表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
142/168

月の日常 Ⅰ

論文執筆のせいで「したがって」とか使いそうになって困る。めちゃくちゃ困る。

 記憶喪失者。それは、情報源として縋るには最悪の対象という他ないだろう。記憶を取り戻したところで、本当に情報を持っているかどうかは不明。しかし、万が一重大な情報を有していたら──そんな可能性を少なからず孕んでいる以上、情報を欲するゾーイは青年を切り捨てられない。そんな具合で、ある種無敵の存在である。


(本当に記憶喪失かどうかは大きな問題じゃない。記憶喪失を演じて情報を伏せているだけだとしても、現状は手がかりとなり得るのがこいつしかいない以上、私が取ることができる行動は限られる)


 仮に本当に記憶喪失だとしたら、重大な情報を有している可能性が存在する為に青年を切り捨てられない。

 一方で、本当は記憶喪失ではない──つまり自称記憶喪失者である──のだとしても、それはそれで青年を切り捨てる判断を即決することはしたくない。記憶喪失を装うということは即ち、青年が様子見をする程度にはこちらに歩み寄る姿勢を有している可能性を示唆しているからだ。


(勿論単純に警戒してその場しのぎをしている可能性や、私を利用する魂胆である可能性もあるけど……それでも私が求めているのは"情報"だから、一定期間は静観しても構わないし)

 

 当然、青年の命が目的だった場合は話が変わるが(待ったなし)


(けどまあ、記憶喪失を演じている場合は、それはそれでこいつに何かやましい事情があるって情報を私に教えたようなものでもある。それはある意味こいつの弱点ね)


 しかしやましい事情があるということは、やはり何かしら普通ではない性質や情報を有しているとも捉えることができるか、とゾーイは内心で頭をかいた。そしてその場合は、やはり情報源としてそれなりに使える可能性がある。


(他所の都市で何かやらかしたとか、知ってしまったから姿をくらましているとかそういう可能性はあるわよねえ。その結果が、災厄のアレとか……。こいつが他所の都市の住民かどうか、その辺の裏くらいは取ろうかしら?)


 とはいえ、他所の都市の住民情報を把握するとなると"上の連中"とコンタクトを取る必要があるわけで──それはあまり望ましくない。


(暫くは様子見ね。それに、もしも上の連中からこいつの身柄を要求されたらさっさと渡せばいい。それまでの時間だったら……私の権限的に、ある程度の自由は許されるでしょ)


 そこまで考えて。

 

「……そ。記憶喪失か。なら仕方ないわね。記憶が戻るまで、うちに滞在してるといいわ」


 真偽はどうであれ、そういうことにしてやろう。そう思考を締めくくり、ゾーイはゆっくりと立ち上がって。


「許す。存分に、私をもてなすがよい」

「舐めてんの?」


 鷹揚に頷きくつろぎ始めた青年を見て、──仮に記憶喪失が嘘だった場合──記憶喪失を演じる気があるのだろうか、とゾーイは思った。


(……多分、記憶喪失は嘘じゃないわこれ。めちゃくちゃ偉そうで傲慢でムカつく奴が本当に記憶喪失になった感じだわこれ。演じるなら少しは謙るだったりしないとおかしいでしょ。ブラフだとしても、少しは様子見をしてからでしょ。こんな初っ端にかます態度じゃないでしょ)


 つまりこれはもはや天性の態度だ、とゾーイは戦慄した。記憶を失ってなお、これだけ傲慢に振る舞えるのである。記憶がなくてこれだとすれば、記憶が戻った際にはそれはもうとんでもないことになるだろう。そんなふうにゾーイが青年に対して"人をゴミのように扱い、ブラック企業真っ青な労働体制を構築しているに違いない"みたいな印象を抱いているとも知らず、「ところで、朝餉の準備はどうなっている? 貴様が想定している以上に、私の腹の刻限は近いぞ」なんて冷笑を浮かべながら言い放ちやがった。確かに元々面倒を見る気はあったが、それにしても図太い精神で居座る気満々である。


(これがもしも演技だとしたら心臓どうなってんのよって感じだわ。あと無駄に顔が良いのがなんか逆にムカつくわね)


 アホくさ、と思いながらゾーイは台所に戻った。同時、もしも態度に見合うだけの立場で尚且つ自分が把握していない人物なのであれば、欲しい情報を持っているかもしれないなんて淡く期待しながら。


 §


 乗り切った、と俺は内心で笑みを浮かべた。


(ローランドと似た能力を持っていた場合はあの手札を切る必要があったが……正直アレはあまり使いたくないからな。使わずに済んで安心だ。アレは不確実性が大きいし、その後の状況把握も困難な策は最終手段にしか使えん)


 ここが月の神の世界であるならば、聖女の『祝福』やジルの『加護』のような異能の持ち主がいる可能性は当然考慮しなければならない。ゾーイと名乗った少女が一般人か特殊な立ち位置の人間であるのかが不明である以上、俺はあらゆる可能性を思考の片隅に入れておく必要はあるのだ。可能性の全てを考慮して慎重になると身動きが取れなくなるので、取捨選択は大事だが。


(とりあえず、俺が記憶喪失であると信じ込ませることはできたようだ)


 ハッタリというものは、如何に堂々とした態度で行うかで効果が変わる。虚言がバレることを恐れず、堂々と「記憶喪失ですが何か?」みたいな空気感を放っていれば、大抵の場合は相手を騙すことができるのだ。まあ今回の場合はゾーイが騙されようが騙されまいが結果は変わらないだろうし、それを見越しているからこその記憶喪失設定な訳だが。


(さて。ゾーイが俺を情報源として確保しているのはほぼ確定だな。だとすれば災厄の真相はこの世界の一般常識ではなく、秘匿されているか未開のものかのいずれか……。ゾーイの立場もある程度は考察可能か?)


 おそらく、災厄そのものはこの世界においてある程度常識的なものなのだろう。先程ゾーイは「災厄で出勤」と口にしていたのだから、災厄に対する職業的なものが存在する程度には、広く知られていると考えていいかもしれない。裏の組織といわれれば話は変わってくるが、ゾーイの行動は流石に裏の組織のそれとしては杜撰が過ぎるので、可能性から排除して構わないだろう。


(言葉の意味が同一とは限らんが、災厄というワードから連想できるイメージとして、決して良いものではないはず。それに伴い出勤するとなると……警察か軍隊、あるいは救急隊か? いや手掛かりを欲してることから、探偵や研究者のような立場の可能性もあるか。少なくとも、完全な一般人とは考えづらいな。問題はその立場だから強いのか、立場に関係なくこの世界の住人が強いのか……)


 先ほども考えたことではあるが、この世界では普通の人間が天の術式や特級魔術に匹敵する力を操るかもしれないのである。


 公園を走り回る幼児のタックルで、複雑骨折になるかもしれない。すれ違う人々と衝突事故が起きれば、身体が吹き飛ばされるかもしれない。気さくな若者からの肩ポンで、腕が捥がれるかもしれない。喫茶店のマスターが落としたフォークで、天変地異が起きるかもしれない。


 そんな絶望的な世界である可能性が、この地には秘められているのだ。仮にゾーイが一般人だったとしよう。そして、ゾーイの強さがジルに準じた場合……この世界の成人男性諸君の強さが、それはもうとんでもないことになっていても不思議ではないであろう。


(神経を研ぎ澄まさなければならない。この地において、己こそが最弱であると仮定しろ。無様な姿を晒さないために、暫くは戦闘そのものは回避し、虚勢を張りつつ情報収集を行う。特に他の連中(シリル達)と……マーニの眷属を名乗っていたあの女やマーニ本神に関する情報は欲しいな)


 苦々しい記憶が蘇る。面子の中では俺が一番最後に意識を失った筈──ちなみに一番最初に意識を失ったのはドラコ帝国のモブ竜使族──なので、他の連中に直接敗北を見られた訳ではない。だが、それでも現実としてジルは敗北してしまったし、こんな状態に陥ってしまっている。


(……切り替えよう。とりあえず、当面の拠点を得る段階は完了した)


 ならば次の段階だ。俺が最も優先すべきは安全と拠点の確保だったが、その次に優先すべきは間違いなく情報である。


 月の世界の戦力もそうだが、今の俺は様々な方面の情報が欠けている。この世界の常識、価値観、思想、文化、文明、政治、権力者、経済、法律、社会構造、国という概念の有無……。これほどまでに無知な状態で生身のまま放り出されては、カルチャーショックなんて次元ではないショックを受けること間違いない。ゾーイに対する何気ない一言でさえ、戦争待ったなしになるかもしれないのだから。


(記憶喪失なんて言い訳がどこまで通じるかもわからん。「体に染み付いた行動で法律違反を起こすなら、それもう死刑でいいわよね」とか言われるかもしれん。……とりあえず、マーニを下げるような発言は避けねばな)


 より厳密には、マーニを下げるような発言をするしかなくなる状況に持ち込ませない立ち回りをするということである。ただまあ実のところ、NG行動に対してはある程度の目星があったりするので、そこまで問題視していない。


(教会勢力と接触していたことがここで役に立つとはな……)


 教会勢力は神々を信仰しており、その神の中には当然マーニも含まれているはずだ。故に、ある程度は通じる部分があるはず。少なくとも、参考にはなるだろう。


(とはいえ、教会と月は全く異なる文明発達を遂げているから油断は禁物。どういう形でこうなったのかはまるで読めんが……)


 ゾーイに気取られぬよう、扉の隙間から見える範囲で彼女の自宅を見やる。そんな俺の視線の先には、テレビやエアコンとしか思えないような家電が設置されていた。


(家の中を魔力が巡ってる様子はない。だが、エアコンは稼働しているようだな。それなのに扉を閉めないなど、なんて贅沢な使い方を……ではなく)


 頭の中でそろばんを弾いて電気代を試算している場合ではない。俺が考えるべきはゾーイの家計簿についてではなく、この世界の常識についてである。


(魔道具の類ではない。普通に電化製品と考えて良い感じか。教会勢力の宗教観と、前世のような文明社会の融合。だが、ここに神は実在している筈。……うーん)

 

 流石に推測は難しいな。やはり、ゾーイの拠点から出て直接見て回るのが手っ取り早いか。


(それにその方が、分からないことがあった場合ゾーイに対して的確な質問もしやすくなるからな。記憶喪失を装っている以上、当たり前のことでも質問をすること自体は違和感を与えない)


 だが、ゾーイにとって俺の存在はなるべく秘匿したいものかもしれん。何せ、不審人物だからな。なんなら俺自身もあまり姿を晒すのは好ましくない状況だが、それでもやりようはある。流石に、現時点で住人の全員と敵対することはないだろうし……それこそゾーイの口利きがあれば、ある程度の立ち回りは安全になる筈だ。


(故に、次にやるべきはゾーイが俺をどう取り扱うつもりなのかを探ることと、ゾーイ本人の意思で俺を外出させたと思わせるように誘導すること)


 外出して良いかどうかを尋ねるのはジルのキャラ的におかしい。記憶を失っていたとしても、ジルは間違いなく傲岸不遜な性格だからだ。一方で、勝手に外に出てゾーイからの心象を予期せぬ方向で悪くするのも避けたい。ゾーイの性質を考え、適切な方法は──


「できたわよ。朝ご飯」


 ──その前に、食事をいただこう。


 心の中で盛大な感謝を。されどそれを表に出すことなく、俺は悠然と食卓に向け足を踏み出した。


 §


「……健啖家すぎるでしょ」


 唖然とした様子で、ゾーイは目の前の青年の食いっぷりを眺めていた。眺めるしかなかった。


(偉そうな割に私より先に食べることをしなかったのは意外だけど、その辺の礼儀は弁えてるってことなのかしら……? と思った矢先にこれなの? この食事量は遠慮なさすぎるわよね? 家主私よね?)


 ゾーイがこうして考えている間も、青年の手は止まらなかった。大量に作って皿に盛った筈のミートボールは、もはや見る影もない。


(……いえ、猪肉に関しては支給されるからミートボールはまだいいわ。まだいいのよ。けど、野菜や魚は貴重なのよ……!)


 今も、青年の口にマッシュが次々と放り込まれていくではないか。この男、自重という言葉を存じていないのだろうか。ああ、鍋のクリームシチューが……。


(くっ、けどこれも情報。情報のためよ。なんか美味しいものを食べていたらこいつの記憶が戻るかもしれない。なんかドラマでそんな展開を見た気がする……!)


 恨めしく思いながら、ゾーイはコーヒーを口にした。心なしかいつもより苦い気がするが、多分気のせいだと言い聞かせながら。


 §


 働かざる者食うべからずという言葉をご存知だろうか。


 あり得ないレベルの聖人君子ならともかく、大抵の人間はただ飯食らいに対していい印象を抱かない。シンプルに、「金を払え」案件になるからだ。


(この世界が搾取上等滅私奉公万歳なブラック世界でないことを祈りたいが……。流石にマーニ相手以外なら対価は欲しいだろう? ……欲しいよな?)


 目の前の少女は、俺からなんらかの情報が欲しいと考えているのだろう。しかしその一方で、俺を表に出すことなく、可能な限り隠したいとも考えているかもしれない。


 その考えは理解できる。素性の知らない人間を連れ歩くなど、リスクが大きいからだ。権力者に見つかった際の対応も、非常に面倒だろう。


 だが、それでは俺が困る。この世界の情報を集めたい俺としては、監禁状態など不都合極まりないからだ。故に、その辺ははっきりさせておきたい。


(俺が勝手に外出しようとして、止められでもしたら面倒だ。ジルのキャラ像を考えると、戦闘待ったなしだからな)


 故に、遠回しにそれを確かめる方法こそが、この大食いである。決して、非常に美味しかったから食べすぎた訳ではないのだ。決して、月の世界の食材は素晴らしいなとか思っていないし、ゾーイを料理人として雇うことを検討なんてしていないのだ。


「ふっ。中々に、良いものだった」

「……」

「貴様は私を満たした。故に、褒美をやろう……と言いたいが」

「……」

「現在の私は無一文だ。許すがよい」

「…………」


 さあ、言え。ただ一言、「働け」と。お前が(ジル)を秘匿したいと考えてもいない限り、お前はそう言う筈。そしてそれを足掛かりに、俺は情報収集を──


「あんた、身分証明書ある?」


 ないです。

異世界転移(して自分を保護してくれた異世界人に対してめちゃくちゃ猜疑的で、なんなら異世界そのものに対しても猜疑的でカルチャーショックにめちゃくちゃ慎重になる)系主人公の物語開始です。

矛盾あれば修正します。

マーニの影響を考慮して普段とは微妙に異なる言い回しをしてるジルにあなたは気付けるか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この作品に気付いて、一気に読んでしまった。 とても面白いです。
[良い点] 更新ありがとございます。 とりあえず図太すぎる自称記憶喪失ジル様好き
[良い点] 意味不明な状況下でも遺憾なく発揮される ジル様っぷりがいいですねw [気になる点] まさか「エアコン」をはじめとした近代家電まで 登場するとは・・・ やはり、地上とはまったく違う環境なんで…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ