音なんて、クソくらえだ。 1
みなさん、こんにちは。
どういう作品なのかは、あらすじをお読み頂ければ、お分かりになられると思います。
注意書きとして、今作は、前作に当たる
『やがて、冬の雪がとけたら』の人物がサブキャラとして登場します。
そちらをご覧になられなくても、十分読み進められるように書いていますが、
最後まで読み終えたときに、気になった方はそちらもお読み頂けると光栄です。
さて、それではお楽しみください!
自分を責めるような冬の冷気が、唯一露出している顔と首元を襲う。
白い呼気も、垂れる鼻水も、何もかもが不愉快極まりないものとなって、すでに憂鬱だった自分の気持ちを、いっそう暗い場所に押しやるようだ。
耳元から流れ込んでくるロック調の曲に意識を集中しようとするが、どうにも自らの思考から逃れる術はないようで、頭は常に、これからやらなければならない面倒事に向けられていた。
すれ違う人たちの多くが今から仕事なのだろう、どの顔も、等しく同じようにつまらなさそうに見える。
長く続く坂道の上を眺め、少女、春泉理音は大仰にため息を吐いた。
その真っ白に染まった息は、数秒空中をさまよった後、よく思い出せない夢のように消えた。
道の少し先を忙しなく飛び跳ねていたハクセキレイが、春泉が近づいてきたことで道の端のほうへと避ける。
人への警戒心が薄いのか、春泉がそばを通っても飛び立たずしきりに餌を探している。
よくもこんなことで絶滅せずに繁殖できているものだ、と不思議になる。それとも、敵意を剥き出しにする相手になら機敏な反応を見せるのだろうか。
どうでもいいことが気になって、わざと足を止めて振り返る。
白と黒の鳥はこちらをちらりと一瞥するように首を動かすと、ぴょんぴょんと、先ほどと同じようにジャンプしながら自分から距離を取った。
何のための翼なのだろうか。
鼻を鳴らしてその後ろ姿を見送ったが、自分も人のことを言えないな、と思い直して鼻白む。
ヘッドフォンと耳の間の空間は、外の世界から自分を守るシェルターのようだ、と最近考える。
まあ、シェルターに響く音楽としてはビートが効きすぎているし、歌詞も絶望的に暗い。
こんな音楽ばかり聴いているから、ひねくれた性格なのかもしれない。いや、昔からこうだったか。
坂道を上り終え、先週案内された入口へと向かう途中、ふと見上げた建物の上空には、鉛色の空が広がっていた。
「…良い門出になりそうだ」とマフラーの中でぼそりと呟く。
マフラー越しなので外には漏れない独り言のはずだが、万が一誰かに聞かれたら、恥辱の極みだ。
いい加減直したほうがいい癖だと、春泉は反省する。
建物の中は思ったよりも寒かった。真裏が山の麓に隣接しているほどの僻地なので、町中の建物に比べたら寒いのも当たり前か。
気の利いた商業施設など、電車に乗らなければ利用できない。
指定された時間の10分前に目的地に到着したので、少しだけ待たされることになった。
自分を案内した色黒の男は、一瞬、こちらの顔を見るなり苛立った様子で眉をしかめたのだが、直ぐに口を小さく開けて見せると、仏頂面で応接室へと誘導した。
応接室は静まり返っていて、有難いことに暖房も効いていた。これならマフラーもヘッドフォンも外して良さそうだ。
春泉はおもむろにヘッドフォンを外し、机の上にゆっくりと置いた。
コトンと鳴った音が静寂に反響して、彼女は目蓋を下ろす、
上階で椅子が引きずられる音、隣り合った部屋から聞こえてくる大勢の大人の声、風で揺れる窓、廊下に木霊する足音、軋む床板、リフレインする、ヘッドフォンの中の小さな音楽…。
色とりどりの音が、極少の砂の粒になって鼓膜を通り抜けていくようだ。
音、音、音。世界は音で溢れている。
もしも一つだけ、神が創世の折りに失敗したことを挙げるなら、騒々しい音を生み出したことだろう。
まあもちろん、神様の存在を信じてなんかいないし、この世のそういった綻びはとても数えきれるものだとは思っていない。
つまり、先ほど自分が考えたことは、ナンセンスだというわけだ。
扉がかすかな音を立て、ゆっくりと右へスライドしていくのが視界の隅に映り、春泉は視線をそちらへと動かした。
そこには背中が折り曲がってしまって、自然と頭を突き出すような形になっている老人の姿があった。
春泉は彼に面識があったので、軽く頭を下げて、斜めだった体を正面に向けた。
「おはようございます」老人が恭しく頭を下げる。下げる前から低頭したような頭の位置なのだから、あまり意味がある動作とは思えない。「緊張されていますか?」
春泉は首を左右に振ると、平気であるといった主旨の話を伝えた。
それを聞いた老人は二度三度のろのろと頷くと、先週したのとほぼ同じ説明を一通り行った。
もう知っている、と呟かなかった自分を少し褒めてやりたい気持ちだ。
それから一言二言、天気の話や気温の話をした。
正直あまり意味のある話とは思えなかったが、自分の出したわがままに近い条件を受け入れてもらっている以上、大人しく付き合ったほうがいいだろう。
そうしているうちに再び扉が開き、電車が車輪で線路をなぞったようなけたたましい音が響いた。
春泉は、反射的に眉をひそめてそちらを振り向く。
「お、おはようございます」こちらの女性も見覚えのある顔だった。「遅れてしまい、申し訳ございません」
柱に掛かった丸時計を見る。実に、十分の遅刻だ。
老人が、穏やかだが、少し棘のある口調で彼女を咎める。
「おはようございます。鹿目川先生、元気なのはいいことですが、遅刻は感心しませんな」
「すいません」鹿目川と呼ばれた女性が申し訳程度に頭を下げる。
「後、扉を開けるときも気をつけなさい。春泉さんだけではなく、老体の私も迷惑です。心臓が止まるかと思いましたよ」
彼なりのジョークなのだろうが、彼の年齢でそのような冗談は洒落にならない。現に自分も鹿目川も、苦笑いすることさえできずにいた。
その微妙な空気感が伝わったのか、老人は気まずそうに咳払いをすると、「貴方がその有様では、春泉さんも不安になってしまいます」と一言文句を付け足した。
そう指摘された彼女は、しゅんとした様子で肩を竦めるとこちらを向き直った。
背丈は160センチ後半。女性にしては身長の高いほうだろう。
目は眼尻に伸びるにしたがって垂れ下がり、どこか間抜けな印象を受ける。
髪の分け目を右耳にかけた、ロングヘア。左耳はすっぽりと隠れている。総じて美人顔だが、どうにもぼんやりとした印象だ。
彼女は両手を胸の前で揃えると、曖昧なアクセントで喋った。
「ごめんなさいね、春泉さん。こんなやつで大丈夫なのか、って思っちゃうわよね」
「いえ、別に」すぐさま首を振った。
それを許しだと勘違いした彼女は、パッと明るい顔になって「本当?」と尋ねたのだが、次の春泉の一言にその安堵は一蹴されることとなった。
「初めから、期待なんかしていません」
空気がぴしりと凍り付くのを感じたが、あえてそれに気が付かないフリをする。
床の木目をじぃっと見つめているうちに、鹿目川が乾いた声を出して、一歩近寄って来た。
「あの、そろそろ時間ですし、行きましょうか」彼女の言葉にこくりと頷く。
老人が低い声で激励の言葉を唱えたが、残念ながら今の自分にとっては皮肉にしか聞こえなかった。
退室する際には、忘れないようヘッドフォンを手に取り、素早く両耳に装着した。
しかし、それを困ったような表情で観察していた鹿目川は、表情通りの口調で言った。
「教室に入るときは、ヘッドフォン、外せたりする?」
断固拒否の姿勢を見せるべく、目に力を込めて相手を睨みつける。
「何故ですか」
「え、まあ、それは、ねぇ?」
煮え切らない返事だ。苛々する。もうちょっとはっきり喋れとも思う。
春泉は一つため息を吐いて、これ以上話す必要はないと言わんばかりに先を行った。道は何となく覚えていたので、問題はない。
鹿目川が後ろから早足で追ってきて、わたわたとした仕草と口調で、こちらの考えを改めさせようと必死になっている。
「いや、ほら、何事も初めが肝心って言うじゃない?」
「肝心って、何に対してですか?」
「えっとぉ」と間延びした声を上げて、考え込む素振りをとった彼女は、その場に立ち尽くして動かなくなってしまった。
遅れてしまうのではないかとも思ったが、別にそれは自分にとって大した意味は持たないことだと気づいて、自分も立ち止まる。
「みんなと仲良くするため、とか?それか、早く打ち解けるため、とか?」
「…どうして全部疑問形なんですか」と無感情に吐き捨てた春泉は、一度鼻から小さく息を漏らすと、音もなく息を吸い込んだ。
冬の廊下に充満する冷え切った空気が、肺に流れ込んでくる。目の覚めるような感覚で生理的に体が震えた。
廊下の窓の外で揺れる柳を一点に見つめながら、意図して明朗な口調で告げる。
「私は、そういうのに意味を感じませんね」
きっぱりと言い切った彼女の顔を見ながら、また困ったような顔を鹿目川が浮かべた。
人を苛立たせる卑屈な表情だ。言いたいことがあるのに、何かが邪魔をしてそれを言い出せない、そんな顔つきだった。
まるで、自分を見ているようだ、と歯噛みする。いや、その弱さを隠さない分、鹿目川のほうがマシだろう。
聴覚過敏、という症状ですが、
こちらは人によって、症状の出方が異なります。
さらに、物語上都合の良い解釈を取っているシーンも正直ございます。
気になる方は、是非、ご自身でお調べになられてみてください。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
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