雨の酒場
酒場の天井から水がぽつぽつと落ちてくるので、その下にはタライが置かれていた。
もみの木がざわざわとうなる音が聞こえ、雷鳴が轟く。
外は猛烈な雨だった。
ティルキア名物の一つとも言われる『春の嵐』だ。
それに追われて逃げ込んだ先は、街道ぞいの森にあるぼろい酒場だ。
客は彼一人で、カウンター越しには胡散臭い髭の主人がいて退屈そうにグラスを磨いている。
早くこの領地を出て次の村へ行かねばならないが、この天気では進むことすら難儀だ。
ままならぬ人生、とエディはため息をつき、安酒をあおった。
と、雨音が急に激しくなったので、彼は思わず振り向いた。
酒場の扉が開いていた。
もみの森を雷光が照らし、黒いマントを着た男の影を浮き上がらせる。
男は雨に濡れたマントを外し壁のでっぱりにひっかけると、酒場の中へ入ってきた。
どうやらエディと同じく、嵐につかまったようだ。
愛想のない酒場の主人とは違い、男はこちらが視線を向けたのに気付くと微笑みかけてきた。
男というより青年といったほうがいい年頃だな、とエディは思った。
しかし、なんの躊躇もなくつかつかと歩み寄られて少し不安になってくる。
この青年、何か知っているのではないだろうか。
「隣いいかい?」
心地よい声でそう言って、エディの返事も聞かずに青年は隣の椅子に腰掛けて葡萄ジュースを注文した。
怪しい。
自分で言うのも何だが、こちらの身なりは隣に座りたくなるようなものではないはずだ。
二十そこそことはいえ、くしゃくしゃの茶髪ににきびだらけの顔、無精髭にすり切れた上着。
おまけにもう一週間は風呂に入っていない。
そんな者の隣に座りたいとはどういう了見だ。
もしかして、追ってきた兵か。
エディは腰を浮かしかけたが、ここで落ち着きを失っては余計に怪しいと思い直し、無理矢理会話を続けた。
「あんた、酒を飲まないのか。魔術師か?」
「そうだよ」
「席は沢山空いているだろう。なにも隣に座らなくても」
「いいじゃないか。ただ懐かしい顔を見かけたから、少し話したくなっただけさ」
エディは青年の顔をよくよく眺めた。
肩で切りそろえた黒髪に、真っ青な瞳。
どことなく冷たいが整っていて、品の良さそうな顔立ちをしている。
しかしどの記憶を辿っても、会った覚えがなかった。
「どこかで会ったことが?」
「まあね」
ははあ、とエディは見当をつけた。
知り合いだと見せかけて親しげに近づき、散々飲んでから手洗いに行くふりをして逃げ出す手合いに違いない。
お前の知り合いだろうと主人に怒鳴られ、こちらが金を出す羽目になる。
実は、金がないときには彼もよく使う手だ。
エディは口の端を上げて嘲るように笑った。
「俺にたかろうってか? その手にゃ引っかからねえぞ」
「君の分くらい払うさ」
青年は重そうな音のする革袋をポケットから取り出すと、中から金貨を一枚出してカウンターに置いた。
エディは目をむいた。
このすえた酒場なら、三日ほど宴会できそうな額である。
店の主人も、金貨を震える手でつまみ上げこすったり囓ったりした後、ようやく懐にしまってにやにやともみ手をした。
「旦那様、申し訳ない、釣りがありませんのですが……」
「構わない。残りはとっておいてくれ。
葡萄酒を二瓶出して、悪いが席を外してくれないか。
この人といろいろ話したいことがあるものでね」
主人はぼうっとした表情で葡萄酒を二瓶出すと、羽が生えたかのような足取りで厨房の奥に消えてしまった。
青年はエディに向き直り、にっこりと笑って葡萄酒をグラスに注ぎ、こちらへ押しやった。
「これでいいだろう、エディ?」
「おい、俺の名をどこの誰から聞いた?」
「ずっと昔、この酒場で君から直接聞いたよ」
くそ、こんな金持ちなら覚えておけばよかった、とエディは後悔しつつグラスを上げた。
大方酔っ払って記憶がなかったときに知り合ったに違いない。
しかし、エディがこの酒場に来たのは初めてだ。
どこかで会ったことがあるとしても、少なくともここではない。
この青年も大概酔っ払っていたのだろうか。
思い出せますように、と願いを込めてぐっと酒を飲み干した。
青年は酒には手を付けることなく、遠くを見るような目つきをしていた。
「嵐の夕方、君と酒場で過ごした一時は実に楽しかった」
何だこいつは。
胡散臭そうに目を細めるが、青年は全く動じずに話し続ける。
「だから一年後に再会したときも、君の顔を覚えていたのさ」
「悪いがそれは別人じゃないか? 一年前なら俺は別大陸にいたぜ?」
「……そうだな」
青年はしょんぼりしたのか、黙ってしまった。
なんとなくきまりが悪くなり、エディは手酌で葡萄酒をまたあおった。
せっかく奢ってくれた金持ちに気分良い思いをさせてやればよかった、と今更後悔した。
勘違いにしろ何にしろ、この目の前にある葡萄酒は青年がくれたものである。
その分くらい、話につきあってやっても罰はあたらない。
むしろ、感謝されてもっと奢ってくれるかもしれない。
「……すまん、話の腰を折ってしまった。
お前と俺とが知り合いでも、そうでなくても、今このときに楽しくできればそれでいいんだ」
結局エディが謝ると、いやいや、とかぶりをふって青年は微笑んだ。
「君に信じられるわけがない。
そうだ、酒場の与太話と思って聞いてくれ。
今から一年後、君は馬を盗むんだ」
「馬泥棒なんかしねえよ!」
突然仰天することを言われ、エディは瞬きを忘れた。
「しかしそれは運悪く僕の馬だった」
「おいおい……まさか、一年後に馬を盗むと決めつけて賠償金を払えだの言わねえだろうな」
「言わないさ。
君は捕らえられたが、僕は許したんだから。
ちょうど君のような手癖の悪い人物を探していたので」
「ほぼ初対面相手に何を言い出すんだ!」
本当に馬鹿げた話だったので、エディは思わず立ち上がった。
予言者にでもなったつもりなのだろうか、それとも魔術師によくあるエセ占いか。
しかし相手はなんの良心の呵責もないような瞳でじっとこちらを見つめていた。
「失礼、怒らせるつもりはなかった。誓って君はいい人だ」
「……なんだそりゃ」
気が抜けてしまい、エディは怒りのやり場を失ってまた椅子に腰掛けた。
「そして僕らは友となった」
「へえ、お前さんも馬を盗むのかい?」
「馬に限らずね。望んだものが僕のものだ」
皮肉で返したつもりが、大まじめな答えが返ってきた。
酒を飲む横目で青年の顔を盗み見る。
この青年、どこかの坊ちゃん風に見えるが、なかなかのやり手かもしれない。
いいや、これは酒の席の馬鹿話。
しかし彼の飲んでいるものは葡萄ジュースだ。
だとしたら、こちらが飲み付けない高級酒で酔っ払いすぎて変な夢でも見ているのか。
「とにかく、僕らはお互い秘密を打ち明けあい、腹を割って語り合う友となったんだ。
なにより、君は僕の言うことを全て信じてくれた。
君と作戦を練っているときはとても楽しかったよ」
「そりゃめでてえ」
あまりに軽い答えだったせいか、青年が多少むっとしたように言う。
「僕の言うことを信じなくても結構だが、君の癖なんかも知っている。
『ままならぬ人生』が口癖なことも、普段はスリや詐欺師として生活していることも」
「でたらめを言うな!」
「例えば、君が今僕の財布を狙っていることなどお見通しなんだ」
「狙ってやしねえよ」
「足を組み替えるのは焦っているときだ」
「うるせえ」
「君は今『遥か西方から伝わりし秘薬バルロゴン』を持っているね。
この地方で高く売りつけたあげくただの甘草だと見破られ、尻尾を巻いて逃げ出している最中だ」
もはや言葉が出なかった。
青年の言ったとおり、足もとに置いた鞄の中には秘薬バルロゴンと書かれた革袋が詰まっている。
もう少し儲けてから次の地方にいく手はずだったが、案外早く見破られてしまったのだ。
彼ががくりと肩を落とすと、ははは、と陽気な笑い声とともに背中を叩かれた。
「エディ、僕は兵につきだそうなんて思っちゃいないさ。僕らは友達だったんだから」
「へえ、そうかい」
「そうだよ」
青年はジュースを掲げた。
「だから、再会に乾杯」
この金持ちの青年に付き合ってやろう。
詐欺のことを知っていても兵に突き出さないとは寛容ではないか。
少し虚言癖と妄想癖はあるが、金貨の前では何の問題もない。
そう思い、エディはとっておきの興行用の笑顔を作り、青年と杯をかわした。
葡萄酒が二本目にさしかかるころには、エディは大分うちとけていた。
そして、良い気持ちになって本音が口から出てきた。
「しかしよお、それだけ金を持ってりゃ何でも手に入れられるだろうな。
望んだものが僕のもの、か。うらやましい限りだ」
「そうとは限らないさ。
金をいくら積んだって、たった一つの望みだけは叶えられなかった。
それが後悔の種さ」
「へえ、ままならぬ人生ってやつだな」
つい出てきたエディの口癖に、相手はぱちぱちと拍手をした。
「懐かしいね、久しぶりに聞いたよ。君の『ままならぬ人生』」
「どうせ女だろう?」
「鋭いね」
エディは得意げに笑った。
男の悩みは基本的に金と女の二種類しかない。
この金遣いから見て、金に問題はなかろう。
青年は深いため息をついた。
「その通り。僕はよほど不幸な星の下に生まれついたんだ」
「そうは見えねえがな。
そこそこの顔と金さえありゃ、女は寄ってくるさ。
おまけにお前はまだ若え。今からでも出会いはたくさんある」
「たくさんある出会いなんてどうでもいいんだ。
僕が望むのはたった一人」
その歳で気の毒なことだ、と思ったが、エディはそう言わなかった。
どうもやっかいな恋愛ごとに首を突っ込んでいるらしい。
すっきりした顔立ちで金もあるこの青年にさえ、なびかぬ女もいる。
そう、それがままならぬ人生というものだ。
「袖にされたのかい」
青年は首を振った。
「いや。今はまだ一緒に暮らしている」
「なんでえ」
エディは少し呆れた。
一緒に暮らしている、ということは実質夫婦のようなものだろう。
不安がるにはいささか順調すぎる。
「しかし今から三年後、彼女は僕の前から消えてしまうんだ」
「そりゃ杞憂だ。
そんなことになる前に手を打て。
誕生日に指輪でも買ってやればいい」
「それでどうにかなるものならね」
彼の軽口にも、青年の憂鬱そうな口調は変わらなかった。
「このままでは、彼女は六年後殺されてしまうんだよ」
殺される? ぎょっとして彼は尋ねた。
「誰にだ?」
「僕に」
「罰当たりな占いだ。馬鹿も休み休み言え」
完全にあきれてしまい、エディは面倒になって葡萄酒を瓶からぐいっと飲んだ。
「じゃあ、お前が気をつけてやればいい話じゃないか」
「そうだ。
僕はいつだって気をつけているのさ。
だから彼女は生き延びている」
葡萄ジュースをちびちび飲んでいる青年は、堰を切ったように話し始めた。
「今まで何度もそうしてきた。
最初は十八歳のとき。
僕はそのときまだ敵国に囚われの身だった。
彼女は僕の心の支えだったんだ。
でも、僕の国の兵が攻め込んできたとき、彼女は流れ矢に当たって死んだ」
「おい、そりゃおかしいぞ。今一緒に暮らしていると言ったばかりじゃねえか」
エディの反論を無視して、青年は心ここにあらずといったような面持ちで続けた。
「次は七歳のとき。
彼女は僕が葡萄酒に仕込んだ毒で倒れて死んだ。
誓って言うが、僕は知らなかったんだ。
あの子が臨時で毒味役になるなんて」
言っていることがさっきと違う。もう年齢からして滅茶苦茶である。
彼女が死んでいるのか生きているのかも定かでなくなってきた。
エディは隣の青年が持っている葡萄ジュースを胡散臭そうな目で眺め、鼻をひくつかせた。
間違って、酒を出されたのではないかと疑ったからだ。
「そしてその次だ。
七歳の葡萄酒を回避できたと思ったら、十九で彼女は僕から離れていった。
僕が悪魔と取引をしていると敵軍に洗脳されたんだ。
そして僕は二十二歳で、ある敵軍の鎧騎士と戦った。
いい勝負だったが僕が勝ったよ。
殺してからどんな顔だったか見てやろうと兜を取ったんだ」
残りの葡萄ジュースをぐっと飲み干すと、青年は低い声で結んだ。
「……彼女だった」
「そういう妄想は大概にしておきねえ。
大体、お前は今何歳だ」
「十六」
エディは思わずぷっと吹き出した。
「まだ起こってもいねえことを心配するんじゃねえよ!」
「君は相変わらず優しいね。こんな馬鹿げた話でも最後まで聞いてくれる」
「……ま、奢ってもらった礼もあるしよ」
彼は少々照れて瓶をあおった。もう一滴しか残っていない。
そのとき、いつからか雨だれの音がしなくなったのに気付いた。
立ち上がって窓の側まで行き、木の鎧戸を開けると湿った強い風が吹いてきた。
手を差し出してみても濡れない。
「どうやら雨が上がったようだ」
エディは席に戻り、床に置いてあった荷物をつかんだ。
「俺は行くとするぜ。
一年後にまた会えるといいな、兄ちゃん」
「それはないさ」
遠い目のまま青年が言った。
「話を聞いてくれてありがとう。見送るよ」
エディが大声で主人を呼ぶと、何があったのかと飛ぶようにやってきた。
もう出ると告げると少々悲しそうな顔をしていた。
もっと金を落とすと思ったに違いない。
猫なで声でまたいらっしゃいまし、と言う酒場の主人を背に、彼らは雨に濡れて重いマントを羽織ると酒場を出た。
大雨の間に日が落ちたようで、もはや道も真っ暗だ。
しかし偽物の薬で怒り狂った村の人々に袋だたきにされる前に、一刻も早くこの領地を出なければならない。
エディは酒場に寄せかけて作られている厩に入り、自分の貧相な茶色い馬を連れ出そうとした。
そのとき、隣りで干し草を食べている馬に目が釘付けになった。
立派なたてがみをもち、堂々とした体躯の黒馬だ。
彼はほれぼれと見とれた後、後ろの青年に話しかけた。
「これがお前さんの馬か。
盗むかもしれねえな、これだけ立派だと」
「盗むのさ、一年後に君が生きていれば」
相変わらず意味の分からない返事だ、と思った瞬間、エディの背中がかっと熱くなった。
手が震え、膝から崩れ落ちる。
猛烈な痛みと闘っている間に身体は地を這っていた。
喉の奥から血を吐きつつ身体をよじり、目をかっと見開いて青年を睨みつける。
「な……ん……で……」
「一つ、言わなかったことがある。
三年後、彼女が城から出ていけるよう手引きしたのは君なんだ」
血に濡れた長い剣を手に携えた青年は、エディの隣にしゃがみ込み、青い瞳でこちらを見返した。
「僕は盗みを許した。しかし裏切りは許さない」
やがてエディの魂は身体を離れたのか、痙攣もしなくなった。
青年はそれをじっと見つめた後、つと立ち上がり厩の暗い片隅に向かって呼びかけた。
「そこにいるか? レオニダス」
「はい、ここに」
「これを始末しろ」
厩の隅にいつの間にかうずくまっていた黒ずくめの男が死体の足を持ってずるずると外に出ていく。
シドは馬を繋ぐ柵へもたれかかり、彼が引きずられていくのを見送った。
「さらば友よ。お互いままならぬ人生だ」