のように押されると断れないタイプの女性が、強気な肉食系に食い物にされるのか。
まさか、同性に食い散らかされることになるとは…思いもよらなかったが。
執行が片手で扉を押し開ける。
この扉が、未知と喪失のための新世界の扉になるとは思いたくないぐらい、味気ない装飾だった。
そこにはアダムとイブが追放されて、初めて目にしたであろう俗っぽい光景が広がっていて…。
そういう予想をしていた春泉だったが、彼女の目に最初に飛び込んできたのは、巨大なスクリーンだった。
「おいおい…冗談だろ」
高い天井、整然と規則的に並んだいくつものシート。
春泉には、この光景に見覚えがあった。しかしそれは、いつだってお話の中か、テレビの中だけでしか目にしたことのない代物だった。
「映画館か…?」
轟音と振動の象徴。言い換えれば、音と映像の無駄遣いとも言える施設だ。
ホテルじゃなかったのかと安堵する一方、事の次第によっては、ホテルよりも危険な場所になり得る環境に、春泉は顔を曇らせ、先に進んでいく執行の背中を呼び止めた。
「おい、ちょっといいか執行」
「ん?」
執行は、くるりと振り向いたかと思えば、そのままの勢いで、踊るように緩やかに回りながら館内の真ん中のほうへと移動していった。
辺りを見渡す。どうやら自分たち以外に、人はいないようだった。
日曜日の昼過ぎにこんな状況では、とても経営が成り立つとは思えない。
一先ず、席に着いて手招きしている執行のほうへと歩みを進める。
執行は気を利かせたつもりだろうが、自分にとって映画館で映画を見るなんて、拷問以外の何ものでもない。
経験したことはないが、もしかすると、気でも失うのではないかとすら思える。
すでに席に着いている執行の隣に立ったまま、声をかける。座らないのか、と尋ねられて、仕方がなく椅子にかけることにした。
…別に執行が怖くなったとかではない。
「あのさ、執行」
「ん?」
「お前、私に何か恨みでもあんのか?」少し遠回しに伝えてみる。「私に映画なんて、車椅子の人をサッカーに誘うようなもんだぜ」
少しは自分らしく、皮肉っぽく言えたなと感心していたのだが、対する執行ははにかんだまま嬉しそうにしているだけだ。
このままでは、本当に死ぬ目に遭う。
そう判断した春泉は、颯爽と席を立とうとした。しかし、即座に執行に呼び止められてしまう。おまけに腕を引っ張られ、強制的に着席させられた。
「おい、本当に無理なんだって」今回は洒落にならないと、必死の形相で伝える。「ヘッドフォンなんかじゃ防げない爆音がなるんだろ?外にいるから、お前だけ見てろよ」
「分かったよぉ、じゃあ、一番後ろのほうにいてよ。どうしても我慢できないなら、直ぐ出ていいからさ」
やるまでもなく、我慢なんてできるわけがない。
そう伝えるのは簡単だったが、それで執行を納得させられる自信もなかった。
こうなった以上、とりあえず始まる直前まで中にいて、始まったら全力で外に出よう。
そのように考えていた春泉だったが、席を立って数分後には、目を丸くして再び執行の隣に腰掛けることになった。
「おぉ、こいつは…驚いた」
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