し、静かなところって、どこですか?
ホテル街のネオンって、熱帯魚の模様みたいですね。
人いきれから解放され、小一時間ぶりに味わう冬の外気が、自分の中に充満した、汚れた空気を循環させてくれるようで、とても気持ちが良かった。
携帯を取り出し、時刻を確認する。
画面のデジタル時計は、14時30分過ぎを表示している。
「おい、もういいだろ」
残る鎖を断ち切るために、春泉は疲れたようなため息と共に告げた。
実際、久しぶりに人の海の中をさまよったせいで、春泉は心身共に疲労感でいっぱいになっていた。
焼却炉の底に積もった、灰のような重みが全身にのしかかっている。
「えー、もうちょっといいじゃん」
「よくねぇ」返事をするのも面倒で、適当な返しになる。「ほら、寒いし」
粘土でもこねているかのように、繋いだ手を、余ったほうの手で触った執行をじっと睨みつける。
さすがにもういいだろうと、無理やり手を解く。
「あぁん」
よく分からない生き物の鳴き声のような声を上げた執行は、惜しむように春泉の手を見つめていた。
途端に人肌の温もりを失った右手が、冷気にさらされ、薄っすらと鳥肌を立てた。急いで、ポケットの中に逃げ込む。
同じ人肌の温みだというのに、ポケットの中は酷く虚しい暖かさだった。
見上げた空は相変わらずの曇天で、折角外に出たのだから晴れてくれれば良かったのに、と自分勝手な文句を、どこの誰とも知らない神様にぶつける。
返事がないことから、神様も多忙であることが窺える。
今日はありがとな、と形ばかりのお礼で締めて、さっさと一人の世界に帰ろうと思ったのだが、振り返った執行は、ずっと携帯の画面を操作しており、話しかけられる様子ではなかった。
きっと、執行は友達の多い人種のはずだ。
自分と一緒にいるときでも色々と忙しいのだろう。
そんなふうに、素直には考えられない春泉は、彼女がこちらのことを放っておいて携帯を弄り出したのを、つまらなさそうな目で眺めていた。
いつまで経っても作業を終えない執行を横目に、ぽつりと春泉が独り言を漏らした。
「疲れたな」
それでも執行は曖昧な反応を見せるだけで、こちらを見てはくれない。しょうがないので、ため息を吐きながら、近くの花壇の縁に腰かける。
「…どっか、静かなところに行きたい」
その言葉は心からの本音だった。
いくら使い慣れているとはいえ、ヘッドフォンをずっと装着していることは、多少なりともストレスにはなる。
というよりは、外せない状況に身を置き続ける、というのが苦痛と言ったほうが正しいか。
音、音、音。
この世が音で満ちていることは、苦しみが蔓延していることと似ていると思う。
意識して認識しなければ、自分の中には現れないもの。
苦しみだって、星の数ほどの人間がまき散らしているはずなのに、私たちはそれに気づけない。
目には見えない有害な毒素も、触れなければ、無関係であれば、痛くも痒くもないのだ。
だが、自分は違う。
普通の人間よりも、遥かに多くの音を勝手に拾い続けるように。
音そのものがもたらす無限の苦しみを、この身に背負わされ続けて生きている気がしてならない。
そうして春泉は、ネガティブの沼の底に沈んでいった。だというのに、執行はといえば、目をキラキラとさせて春泉のほうを見つめるばかりだった。
すると、直ぐそばに立っていた執行が再び春泉の手を掴んで、歩き出した。
「お、おい、何?」
「じゃあ、静かなところに行こう!」
そんなこと言ったか、と数秒前に記憶を戻すと、確かに言っていたことを思い出す。
それから執行がハイテンションになっている理由を推理しようとするも、全く見当もつかない。
疲労感のたまった足に鞭打って、再びアーケード街へと戻ったわけだが、自分の借りているアパートとは逆の方向へと進んでいく形になっている。
「なぁ執行、もう疲れたんだって」
「分かってる、分かってる」
コイツ何も分かっていないな、と眉をひそめる。
「だからぁ、行くんでしょ?静かで休憩できる場所」
静かで休憩できる場所の回答を『自宅』しか用意していなかった春泉は、執行の突発的な動きに振り回されていた。
だが、不意に、執行がとてつもない勘違いをしていることに気づき、青ざめる。
薄暗い路地裏、剥き出しの配管、電気の消えた虚のような窓の向こう。天上へと続くような、外付けの非常階段。
視界の隅で流れるそれらのオブジェクトに、春泉は自分の心拍数が飛躍的に上昇していくのを感じて、思わず息を呑んだ。
「ち、ちが、違う!そういう意味じゃない、勘違いすんな、執行!止まれ、執行!」
抵抗しようとした途端、強く握り込まれた右手が軋んだ。
連れ込まれる、という物騒極まりない、しかし今は、酷く現実味を帯びて見える言葉が春泉の胸に突き刺さる。
「と、止まれって…なあ」情けのない声は、執行には聞こえないようだ。
執行が急に立ち止まったのでチャンスだと思い、身をよじるが、まるで動じない。
こんなことなら、護身術の一つでも学ぶべきだっただろうか。
それから、数秒も経たないうちに動き出して、建物に入る。
入口直ぐの地下へと向かう階段に吸い込まれて、春泉はいよいよ身の危険を感じていた。
しかし、そうなればそうなるほど、頭の回転数が極端に低下していき、段々現実逃避じみた思考のほうが強くなっていく。
この場合、自分も悪いのだろうか。
同意があったとみなされるのか?
いや、しかし断ってはいる。
いやいや、女性同士じゃ、力ずくで拒否もできるだろうと判断されるのか?
そんなふうに混乱した脳味噌で考えているうちに、階段は終わりへと辿り着いてしまった。
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