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パッセは、再びグロッセトのスラムにいた。
すでに日は沈み、ただでさえ陰気な街並みが、取り壊し寸前の工場のように、黒と灰色のストライプ模様を浮かべ、闇のなかに横たわっている。
時折り錆びた窓から、薄明かりと住人の話し声が漏れてくる。
調査の結果、ノーキンの母親はこのスラムにいるとの情報を得た。
「まさか、ここにいたとはな」
ノーキンの母親は、知人の誘いで始めた投資に失敗した。
失敗したというより、騙されたようだ。莫大な借金を抱え、所持していた土地も財産も全て売り払い、ここに身を寄せた。
それが半年ほど前。
しかしノーキンは、母親がグロッセトに越してきたことを、仲間の誰にも語らなかった。
「母親と逃げるつもりだったのか」
昨夜、ノーキンがスラムに逃げ込んだ理由が判った。恐らく、ヘロインは母親のもとに隠してあるのだろう。
だが撃たれ、死んだ。
ここで。
パッセはノーキンが落ちた運河のほとりに立っていた。
すでに死体はない。
「母親は、余程のお人好しだったようだな」
ほんの少しでも知恵を働かせていれば、詐欺になど遇わずに済んだろうに。
「お人好しの母親を持つと、子供が苦労する」
パッセは、暗い運河に向かって、自嘲気味に語りかけた。
淀んだ運河の匂いと、微かな水の流れが、答えるように風に乗って漂ってきた。
路地裏から、不規則な足音が聞こえてきた。
「……!」
パッセは咄嗟に振り返り、拳銃を抜いた。
出てきたのは、昨夜の杖を突いた老婆だった。
肩の力を抜く。
「婆さん。また出歩いてるのか」
「ええ?」
「ご苦労なことだな」
目も耳も足腰も、そして頭もボケているというのに。
パッセは苦笑する。
「俺の母親も、生きてれば婆さんくらいか」
「あ? まだ飯は食ってねえよ」
「今夜もシチューか、婆さん」
そのとき、老婆が不意によろめいた。
パッセは思わず駆け寄った。
小柄な体は予想以上に軽かった。枯れ木のようだ。
顔は皺だらけだった。髪は艶を失い、杖を持つ腕は、風が吹いただけで折れてしまいそうに心細かった。
「さっさと帰った方がいい」
そう言って、パッセは老婆の体を支えた。
「聞いても無駄だと思うが……ノーキンのいう男の名を聞いたことがないか?」
苦笑する。相手をしているだけ、時間の無駄だ。
「知ってるよ」
その瞬間、空気が凍りついた。
老婆の右手に小さな拳銃が握られていた。
その拳銃が火を吹いた。
ドン!
腹部に強烈な衝撃を受け、パッセはその場に膝を突いた。
「あ……」
声が出なかった。
腹から、熱い血が堰を切ったように溢れて、スーツを内側から染めていく。
目を見開き、パッセは老婆を仰いだ。
「あたしがノーキンの母親だよ」
「騙した…のか……」
「あんたらが勝手に勘違いしただけさね」
体が熱い。
呼吸が苦しい。
パッセは咳き込んだ。
黒い塊が口からこぼれた。
「じゃあ、迎えにきてたあの女も……」
「あの子は、本当によくしてくれたよ。ノーキンのことも心から愛してくれてた」
「情婦は一人とは限らんか……二人とも、たいした演技りょく…だ……」
だんだん声が出なくなっていく。
視界が白く濁ってきた。
「夕べあの子が止めてくれなきゃ、あたしゃ、あんたに返り討ちにあってたかもね」
「女は恐ろしい……」
パッセは薄く笑った。
もう体に力が入らない。徐々に痛みを感じなくなっていく。
不思議な快感が、パッセの体を包み込んだ。
老婆が、彼の頭を抱いているのだった。
「あたたかい……」
温もりを宿した滴が、額に落ちた。
「泣いてるのか、婆さん」
「ばかだよね、あの子も。こんな年寄りのためにさ」
「それが、あいつの生き方だったんだ……」
「あんたもさ。こんなことしてたって、母親はちっとも喜びやしないんだよ」
「……だろうなあ」
もう何も見えない。
何も感じない。何も聞こえない。
いや。
どこからともなく音が聞こえる。
ドン、ドドン。
ドン、ドドン。
……銃声だろうか。
ドン、ドドン。
あれは花火の音だ。
おかしい。
夏至の祭りはもう終わったはずだ。
ドン、ドドン。
パアン。
やっぱり花火だ。
「……花火だよ、ママ」
パッセはか細い声で呟いた。
「花火があがってるよ」
ドン、ドドン。
「どん、どどん」
パッセはその音を追いかけるように、口ずさんだ。
「どん、どどん」
「どん、どどん」
誰かの声が重なる。
それは老婆の声でもあるし。
懐かしい誰かの、囁くような美しい声でもあった。
「どん、どどん」
「どん、どどん」
夜空に大輪の花は見えなかった。
花火の音だけが、いつまでも聞こえていた。
(完)