其之四 流国と帝国
『流国 居城の一室で』
5月某日
燃える。
燃えている。
つい先日まで見えた風景が。
雪解けの新芽を芽吹かせた木々たちが。
城下の人々の家々が。
活気のあった街並みが。
かつての笑い声と喧噪の代わりに聞こえるのは怒声と罵声。
つい先日まで雪解けを心待ちにしていた彼らの表情は、苦くゆがんでいる。
避難が間に合い城の一角で自分の家が燃え上がるのをただ暗い瞳で見ている民たち。
城の外では避難が間に合わず絶望した顔で、逃げ纏い、帝国兵に殺され、捉えられる民たち。
血にまみれた城内には重症者で寝かせる座敷すらなくなり、廊下で休む暗い顔の侍と兵士達。
……たった一月で、斯くも世界は変わるものなのでしょうか。
『おおおおおおおおお……』
『ああああああああ……』
喧騒が聞こえる。
絶叫、悲鳴、断末魔。
それは愛すべき我が国の兵かも知れず、憎むべき帝国の兵の声なのかもしれない。
思わず耳を塞ぎ泣き出したくなる。
泣きわめいて、うずくまって、私をあの幸せな時間に返して下さい!
そう天に向かい叫びたかった。
だけど、それは許されない……。
私はこの国の姫、流国姫なのだから。
こんな所で狼狽える姿を守るべき民たちに見せる訳にはいかないから……。
「さらに敵兵千余り、突撃してきます。先頭に破城槌!続いて槍兵、最後に弓兵。陣形鋒矢に見えます!」
「防ぎ矢だ!手の空いている奴は矢玉を弓兵達に配るのを忘れるな!」
しばらくすると破城槌の打撃音がし始め、城門が悲鳴を上げ始める。
我が流国兵は帝国に奇襲され、なすすべも無く国境を通過され居城であるこの城がもはや陥落寸前の様である。
もうここ数日、何度も繰り返されている光景。
長蛇の列をなして、帝国の我が国に侵入してきた兵は一万、更に糧秣支援などの輸送、援護の兵が同じく一万。
過去、帝国が攻めてきたどの数よりも多くの敵兵が我が流国へ殺到しました。
帝国に国境を面す連合諸国は三国。『武国』、『老国』、そして我が『流国』です。
お恥ずかしながら我が流国は、この三国の中で一番兵の常備数が少なく兵の質も悪いと言われています。
しかしそんな我が国が、今日まで守りきれたのは帝国との国境にそびえる山々でした。
その隙間を縫うような唯一の街道に砦を築き、堪えず警戒続けていました。
万が一、帝国が侵攻してきても、地形に守られた砦が一定時間支え、その間に国から砦に援軍を送り、更に持たせる。
その間に『盟約』に従い連合各国に援軍を願い、連合の兵力により砦から追い返す。
これがここ数十年、我が国を守り続けてきた方法でした。
しかし……。
山の頂上に建てられた流国居城の城内。
耳を澄ますと城内の至るところからガチャガチャと鎧や槍の擦れ合う音が聞こえる。
私は城の階段をゆっくりと登ります。
暗く、急な角度の滑りやすい階段。
『いざという時はこの階段に油を塗り、敵を登る妨げにするのだ』
父様……先代の国主様が言っておられましたね……。
やがて私は目標の城の最上階へ、その場には城下を見下ろしながら二人の人間が沈痛な顔で話し合っていた。
「兄様」
その内の一人に、なるべく平静を装った声を掛ける。
「帝国もしつこいね……、もう十回は城門から追い返したはずだがまた来たようだ」
やや疲れた顔をなさって、眼下に広がる焼けた城下町、城門に群がる新たな帝国兵を食い入る様に睨んでいました。
隣に控える初老の男……長年仕えてくれたじいが、うめくように呟く。
「まさか帝国があの山脈を越えてくるとは……」
そう、初め帝国軍は街道の砦で向き合い、そのまま一歩も動かず対陣するだけだった。
それを見た兵達は今回は様子見程度の侵攻で直ぐに引き上げるだろうと頬を緩めました。
兄様はいぶしがりましたが、他に策もなく、通常通りの援軍を砦に送りました。
そうその時には既に砦は炎に包まれて陥落していたのですから。
帝国軍は街道を通らず、道なき道を……断崖絶壁の山を越え砦の反対側の街道に出る事に成功したのです。
そして砦を帝国領側、我が流国側の両面から攻めかかりました。
砦の守備兵達は、背後に帝国の別動隊が現れた事に驚き、兵達は士気を落としました。砦は帝国領に対しては鉄壁の守備を約束する堅牢な砦ですが……背後の我が国方面からの攻撃は想定しておらず、山を越えた別動隊との挟撃にて、遂に陥落しました。
砦の守将は『ここが我が死に場所である、流国武者の意地を見よ!』と最後まで兵を鼓舞し、勇敢に闘い……そして果てたそうです。
砦を落とし、悠々と数十年ぶりに流国へ侵入した砦を通過した帝国兵一万は街道をやって来た我が国の援軍を壊滅させ、騎兵を先駆けに恐るべき速度で城下へ迫りました。
砦の守備兵も全滅、砦に送った援軍も遭遇により壊滅。
動員兵力を両部隊に割り振っていたこの国に、残された兵力はあまりにも少ない物でした。
今、この城に立て篭るのは二百の侍衆、千の足軽、そして城に逃げた民から徴兵した五百の義勇兵のみ。
帝国軍一万に対してなんと、か細い我らでありましょうか……。
私は一つの決意を胸に兄様に顔を向けます。
「じい、その話はもういいわ。それよりお兄様、脱出のご準備をなさりませ」
「我が妹よ。僕はこの国の国主であり、また国主であると同時に民の主でもあるのだ。まさか民を見捨てて逃げるわけにはいかない」
「兄様!兄様が生きていれば仮に城が落とされても……流国が落とされても再度、捲土重来の機会はございます。『盟約』で直ぐに連合諸国から援軍も来るでしょう!しかし兄様に万が一でもあれば、一体誰がこの国を守るのですか?再び率いるのですか?敵兵は城下まで迫っているのですよ!すぐにでも脱出しなければ」
兄様にも分かっているはずなのだ。
連合の援軍が間に合わない事なんて。
立て篭っていても援軍より城門が破られる事の方が早いなんて。
私は自然と声をあらげる。
「どこへ行くと言うのだい?」
「帝国と渡り合えるのは科国、もしくは『連合』が結集した時ぐらいでしょう。科国は当然手を貸してくれないでしょうから連合盟主『武国』へ行きます」
「良い判断だ。しかし……」
「分かっています。敵もそれを読んで武国への街道は封鎖を図るでしょう。東へ……萌国経由で行きますよ、兄様」
「さすがだ、しかし……」
「脱出の抜け道の準備ならご心配なく、先代の国主が作られたものを改良してありますし、馬も旅費も準備しています」
「すごいぞ我が妹、しかし……」
「どうしたと言うのです、まだ何か?」
どうしたと言うのでしょう?私が思いつく限りの準備を整えたつもりだったのですが。
「うむ、実はだね、我が妹……」
そう言って私に近づく兄様は、いぶしがる私をそっと抱きしめた。
なにをするのです、と言いかけた私の頭をそっと撫でる。
「僕は民を見捨てる国主にはなれない……愛してるよ、我が妹」
一体何を言って……?聞き返そうとする前に私の首に手刀を入れた。
なぜ?
そう心の中で呟くが、直ぐに思考に靄がかかり暗闇に満たされる。
私は薄れ行く意識を必死につなぎ止めようと抵抗を試みたが……私の思考は闇に沈んでいった。
沈みゆく中で兄様の鳶色の瞳が悲しそうに私を眺めている事を見て、私の瞳も悲しそうに涙を一筋流した。