寄生
「レウコクロリディウムって虫を知ってるかい?」
降辺拳は、高級そうに見えるウッドチェアに腰掛けて、楽しそうに切り出した。
「まぁ、普通は知らないよな。じゃあ、カタツムリは知ってるだろ。そのカタツムリを家にしちゃう寄生虫が、レウコクロリディウムって奴。何を隠そう僕も寝床にしているこの質草屋の寄生虫みたいなもんだ。なぁ、琢己くん」
口を開けて、ガハガハと笑う。降辺が機嫌のよい証拠だ。
琢己は一呼吸おいて切り返す。
「フルさんは、れっきとした質屋の主でしょう。お店だって繁盛してるんだし、寄生虫と一緒じゃないですよ」
フルさんこと降辺拳は、江戸時代から店を構える質屋「ひちや」の7代目店主。ただ、お店は番頭に任せて、奥の書斎で一日中、本を読んでいる。そして、ほとんど外に出ないという変わり者だ。しかし、質屋という店柄、いろんな人種とかかわりがあるらしく、人脈は広い。とくに警察関係。以前に、難解事件を現場にも行かず、推理、解決させたことがあり、その手の相談にくる刑事も多い。琢己もこの書斎を通じて知り合った刑事から情報をもらうことが少なくない。しかし残念ながら、今日の客人は琢己ひとりのようだ。
「レウコクロリディウムはただの寄生虫じゃない。寄生されたが最後。そのカタツムリに意思はなくなる。レウコクロリディウムがカタツムリを意のままに動かしてしまうのだよ」
「意思がなくなる?」
「すまん、少し訂正する。意思はあるが、その意思をコントロールされてしまう。琢己くん、意思を決定しているところはどこだかわかるかい?」
自分の意思を決めているところ。フルさんとの会話はいつもこんな感じになる。
「脳ですか?」
「違う。意思を決定しているのは、心だよ。では、琢己くん、心はどこにある?」
心の場所。琢己は、自分の心臓の部分を指差した。
「違う。正解は、ここ」
降辺は、自分の頭をなでた。
琢己は少し前かがみになりながら、言った。
「脳じゃないですか。さっきは違うって」
「脳と心は別物だよ、琢己くん。生き物は目や耳だけでなく、全身の感覚を使って、外からの情報を仕入れてくるだろ。その量は半端ないし、見境もない。その膨大な情報の交通整理をして、わかり易く戸棚に整頓するのが、脳の役目だ」
ここまで話してから、お茶をすすり、続ける。
「その整頓した情報を、『心』へ送り届けるのも、脳の仕事なのさ。例の寄生虫は、その脳を攻撃する。平たく言うと、心へ届ける情報をコントロールしてしまうのさ」
「カタツムリはどうなっちゃうのです?」
「目立つように木の枝のてっぺんに登り、鳥に捕食されるのを待つ。レウコクロリディウムは、鳥の体の中で卵を産むようにできている。鳥の体の中に入るための手段として、カタツムリを誘導する方法を体得したんだよ」
「う~ん、それはカタツムリだから、なし得ることでしょう。人間に寄生して脳を攻撃する虫なんて聞いた事がない」
降辺は、大きなため息をついた。
「そんな虫はいないよ。というか、人間を誘導するのに、わざわざ寄生する必要はない」
話の方向性がずれた。今日はフルさんの話術に乗っかることにする。
「催眠術とかですか?」
「そんなあやしい術に頼らなくとも、誘導することはできるぞ。さっき、脳については説明をしたからいいとして、心についての解釈。心とは、脳の上位にあたる司令部だ。脳から提出された情報をもとに、答えを出す。怖いのは、出した答えを精査できないこと。仮に脳からの情報が間違っていたとしても、心はわかりようがない」
「勘違いということ?」
「違う。心は、勘違いをしていることすら、わからない。脳からの情報を鵜呑みにして、答えを出さなければいけない。恋愛で例えてみよう。君が今日、ここにきた理由も、その手の相談だったよな」
そうだった。鹿児島大吾失踪事件についてアドバイスを求めにきたんだった。
「つり橋理論ぐらいは知ってるだろ?」
「えっと、つり橋を渡ったことによるドキドキ感を、一緒につり橋を渡った相手へのドキドキだと勘違いし、恋愛感情だと思い込んでしまうこと」
「正解。ただ、この理論は100%ではない。脳が的確に心へ情報を発信したのなら、恋愛感情など生まれない。脳が間違った情報を心へ伝達したときに起こりえること。このケースは、つり橋のドキドキという外部からの情報が、過去に経験した恋愛のドキドキに似ていて、本来ならつり橋のドキドキという新しい引き出しを作らなければいけないのに、すでにある恋愛のドキドキの引き出しを開けて、心に送ってしまった。いわゆる脳のミステイク」
ここまで一気にしゃべり、お茶の飲み干す。
「この理論で重要なのは、理論と定義できること。こういう条件さえ整えば、人間の脳は、過ちを犯すことの証明。人間の脳なんて、こんなものなんだよ」
「だからといって、人を誘導するのは簡単じゃないでしょ?」
「もちろん、簡単ではないよ。でも、条件さえ整えば、動かすことはできる。そのキーワードはなんだと思う?」
「ぜんぜんわかりません」
「言葉だよ、琢己くん」
「言葉?」
「人は言葉に惑わされる生き物。口は災いのもと。場とタイミングさえ間違わなければ、言葉だけで人を動かせる。良いようにも悪いようにもね。で、君の持ってきた人探しの件だけど、今まで君が集めた情報だけでは断言はできないけど、事件になっている確率が高いぞ」
「事件っていうのは、誘拐とか?」
「違う。殺人。もし、殺人だとしたら、構図は単純だ。露見した瞬間に、実行犯は捕まる。でも…」
「でも…?」
フルさんが妙に深刻な顔になった。
「その奥には、厄介な寄生虫がいる」
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