はじまり
寒い……
すごくさむい……
鹿児島大吾が感じた人間として最後の感情だった。
徐々に開いてきている大吾の瞳孔は、
ガラス玉のようにひとりの男を映し出している。
男は、震えながら大吾を見下す。
遠くを走る環状道路からは
トラックのけたたましいクラクションが鳴り続けている。
真っ暗闇の中、風が動いた。
一瞬だけ、月明かりが大吾の顔を照らす。
その瞬間、大吾の口角がキッとあがった。
笑った。
男は嗚咽をぐっとこらえた。
そして、
2、3歩後ずさりしたあと、光を求めて闇へと消えた。
闇から車のエンジン音が響く。
無音になる。
闇の中、
大吾は笑い続ける。
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「真っ黒です。これが証拠の写真、そしてDVD。えっとDVDはサービスです」
琢己コスナーは、安っぽいテーブルの上に、
男と女がよりそっている写真を広げた。
琢己の向かいに座っている女は、俯いたまま。
「奥様、これが事実です。そして、当探偵事務所でお引き受けしたご依頼はここでクローズでございます。もし、今後、法的手続きにお進みになれるのなら、弁護士をご紹介いたします。えっと、これもサービスです」
琢己は女を見る。
浮気調査を依頼する女は、美人が多い。
もちろん、ファッションにも敏感で、
調査報告を聞きにくるときは、決まってコンサバ。
そして、結果が判明するまでは、いじらしくしているが、
クロとわかった瞬間に、豹変するのがお決まりのパターンだ。
「弁護士を紹介して頂けますか」
ほらきた。
「サービスでございます。このあとの事務手続きは、あそこに座っているぼっちゃりちゃん、えっと事務の女性と話してください。それでは」
琢己は、パイプ椅子から立ち上がり、
奥の執務室へと向かう。
執務室といっても、デスクの上にノートパソコンしかない。
しかも、4畳。
コスナー探偵事務所を立ち上げて3年。
駆け出しのころは、名前で仕事がくるわけもなく、
先輩探偵のおこぼれだった浮気調査をがむしゃらにこなしていた。
そのうち、浮気ならコスナーという噂が口コミで広がり、
単独でお客がくるようになった。
今では、本人の意に反して
業界では浮気調査のアンタッチャブルとして名前が響いている。
ちなみに、コスナーは、本名。
父親がケビンコスナーに似ているとの理由で、
母親が勝手につけたらしい。
その母は、父の浮気が発覚して、発狂。
ほかに男を作って出て行ったらしい。
俺が3歳のときの話らしい。
デスクに座り、つけっぱなしのノートパソコンを開く。
仕事の予定を確認。
浮気調査の文字が並ぶ。仕事のほぼ100%が浮気調査。
もううんざりだ。
カランコロン。
玄関ドアが開いた音がした。
さっきの奥さんが帰った音だ。今日は修羅場だな。
DVDなんてサービスしちゃったから、やばいかもなぁ。
「……しょちょう! 所長! お客様ですよ」
遠くからぽっちゃりちゃんの声がする。
「所長!」
「お客? そんな予定な…」
「予約なしのお客様です!」
怒っている。
やはり、あのぽっちゃりがいけなかったか。
あの雰囲気では、お茶も出てこないパターンだ。
まぁ、いい。また浮気調査だ。
「お待たせしました。所長の琢己です」
女は軽く会釈をして、渡したたての名刺をじっと見ている。
美人だ。
白いチュールスカートに花柄ブラウス。
20代後半もしくは30代前半。
確実に浮気調査だ。
琢己は心の中で、ためいきをついた。
「あの……」
依頼人の方から切り出してくるのは、珍しい。
「はい」
「あの……この人を探してほしいんです」
すらっとした指には、指輪がない。
その変わりに、写真が一枚。
若い男が写っている。
「探す?」
「だめでしょうか?」
「だめじゃないです。ぜんぜんだめじゃないです。お任せください。業界では人探しのアンタッ」
ドン!
「どうぞ、お茶です!」
ぽっちゃりちゃんの背中から湯気が出ている。いや、これはお茶の湯気か。
どちらにせよ、今日は早く帰らなければ。
「お願いします、この人を探してください」
「ちょっと待ってください。まずは少しだけ情報をください。
本名でなくても結構ですので、お客様のお名前を」
「あっ、ごめんなさい。……私は醍条明菜といいます。
「だいじょうさん、とお呼びしてよろしいですか」
「はい」
琢己は、あらためて写真を見てみる。
いい男だ。今でいうイケメン。
「この彼については、詳しく聞かせていただけますか」
「…はい。彼は……恋人です。でも、2週間前から連絡がとれなくなって…」
よく見ると、明菜の顔は真っ青になっている。
「あわてないで、ゆっくりと話してください。彼のお名前は?」
「…はい。……名前は、鹿児島大吾。
先生……大吾を、大吾を探してください」
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