この生はやり直しのようなので、前生を生かし、婚約を辞退しようと思います。
序、
「お父様、申し訳ありませんがその婚約、辞退させてくださいませ」
わたくしがはっきりと申し上げますと、お父様はうっかり気絶してしまわれました。
一、
「エルヴァーラ、どういうことだ」
謁見の間から移り、お父様の寝室。ベッドの上に横たわるお父様は、気絶した時に頭を打ったというのに、心配するわたくしたちを余所に、とても元気でいらっしゃります。
それどころか、今にもわたくしの肩を揺さぶらんばかりの勢いです。元気なのは大変良い事ですが、もう少し安静にしていて欲しいと思うのは、わたくしだけではありません。
主治医のブルクハルト先生は、そわそわしていて落ち着きがありませんし、侍女のゲルダに至っては、今にもお父様を押さえつけて、寝かしてしまおうかと考えていそうです。
わたくしがこの部屋から退出すれば良いのでは、と思いました。けれど、お父様がわたくしのドレスを掴んで離さないのです。困ったことになりました。
困惑顔のわたくしに、お父様はきっと勘違いなさったのでしょう。「アスマンの王子だから嫌なのか、それとも第三皇子というのが気にくわないのか?」と矢継ぎ早に質問してきます。
……いいえお父様。そのどれでもないのです。とは口が裂けても言えません。わたくしは、曖昧に微笑みながら口は噤んだままでいました。
「姫様、事情をお話しませんと、陛下は納得しないと思いますが」
ゲルダの言うことは最もです。ですが、どういったものか、とわたくしは悩んでしまいます。
その理由は簡単です。わたくしがアスマン帝国の第三皇子、ギルベルト・マテーウス・アスマン様との婚約を辞退したい理由が、前世起因であるからなのです。
いいえ。前世と言いますより、十数年後の未来といったほうが良いのでしょうか。悩ましいところです。
前世と言いますと、まるで別の人の生でありますものね。わたくしの中にあるのは、わたくし――エルヴァーラ・リーデルシュタインとして生きた記憶なのですもの。
わたくしの中にあるエルヴァーラは、悔いていたのです。
どうして、ギルベルト様を悲しい目に合わせてしまったのか、と。
ずっと、ずっと、何十年もその思いを抱えたまま、けれど何も出来ずに死んでしまったのです。
と言いますのも、ギルベルト様には国に想い合った方がおられたのです。けれどもわたくしとの結婚が決まり、泣く泣く別れて、この国に来たのです。それをわたくしが知ったのは、結婚してから。
当然、進言いたしました。流石にそのままお伝えすることはできませんので、愛妾をお迎えになってはいかがですか、と。
婿養子ですので、ギルベルト様も、愛妾との間の子も、リーデルシュタインでの継承権は認められません。ですけれど、愛妾を迎えることは出来ます。過去遡れば、十三人もの愛妾を抱えた婿養子の王などもおりますもの。
だからわたくしは、てっきりギルベルト様もお迎えになるものだと思っておりました。それで愛妾だけを贔屓にしたところで、その時すでにわたくしは王子を産んでおりましたから、問題はありません。
少し寂しくはありますが、むしろギルベルト様と恋人の方に申し訳ない気持ちでいっぱいだったわたくしは、愛妾として恋人を迎えて頂く気満々でした。だというのに……。
「ため息など吐かれて……それほどこの婚約が嫌なのですか」
ゲルダの声に、現実へと引き戻されます。わたくしは首を振りました。
「違うのゲルダ。そうじゃないわ」
「では、どうしてですか?」
ゲルダ、お父様、それから何故かブルクハルト先生。この部屋にいる全員の、疑問と好奇に満ちた視線が、わたくしを貫きます。
仕方、ないのでしょうか。うまく記憶があることは隠して、お伝えする他ないのでしょう。わたくしは腹を括りました。
「アスマン様には、国に恋人がいるのでしょう。だから、わたくし、その方と引き裂いてしまうのが、どうにも耐えられなくって」
「ギルベルト殿下に恋人? いいや、わしはそんな話聞いたことないぞ」
お父様は、不思議そうな顔をしながら言います。それに続いて、ゲルダも同意の言葉を紡ぎます。
わたくしは首をかしげました。まさかそんな。いいえ、きっとギルベルト様はうまく隠していらっしゃるのです。以前もそうでしたから。
「お父様、アスマン様は皇子であらせられますから。公にされていなくても、当然です」
「いや、しかしなあ……」
渋るお父様。ですが、わたくしは引きません。これは真実なのです。たとえ今いらっしゃらなかったとしても、この先で出来るのでしょう。
となるとやっぱりそれはギルベルト様と想い人の中を引き裂いてしまうことに、他なりません。わたくしは、そんなこと、耐えられないのです。
強固な姿勢を崩さないわたくしに、お父様は困った顔をなされました。
「では、殿下に恋人がいたとしよう。けれどそれは婚約を取りやめる理由にはならんのだよ。恋人には愛妾に収まってもらえば良いわけだからな」
エルヴァーラが愛妾は認めぬ、というなら話は別だが。続いたお父様の言葉に、わたくしは首を振ります。
「わたくしではなく、アスマン様が、アスマン様の意思でお迎えになりませんでしょう」
「どうしてそう言えるのだね?」
うっかり失言してしまいました。わたくしは、お父様の切り返しに、背筋に冷たいものが伝うのをはっきりと自覚します。
「アスマン様は、とても誠実な方と聞き及んでおりますから」
「確かに、そうだろうがな」
どうやらお父様には納得していただけたようです。わたくしは、ホッと胸をなでおろします。
「まあ、しかしそういう理由ならこの婚約は成るだろう」
しかし、続いた言葉にわたくしは、はしたない声をあげそうになってしまいました。
「どうしてです、お父様!」
はしたない声はぐっと喉の奥に押し込めて、代わりに疑問の声をあげます。けれどどこか悲鳴めいたものになってしまったのは、仕方ないとはいえ失態です。ゲルダの非難めいた視線が、痛いです。
「どうしてもこうしても。殿下とお前の結婚は、国同士の政治的な意味合いも強い。それは、お前もわかっているだろう?」
「それは、そうですけれど」
アスマンもリーデルシュタインも、とりたてて仲が悪いとか、そういうことはありません。むしろ平和そのもので、仲も良い方でしょう。
それでも、そういう話が持ち上がるのは、いつ何時裏切らぬとは限らぬからです。
随分昔のことになりますが、他国にそそのかされた両国が、争った歴史があります。それまで、良好な外交をしていたのに、です。
ですから、その終戦以降、定期的に花嫁花婿に、王族を差し出す風習が出来たのです。
以前はリーデルシュタインの王女であったわたくしのおばあさまの妹が、アスマンに嫁いだと聞きます。
ということは、順番から言って次はアスマンの皇子か皇女がリーデルシュタインに嫁いでくる番になります。
ですが現在、リーデルシュタインに年ごろの王族はわたくしだけ。つまり、必然皇子が我が国に来ることになるわけです。
第一皇子殿下は、皇太子でありますし、第二皇子はすでにご結婚されていらっしゃります。第三皇子の下に、お二人皇子がいらっしゃると聞きますが、わたくしとは十も離れているらしいのです。
となると、わたくしの結婚相手は必然的にご結婚もされておらず、婚約者もまだ決まっていない上、年も近い第三皇子に限定されてしまいます。
……なんたることでしょう。本当に、八方塞がりです。
「まあそういうことだから、近いうちにギルベルト殿下が我が国に来られる。婚約の発表は、殿下がこちらに慣れてから――半年くらいを考えておるので、その間、殿下の世話を任せたぞ」
それは、その間に仲良くなれ、ということなのでしょう。わたくしにもう拒否権はありません。
こうなったら、ご本人に直訴するしかないでしょう。わたくしは沈んだ声で、返事をしました。
二、
「お出迎え感謝します、エルヴァーラ様。私がアスマンが第三皇子、ギルベルト・マテーウスです」
艶のある銀糸に、薄くガラスの様に透き通った水色の目。腰まである長い髪は緩く一つで結ばれていて、それがどうしようもなく似合っている。
それが、ギルベルト・マテーウス・アスマン様という人です。
優雅にお辞儀をするギルベルト様の美しさに、わたくしはため息が出そうになるのを堪えながら、お辞儀を返しました。
お父様の宣言から二週間ほど。やっぱりわたくしの希望は通ることなく、お父様の言った通りギルベルト様はリーデルシュタインにやってこられました。
わたくしの胸中は、もう申し訳なさでいっぱいです。
きっと、もうアスマンにいる恋人、あるいは想い人とは別れをつげてこられたのでしょう。……胸が、痛みます。
ごめんなさい。口に出すことはできませんでしたが、心の中で何度も謝罪を繰り返しました。
「ようこそ、リーデルシュタインへ。ご存知でしょうけれど、わたくしがリーデルシュタインの第一王女、エルヴァーラ・リーデルシュタインです。アスマンと違って、あまり観光できる場所もございませんけれど、どうぞゆっくりおくつろぎくださいませ」
わたくしは、うまく笑えているのでしょうか。わかりません。
でもギルベルト様が、綺麗に微笑んで下さったので、きっとわたくしの笑顔も失敗していないのでしょう。
……良かった。わたくしは、胸をなでおろしました。
「リーデルシュタインの魅力は、緑あふれる自然です。ですからエルヴァーラ様、出来ればあなたがおすすめする、綺麗な景色を私に見せて欲しいのです」
なんということでしょう。未開拓地が多いだけのリーデルシュタインをこんな風に言ってくださるなんて。さすがギルベルト様です。
ですが、リーデルシュタインにあふれる自然が好きなわたくしは、自然と頬が緩みます。
――そう。ギルベルト様が恋人とお別れになった悲しさを押し込めて、少しも表に出すことなく、その上リーデルシュタインを褒めていくださっているんだ、なんてことなど忘れて。
「勿論です。近いところですと、この王宮にある庭園がとても綺麗ですし、王宮の上の方から見える景色も絶景ですわ」
「王宮の上の方から見える景色、ですか」
ギルベルト様は興味深そうに頷きます。そうですわよね。気になりますわよね。大体リーデルシュタインにお越しになられた皆様は、まずそこに食いつきますもの。
わたくしは少し得意げに笑いました。
「よろしければ、今からご覧になられますか?」
「そうですね。ですけれど、庭園の方も気になりますし」
どうやら、ギルベルト様は迷っておられる様子。顎に手を当てていられる姿は、それはそれは絵になります。
元より、文句のつけようがないほどの美男子であらせられます。ですから、当然といえば当然なのですけれど……わたくしは思わずほう、と感嘆の息を漏らしてしまいました。
「エルヴァーラ様、あなたはどちらの方がおすすめでしょうか」
「どちらも甲乙付けがたいですが、あえておすすめするなら王宮の上階から一望出来る景色ですわ。ですけれど」
わたくしは、そこで一旦言葉を切ります。
「まだ時間もありますし、庭園は此処から近うございます。なので、庭園から回るというのは、如何でしょうか」
少しだけ首を傾けて、ギルベルト様を伺います。時間的に余裕があるとはいえ、来て早々歩き通しにさせてしまうのです。
少しでも渋る様子を見せたのなら、どちらか一方だけに絞ろうかと思いました。
けれど、ギルベルト様は渋る様子は見せません。
それどころか、その美しいお顔にそれはそれは、綺麗な、誰しもが見とれてしまいそうなほどの笑みを浮かべられました。
「とても良い提案です。是非、そうさせていただきたい」
嬉しそうな声。しかしすぐに、ギルベルト様は眉尻を申し訳なさげに下げられました。
「ですが、そうなるとエルヴァーラ様のお時間を、たくさん頂くことになってしまうのでは」
なんということでしょう! こんな……こんな、政略だけの繋がりで、おまけに今日会ったばかりの女などを心配してくださるだなんて。
ギルベルト様は、やっぱり知っていた通り、昔――と言って良いのか分かりませんが。昔と寸分変わらず、とても優しいお人でした。
……だから、だからこそ。だからこそなのです。
ギルベルト様には、お好きな方と幸せになっていただきたい。いいえ、なっていただくべきなのです。
わたくしのような者と、政略で結婚していいはずがない。
……ご案内が終わったら、ギルベルト様に提言致しましょう。わたくしは、心にそう決めました。
その時、ちくりと胸の奥が痛んだのは、きっと気のせいです。
わたくしなどが、そんな風に感じて良いわけがありません。
だから気付かなかった振りをして、そっと胸の奥に仕舞い込みました。他でもない、わたくし自身のために。
三、
「庭園と聞いていましたが、これは……まるで、一種の芸術ですね」
ギルベルト様は感嘆したような声を上げました。
自分で作ったものではありません。けれど思わずそうでしょう、と声を高くして自慢したい気持ちに駆られます。
――ギルベルト様をお迎えした場所から、歩いて数十分。
いくつもある庭園のうち、もっとも美しいとされる庭園へとご案内しました。そうして、ギルベルト様が仰ったのが先ほどの言葉。
わたくしも満面の笑みを浮かべてしまう、というものです。
「たくさん庭園はありますし、そのどれもが素晴らしいのですけれど。やっぱり、此処が一番綺麗だと城で働く者は勿論、民も言いますわ」
「もしや……」
「ええ。城の庭園は、誰でも自由に出入りすることが出来ますの」
驚いた様子のギルベルト様。当然でしょう。庭園を訪れるには、城の中を通り抜けたりしなければなりません。
つまり、機密溢れる城の中を、民が自由に歩いているということ。普通ではありえない光景でしょう。ですが。
「一階部分は、国立図書館や意見所など。民が必要とするものだけを置いて、謁見の間などはおいてません」
先ほど、階段を降りていただいたでしょう? わたくしの問い掛けに、ギルベルト様は納得したように頷かれます。
民は徒歩。要人や貴族は馬車。その違いを利用して、入ってくる場所から変えたのです。
民は一階裏口から。要人貴族は三階正面から。つまり城は、それなりの高さを誇ります。
だからこそ、王宮の上階からの眺めが絶景なのです。
「あれほど厳重な警備とセキュリティの理由がわかりませんでしたがなるほど、そういうことだったのですか。リーデルシュタイン王族の方々は、とても粋なことを考えられましたね」
すっかりギルベルト様は感心した様子です。わたくしが褒められた訳ではありませんが、嬉しくなります。
「エルヴァーラ様と結婚、というだけで光栄だというのに。おまけにこんな素敵なリーデルシュタイン王族に私も名を連ねられるとは、本当に光栄なことです」
嬉しそうに。それはもう、本当に嬉しそうににこにこ笑うギルベルト様。
――やめて。勘違いしてしまうから。そんな風に下手に出なくたって、大丈夫なのよ。
他国に嫁ぐ。たとえそれが仲の良い国であったって、何があるか分かりません。
だから、相応の覚悟と、相手に気に入れられる努力が必要なのでしょう。
分かります。分かりますけれど――ギルベルト様がそんなことする必要は、ないのです。
それどころか、そんな風にしかわたくしは見てもらえないのだという嫌な気持ちが芽生えてしまう。ああ、なんて浅ましい。
顔に滲みそうになる気持ちを、ただひたすらに堪えるしかありませんでした。
わたくしは、ギルベルト様を幸せを願っていたはず。そのために、婚約を辞退しようと意気込んでいたのでしょう?
なのに、どうしたの。わたくし。
――ええ、知っています。そんな自問自答しなくとも。
……わたくしは、前の生からギルベルト様が好きでした。好きだったからこそ、彼と想い人を引き裂いたことを、悔やんでいたのです。
でも、このギルベルト様はわたくしが好きだったギルベルト様ではありません。
前の生の、ギルベルト様とは別人なのです。
わたくしは必死に言い聞かせました。
でなければきっと――また、彼に恋をしてしまう。あるいは、彼に彼を重ねてしまうから。
……いいえ。もう本当は、いくらか彼に惹かれているのは知っていました。けれどそれは、胸の奥に押し込めたのです。
だからもう、どうか、出てこないで。
わたくしは切実に願いました。
「まあ。アスマン様にそう言っていただけて、きっと先代達の方が、光栄に思っていらっしゃることでしょう」
上手く、笑えているでしょうか。分かりません。
いいえ、ギルベルト様と出会ってから、ずっとです。自分がどんな顔をしているのかわからないなんて。
それでもきっと、上手く笑えていると信じるしか、ないのです。
「奥の方までご覧になられますか?」
なぜか、沈黙が場を支配しました。わたくし、なにか失礼なことでも言ったのでしょうか。
不安に駆られながら、けれど問い掛けることなどできません。
かわりに、こんな風に問うしかないのです。
少しの歯がゆさを感じながら、ギルベルト様を伺いながら恐る恐る、聞いてみました。
すると、間をおいてギルベルト様は首を横に振られました。
「いえ。奥の方は今度のために、お楽しみとしておきます」
ギルベルト様は笑っておられます。けれど、いくらか寂しそうに見えたのは、わたくしの気のせいでしょうか。
とはいえ、殿方の顔をまじまじと見つめるわけにもいきません。
にっこり笑って、わかりました。とわたくしは返事をします。そして、次は上階の方へいきましょう、と促します。
ギルベルト様も特に何か言われるでもなく、わたくしの言葉に頷かれました。
移動するため、誰も気付かないだろう。そんな風に思って、次に盗み見た時は、先ほど見えた寂しさは、もう欠片も見えませんでした。
だからきっと、わたくしの気のせいだったのです。でなければ、ギルベルト様がそんなお顔をされる理由が、わたくしには分かりませんもの。
四、
階段を、五階分。これだけで、毎度のことながらわたくしの息は切れそうになります。
対してギルベルト様は涼しい顔。
わたくしだって一国の王女です。たとえどれほど苦しかろうと、顔に出すことはありません。
ですけれどギルベルト様は、まるでわたくしが苦しいことに気付いてるかのように、気遣ってくれます。
自分が疲れたから、と。ギルベルト様は仰るのです。
そうなのです。疲れていませんが、大丈夫ですか。そんなことを、ギルベルト様は一切仰らません、
確かに、そうして気遣ってもらえると嬉しくはあります。
ですがわたくしは王女。たとえ王女でなく、一貴族であったとしても、そんな風に言われて、素直に疲れてます、大丈夫ではありません、などとは言えません。
――だからこそ、ギルベルト様の気遣いが、心に染み入ります。
結局ギルベルト様のお言葉に甘えて、休憩を一度、少しだけ挟まして頂きました。
その休憩の最中も、ギルベルト様はわたくしを気遣ってくださります。にこにこと楽しそうに笑われて、たくさんのお話をわたくしに振ってくださるのです。
ああ、本当に。……本当に、ギルベルト様はなんてお優しいのでしょう。
だから、こんなわたくしのような女に、付け入る隙を与えてしまったのです。
前の生のわたくしは、なんと浅ましい。
ギルベルト様と想い人を引き裂いてしまったことを知ってなお、ギルベルト様の優しさに甘えて、ギルベルト様を手放そうとはしなかったのですから。
ずっと後悔するくらいなら、お父様がなんと言おうと、誰がどう思おうと、離縁すれば良かったのに。
だからこんな、二度目の生を受けてしまうのですよ、エルヴァーラ・リーデルシュタイン。
――だから。だからこそ。今度は、間違えてはなりません。
わたくしは、きゅっと胸元を握り締めて、胸に刻み付けました。
そうして辿り着いた、城の最上階。
一階などとは違って、それほど広くはありません。全部歩いて見て回ったとしても、一時間もかからないでしょう。
そんな最上階をゆったりと歩いて、わたくしたちは目的の地へと向かいます。
「この階層は、随分と静かですが。何があるのでしょう」
「ここは、古い書物や絵画が飾られているのです。いわゆる、宝物庫の役割を果たす場所になります」
疑問に答えますと、ギルベルト様は「まだ見ていませんが窓から見える景色も含めると、ここの階層は宝箱のようですね」と楽しげに笑われました。
その笑顔が素敵で――いいえ、わたくしは、何も見ませんでした。
そんな風な葛藤にばかり意識がいってしまい、曖昧に笑って頷いたのが、いけなかったのでしょう。ギルベルト様が心配そうに、わたくしを伺い始めたではありませんか。
救いだったのは、何かしらお言葉を頂かなかったことでしょう。視線だけでしたら、申し訳ない気持ちに苛まれは致しますが、気づかなかった振りができますもの。
当然、わたくしはギルベルト様の視線には気づかなかった振りをして、前へと進みます。
「こちらになります。窓の外をご覧ください」
数人分の足跡が響くだけの時間が、十数分。気まずい時間は、行き止まりが見えたことによって終わりを迎えます。
ギルベルト様にご案内しながら、わたくしも大きな窓を覗き込みました。
眼下に広がるのは、歴代の王と民たちが築き上げてきた街並み。
大小いくつもの建物が立ち並び、けれどその中に緑もある。
――自然と共存する国リーデルシュタインの、あるべき姿。
わたくしが最も誇らしく、そして、わたくしに力をくれる場所。
視線を街並みからずらし、触れ合うほど隣にある体温の持ち主へと移しました。
太陽の光が銀色の美しいお髪に反射して、きらめきます。
付け加え、普段の柔らかな表情ではなく、真剣な眼差しであられることもあって、まるで一枚の絵画のような芸術性がありました。
思わず見惚れてしまっていると、ギルベルト様のお顔がわたくしの方へと向きます。
真剣な眼差しのままでありましたので、一瞬胸が高鳴ってしまいました。
けれどすぐに、表情は和らぎ、いくらか鋭さは感じられるとはいえ、いつものギルベルト様に戻られます。
……良かった。そのままのお顔で見つめられては、耐えられる気が致しませんでしたから。
「エルヴァーラ様」
ギルベルト様の唇が、わたくしの名に沿って形を変えます。
はい、となんて事ないようにお返事いたしました。
ですが、あまりにも美しく、夢のような光景に、わたくしの足は地についてないのではないか。
そんな錯覚を、起こしてしまいそうになります。
「私にも、お手伝いさせてください」
突然の言葉に、思わず目を瞬かせてしまいました。
――いったい、なにを。
「この景色を守るあなたの支えに、私はなりたいのです」
息を、飲みました。
だってこれでは、まるで――求婚の言葉ではありませんか。
そんな。そんなまさか。そんなこと、あるわけがありません。
いえ、お優しいギルベルト様だからこそ。政略だとわたくしに感じさせないよう、こんな風に言ったのかもしれません。
……それは嬉しくもあり、どうしようもなく悲しい否定でした。
自分で考えておきながら、みるみるうちに気持ちが沈んでいくのが分かります。
「どうされましたか、エルヴァーラ様」
気持ちは、隠していたつもりでした。ですが、ギルベルト様には、すぐ見抜かれてしまいました。
覗き込むようにして、近付いてくる端正な顔。
突然のことに驚き、思わず後ずさってしまいました。
すると、当然のことながらギルベルト様のお顔が悲しみに染まります。
慌てて弁解しようと、口を開いて。けれどすぐに、口を閉じました。
……今から、ギルベルト様の優しさを無下にするというのに。そんなわたくしが、どうして弁解など許されるでしょう。
ぐっと一度、唇を噛み締めました。
――覚悟はもう、大丈夫。自分に、そう言い聞かせながら。
「ギルベルト様、お気持ちは嬉しいのですが――」
「やはり私などでは、エルヴァーラ様の隣に立つには相応しくありませんか」
遮るように紡がれた言葉。戻ってきた、真剣な眼差し。切実さを持った声。
あまりの力強さに、気がつくとわたくしは首を横に振ってしまっておりました。
「皇子とはいえ、所詮私は第三子。エルヴァーラ様に認めて頂けないのは、仕方ないかもしれません。ですがどうか、私にもチャンスを与えて欲しいのです」
つられたようにギルベルト様も首を横に振られます。
――いいんだ。わかっている。まるでそんな風に。
ギルベルト様は、きっと勘違いなさっておられる。自身が悪いから、わたくしが婚約を辞退しようとした、と。
「違います。……違うのです」
「なにが違うのですか」
今までのギルベルト様からは考えられない、少し鋭い声。
ただ、苛立ち所以とは少し違います。やるせなさや、悲しさ――含まれているのは、多分そういった類の感情です。
だからきちんと、真実をお話すべきだと思いました。
「アスマン様は、わたくしなどにはもったいなきお方。それに、国に好いた方がおられると聞き及んでおります」
自分の口から出た言葉だというのに、自分ではない、他の誰かがったみたいではないような気がします。
おまけに、心に鉛が落ちてきたような感覚。口も重たく、なかなか次の言葉が紡げません。
けれどそれでは、駄目なのです。
ギルベルト様は自分が辛いにも関わらず、ずっとわたくしを気遣ってくれている。
だからこそわたくしは、そんな彼の為に、出来るお返しをしたい。
――たとえそれが、本来あるべき形のもので、わたくしが引き裂いてしまったものを修復する形でも。
息を吸い込んで、お腹の中に溜め、覚悟を決めます。
「ですから――」
「少しお待ちください、エルヴァーラ様」
「え、あ、はい」
だというのにすぐ砕かれてしまった、わたくしの決意。
砕いた本人であるギルベルト様は、それはもう切羽詰まったようなお顔をして、わたくしの肩を掴まれます。
予想だにしなかったわたくしは、思わずたじろぎました。
肩は少し痛いです。ですけれど、それよりも目の前で思い悩むギルベルト様の方が気になってしまいます。
いったい、どうしたというのでしょうか。
「その、国というのはアスマンのことですよね。誰からお聞きに?」
「誰から、というわけではございませんけれど……」
「風の噂というやつですか」
ギルベルト様は、わたくしの肩を掴んだままがっくりと肩を落とされました。
綺麗な髪がさらりと流れ、旋毛が目の前にさらけ出されます。
ひかえめに、伺うよう、あの、とお声掛けようとしました。しかしそれよりも先に、ギルベルト様が口を開かれました。
「色々と思うことはありますが、さておき、訂正させてください」
下を向いていた視線が、わたくしに向きます。
相変わらずどきりとするほど真剣な眼差しに射抜かれて、ただ頷くことしか出来ませんでした。
「私には、確かに思い人がいます。それはエルヴァーラ様の勘違いではありません」
――ああ、やっぱり。
ギルベルト様のお言葉を聞いて、心が地面に落ちていくのがわかります。
ぎゅっと心臓が握り潰されたかのように。あるいは、海の底に沈んでしまったかのように息が苦しくなりました。
どうしてでしょう。分かっていたはずなのに。
直接ギルベルト様の口で、ギルベルト様の言葉で紡がれたからでしょうか。
それは、前の生からも含めて初めてのこと。
どこか遠くにしかなかったものが、急に現実になってしまったが所以かもしれません。
つらい。くるしい。どうしてわたくしではないのでしょう。
そんな分かりきったことが、頭の中を綺麗な弧を描くように、ぐるぐると回ります。
……彼と思い人を、あるいは恋人を引き裂いてしまった申し訳なさやそれを悔いていたなんて、嘘です。
本当は、わたくしの方には絶対振り向いてくれない彼と死ぬまで過ごすのが、辛かった。
だからそれならいっそのこと、わたくしを捨てて、本来収まるべきところに収まって欲しくて、愛妾を抱えてはどうかと提案したり、今生では婚約自体を先んじて辞退しようとしたのです。
結局それらはすべて無駄に終わった訳ですけれど。
そんなことに気付いたのは、こうして直接、ギルベルト様の口から思い人がいると告げられたからこそ。
気付きたくなかった。けれど、気付けて良かったような気もして。
とにかく、複雑な感情がわたくしの中で入り混じります。
「でも、その思い人はアスマンにはいませんし――そもそもエルヴァーラ様、あなたなんですよ」
ぴたり、とわたくしの思考は突然止まりました。
ギルベルト様は、今なんと?
「エルヴァーラ様。あなたなんです。……私の、思い人は」
――どうやらわたくしの耳は、故障したようです。
目も悪くなってしまっています。
だって、耳まで薄く紅色に染め、片手で顔を覆われ――まるで、恥ずかしいのだと言わんばかりに見えてしまうのですから。
あるいは、頭がおかしくなったのでしょう。
ギルベルト様に思いを寄せるあまり、都合の良いように改変するだなんて。あんまりです。
わたくしはそれほどにギルベルト様を好いていただなんて。自分でも驚きです。
「……その顔は、信じていらっしゃりませんね。どうすればあなたは」
と、ギルベルト様はそこで言葉を切られます。
信じていないもなにも。これは夢です。夢なのです。
わたくしが生み出した、どうしようもなく、都合の良い、夢。
だから――そう。突然唇に感じた暖かなぬくもりも、夢なのです。……夢、なのです。
「あなたが信じてくださるまで、何度だって口付けして、言いましょう」
――エルヴァーラ様。私は、あなたが好きです。
ひどく甘い声で囁かれた後。ギルベルト様の顔が近づいてきます。
そうして、わたくしが何かする前にまた唇に感じる、やわらかい感触。
……夢じゃ、ない。
信じられないという気持ちと、嬉しさと、恥ずかしさと、それから、どうして、という気持ちが複雑に絡み合い、心に積もっていきます。
今まで信じていたものが脆く崩れ去り、わたくしはただただ困惑するしかありませんでした。
「どうして」
繰り返される口付け。その合間に、わたくしの口から自然と漏れた言葉は、ギルベルト様にも届いたようでした。
お顔を少し離され、けれど至近距離でわたくしの目を覗き込まれます。
「こういうのは、理屈ではないんですよエルヴァーラ様」
ギルベルト様の口元が弧を描きます。
……優しい、優しい微笑みでした。
「あなたがどうしてそんな勘違いをされたのかは分かりません。ですが、私が思うのは昔からエルヴァーラ様。あなただけなのです」
わたくしから、ギルベルト様は距離を取られました。
今まで、長くはないとはいえすぐ近くにギルベルト様を感じていたからでしょうか。少しの寂しさを感じます。
けれどすぐかわりのように、わたくしの目の前に手が差し伸べられました。
「だからどうか――私の手を取って」
どうしようなんて、迷う間もなく。気がつくとわたくしは、ギルベルト様の手に、自分の手を重ねてしまっていました。
慌てて手を引っ込めようとしましたが、その前にギルベルト様がわたくしの手を握ります。
それはそれは、嬉しそうに笑いながら。
……だからわたくしは、思ったのです。
たとえこれが、すべてわたくしに取り入るためだとしても。思い人が他にいて、それを忘れるためだとしても。
どんな理由があったとしても、もう、良いのではないか、と。
ギルベルト様の言葉をすべてを、信じ受け入れて。
そう思えたら、不思議と心も体も軽くなり、自然と微笑んでいました。
「ふつつかなわたくしではありますけれど、よろしくお願いいたします」