其之七 萌国と現実
「私を可愛いなんて言うのはお前だけだろうな」
思わず抱きしめてしまった僕の手を、副官である彼女は『調子に乗るな』とばかりに手を抓った。
うう、抓られてばかりじゃないか。
君の抱きついた時の感触は筋肉の所為で若干ゴツゴツしてるけど嫌いじゃないんだけど。
「どうだった、旅は?」
「ああ、楽しかったよ。すまないな、一年も旅に出てしまって」
一年ぶりに会う彼女は日焼けして、背も伸びた様に見える。
そして少し、性格のトゲが取れて丸くなったみたいだ。
昔の彼女にいきなり抱き着いたりしたら……おお、恐ろしい。想像するだけで背筋に悪寒が走る。
寝ぼけてとんでもない事をしてしまった!
おっかなびっくり、顔を覗くと怒ってはいないようだ。
一安心……。
「帝国は流石に無理だったが、それ以外の連合はすべてつぶさに見て来た、おかげで土産もあるんだ」
彼女の表情を見れば旅が困難でもあり、充実していたものでる事が見て取れる。いかなる環境でも楽しもうとする彼女の姿は僕にとって癒しの一つでもある。
「どうだ?左腕の調子は?」
今度は代わりに彼女の問いだ。
手甲に覆われた左腕に視線を送ると、おどけて『問題ない』と頷いた。
彼女は安心したように微笑むと、表情を一変させてニヤニヤ意地悪そうに再度口を開いた。
「また嫁候補に逃げられたそうじゃないか?おめでとうだな!私の旅先まであちこち噂になっていたぞ」
ニヤニヤ顔をして良い顔で言いきりやがったよ。この女!
「あ、あれは逃げられたんじゃない!彼女が『私なんかではとても貴方のそばで苦楽を共にするのは役不足です、貴方にはもっと素晴らしい方がきっといます』って言うし……」
寝起きで顔を火照らせながらついつい声を荒げた。
「典型的な逃げ口上だな。これで何人目だ、婚約者に逃げられたのは?」
「逃げられたんじゃない!こちらから断ったんだ!……六人とも」
そう僕は昔から婚約者に逃げられている。
別に僕が悪いわけじゃない。いや、まぁ責任は誰に有ると言えば僕に有るのだが。
「それで、いつも朝だけは早いのに一体寝坊の理由はなんだ?振られた自棄酒だけじゃないんだろう?」
辛うじて起き上がる国主を横目で見ながら彼女はいつも間にか手に持っていた水差しから水を手渡しながら告げる。
「……昨日も遅くまで会議尽くしだったよ、それもこれも帝国が連合北端の流国を攻めこんで、ましてや僅か一月足らずで制圧しやがるからだ。流国は確かに連合の中では小国ではあったけどあの国の流国国主は傑物だと思っていたんだけどだらしないな。連合を挙げて援軍出すまで持ちこたえられなかった」
水を一気に飲み干すと、『やってられないよ』と愚痴を言った。
「だから私も旅先で聞いて遊学を切り上げて急いで戻ってきた、本当はまだまだ見たい国や景色が沢山あったけどね」
やや残念そうに肩をすくめる彼女は、直ぐに厳しい顔を浮かべ目を細めた。
可愛いだけの女ではない、今すぐにでも戦に出られる覚悟を決めた一人の兵士の顔だ。
「……噂だと帝国はこれを機会に連合諸国のすべてを制圧するって話だぞ」
彼女は『事実か?』と目で聞いてきた。
「ああ、その可能性は高い……のだが可能性にすぎない。だからこれからどうするのか、軍議をこの数日中ずっと続けてる。今まさにこの国の命運は風前の灯ってわけだ、この国が第二の流国になる日もそう遠くはないよ」
「私の聞いた帝国の流国攻略動員兵力は一万だそうだ、補給、後方部隊も入れればニ万越。対する我が国の兵力は?」
僕は彼女の質問を無視してブツブツと独り言を呟いた。
「……やっぱりか。こちらの忍も大体そんな数を報告に上げてきた。帝国軍の数は一軍団規模だし、本国の増援が無ければそんなものか」
「で、この国の兵力は?」
彼女は再度質問をしてきた、このまま誤魔化したかったのに相変わらず意地悪な奴だ。
「……戦闘できる兵は八百ぐらい、補給部隊の足軽雑兵込みで二千余りかな」
彼女はそれを聞くと僕の目をまじまじと見て冗談ではない事を確認する、長い付き合いだ、お互い冗談や嘘を言えばすぐにばれる。
そして残念ながら彼女の目は、僕が嘘を言っていないと見抜いている……はずなのだが。
「……嘘だろ」
彼女が呟いた。むしろ嘘であって欲しいと言う願望の声だった。
僕もつられて溜め息をついた。
「先々代、先代の国主が相次いで亡くなってガタガタだからね。君も知っての通り僕は人望が無いしさ」
両手を挙げて降参だとばかりに、そのまま後ろに倒れ込み寝転がる。
『いっそ降伏した方が楽かね』なんてぼやいた。
もしこの言葉を他の連合諸国の国主達が聞いたのなら、今度は裏切り者への懲罰として彼らがこの国を滅ぼすかも知れない。
「……人望が無いなら無いなりにそーゆー所を隠したらいいと思うぞ、人は愚痴を言う後ろ向きな奴よりは前向きなデカイほら吹きに付いていきたくなるもんだ」
「だけどね……。問題が多すぎて」
そう呟いた僕はだるそうに起き上がり、目の前の窓の外を眺めた、見事な城下町。そしてそこから広がる田畑風景。その隅にある、田畑と城下町の境目に伸びている黒い家々に目をやった。
よく見ると家々というには語弊があるかも知れない、家は漆喰も瓦も無く只々そこいらの木を『立て掛けた』ようなあばら家だった。
あばら家ですらない布とむしろで覆っただけの家とすら呼べないものも見受けらえる。
「まずいよなぁ~、あれ」
流国が帝国に占領されたことにより増えた問題の一つ。
不機嫌そうに八つ当たりで足元の壁を蹴とばした僕は、とても前向きな人間の行動とは僕自身でさえ思えなかった。