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長い一日

カチャカチャと一定の速度でキーを打つ。


いつもよりゆっくりと時間をかけて画面を埋めていく。


単純な作業をする程に幸恵ゆきえの心は落ち着いていった。


それでも、今以上に意欲が湧いてくる事はなく、記憶していたコードの半分まで打ち終えると逃げるように席から離れた。


セキュリティカードをかざして事務所のドアを開けると、昼休憩を取りに外に出ようとする社員達がエレベーター周りで揃って順番待ちをしている。


幸恵は朝から何も食べていない事を思い出したが、どんなメニューを想像しても空腹感が呼び起こされる事はなく、当然のように足はコーヒーショップへと向かった。


気つけ薬の代わりに熱いコーヒーをブラックで頼み、側のカウンター席に座って少しすする。


ーー 今回は長いな。


やたらと進みが遅い時間に辟易しながら、手元のカップを無言で見つめた。


壁に向いたテーブルのお陰で現実から少し距離を置けた様な気がして安心したが、距離を置くほどに自分だけが世界から切り離された気がして不安になっていった。


不安をかき消そうと携帯電話を取り出してみても、知った内容ばかりのニュースが羅列されている事を想像して、結局何もせずにテーブルに伏せる。


幸恵はコーヒーを飲み終えると、そのままの姿勢で固まった。


自分が何をすれば良いのか、一秒先の事でさえ分からなくなっていた。


ようやく動いた手は、携帯電話の画面を表示するので精一杯だった。


伏せた目に映る画面上の時計は、事務所に戻るには少し早い時間を示している。


ーー どうしようかな……


答えをあれこれ探してみても見つかる気配はなく、仕方なく少し遠回りしながら事務所に戻った。


席に着いてパソコンのロックを外すと、さっきまで見ていた画面がそのまま表示された。


打ち込まれたコードを見直し、テスト画面でレイアウトや修正箇所を確認する。


少し手直しをしてから、もう一度テスト画面を確認すると先方の依頼通りのページが画面に表示された。


ーー とりあえずこれでいいでしょう。


出来上がったものではミランド社側は納得しない事を分かっていたが、そのまま高崎たかさきに完了の報告と確認依頼のメールを送った。


ふう、と軽く息を吐き、今日の明確なタスクを一つ終わらせた事に安堵すると、目標を失った不安に突如襲われ、止まっていた手を即座に動かして必死でメールを読み漁った。


後回しにしていたメールの返信を一つずつこなしていく。


同僚に最低限のセリフで高下コーポレーションとのミーティングの日程を伝えると内線がかかってきた。


「はい、吾妻あづまです」


「高崎です」


「お疲れ様です」


「お疲れ様。ミランド社の件だけど、共有ありがとう。一先ずこれで送っていいと思う」


「承知しました」


「また担当者と調整してもらって、その後の対応は任せるからお願いね。別件で向こうの伊東さんと今日会うから、一応軽くお伺い立ててみるよ」


「承知しました」


「じゃあお願いね」


「はい、失礼します」


高崎との電話が切れると、ミランド社の担当者宛にメールを送った。


時計はようやく午後三時を過ぎたところだった。


次々に届くメールを捌きながら、納期がまだまだ先の案件を引っ張り出してコードを少しずつ打っていく。


何度作っても一向に進まない案件よりも、いくらか気持ちが切り替えられ、周りと同じ時間を過ごしているような気さえした。


幸恵はプログラムコードを打つ作業がどの業務よりも好きだった。


普段であれば、仕事でどんなにストレスを抱えても、取引先に厳しい言葉をかけられても、コードを打っている時は自分だけの世界を構築しているような気持ちになって心が弾んだが、今の幸恵にとっては単なる現実逃避先にしかならなかった。


画面のアルファベットやら記号に集中して電子の世界に入っていくと、タイムマシンさながらに時間が猛スピードで過ぎて行く。


提出する事も叶わないだろう、自己満足のテスト画面を作り終えると、定時まであと三分に迫っていた。


簡単に業務報告をすると、時計を確認して席を立つ。


「 お先に失礼します 」


「 お疲れ様でーす 」


同僚の声を背に事務所のドアに向かうと高崎が入ってきた。


「 あ、吾妻もう帰り?」笑顔で高崎が声を掛ける。


「 はい、お先に失礼します」


「 そういえば、さっきミランド社の伊東さんとミーティングしてたんだけど、吾妻の仮案もう少し調整入りそう。また、担当から連絡させるって」


高崎は声にも顔にも表情を出さずにまっすぐ幸恵に向かって言った。


「 分かりました。では、お先に失礼します」


予測可能な高崎のセリフは、耳に届いてもBGMのように聞き流されていく。


幸恵は無理に会話を切り上げるかのように少し頭を下げると、ゆっくりと高崎の横をすり抜けて事務所を出た。




薄暗い夕方をそんなに多くないビジネスマン達が無秩序に歩いている。


少し離れたところに見えるカフェやらリストランテには可愛らしい装飾がされ、バレンタインデーの特別メニューが立てられていた。


幸恵は他人事のように眺めながらたっぷりと時間をかけて歩く。


善雄が待ち合わせの店に来るまで一時間十分。


周りとは雰囲気の違う少し地味なカフェを見つけると、幸恵は予約したフランス料理店の高いコーヒーを思い出し、迷わず店に入っていった。


コーヒーがサーブされると、予約時間を変更してもらうために店に電話をしてから、善雄にもメッセージを打つ。


ーー (仕事で少し遅れそう。お店には連絡したよ)と……


携帯電話をテーブルに置くと、カップに手を添えたまま目を瞑った。


幸恵は自分に与えられた無限の時間を浪費する事に何のためらいもなくなっていた。


むしろ、自分に課せられた責務のごとく、ただひたすらに耐え忍んだ。

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