其之三十二 狂姫と侵攻
旧流国
一人の女が山の頂付近から眼下に広がる山々と鬱蒼と茂る森林を見下ろしながら風を受けていた。
山風を一身に受け、その風は彼女の金色に近いその髪をたなびかせ、風の強弱で舞い踊るその髪は日の光で輝いて見える。
「どこまで見渡しても山と木々が多い、平原の多い我が国とはやはり違うのだな」
平坦なその声は若い。
二十前後だろうか。
連合の人間には無いおしろいの様な白い肌。
軍服の上に胸当て、篭手、鉄靴など最低限の装備だけを身にまとい真っ赤に染めあがったマントを羽織り、声と同じく感情のこもらない瞳で眼下を捕える。
「姫様……、兵達の準備完了しました。お声をお願いできますか?」
背後から装備を整えた一人の男が声を掛けた。
燃えるような赤髪、きめ細かな顔立ち、長身のその身から見下ろす様に、しかし声音は優しく労わる様に。
「ああ、もうその様な時間か。なぁ我が友よ、見ろ、この豊かな自然を、眼前に広がる山々を」
「……おかげで騎兵の移動と運用が難しく、流国での初戦は大層苦労いたしました」
ため息交じりに首を振り、肩をすくめる赤毛の男。
その言葉を聞いて女は笑い声を跳ね上げる。
「この景色を目にしてまずは部隊の運用か!流石は我が友、我が部下、我が師であるな!」
「あなた様の背後を守るのは私の役目、ならばあなた様の背後に立てるように、常に己を高めなくてはならないのです。私は休む暇がございません」
「私を超えるなど簡単だろうに、戦場で生き抜けばいいのだ。私はいずれ死ぬであろうからな」
息を呑む音と直ぐに、嗜めるように『姫様!』と続いた。
「すまんな、戦場で安い命を見ていると明日は我が身かと思いを馳せる。かと言って姉上の様に王宮で着飾り、打算と陰謀などに明け暮れるという生き方もできそうにない」
パタパタと右手を振って落ち着けと。
己の立場を淡々と。
「いかんな、数か月も戦場を離れると考え方が悲観的になる。やはり私は戦場でしか生きられぬ女なのかもしれんな」
「そのような事はございません、姫様がお望みであるのならば王宮であろうと私は背後を守らせていただきます。どうでしょう?萌国を陥落した後、連合を切り取るのは後身達に手柄を譲り我らは王宮で次期皇帝の地位でも勝ち取りに行くと言うのは?」
男の言葉に女はしばらくポカンとした表情だったがやがて、弾けた様に笑い出す。
「はっははは!!!!兄上を蹴落とし、姉上を退け私が次期皇帝陛下か!それも楽しげで面白そうで胸が躍るな!戦場とは違った楽しみが得られそうだ!我が友も程よく『狂って』いるな!」
目に涙を浮かべ大笑いする。
しかし直ぐに思い直したように笑いを止め、懐からガラスの小瓶を取りだした。
小瓶の中には鈍く白っぽい半透明な液体がなみなみと入っている。
日の光を浴びて輝くそれを見ながら、彼女は寂しそうに。
「私はこれが無ければただの女さ。皆が望むのは『狂姫』であろうからな。さて行こうか……『時間』だろう?」
その言葉に悔しそうに顔を歪める彼を尻目に彼女は歩き出す。
背後でその背を守る様に彼が付き従ってくる。
今更確認するまでもないその動作。
背後で先程の男が声をあげる。
自分への労わり声ではない。
他者への威圧的な、命令する声音の先程とは正反対の声だ。
「帝国軍連合方面司令官兼第三軍司令官 帝国第二皇女殿下より訓示である!」
その場にいた、整列していた兵士達が一斉に『狂姫』に注目した。
剣と槍に身を固める兵士達に彼女は口を開く。
「流国を落とし数か月ぶりの戦争だ、皆よ?萌国は連合の中でも弱小国、常備の兵も二千に届かない。だが我らとの戦争を望むようだ」
兵達の中から失笑が何処からともなく聞こえる。
彼女が懐から取り出したのは『かの王』がしばらく前に発した『檄文』。
連合各所に送られたその文がなぜ彼女の手元にあるのか分からないが。
しかしその意味は十分に伝わる。
その紙につづられた筆跡が並々ならぬ覚悟で書かれたことが見て取れる。
墨が紙に黒々とのり、その筆圧の高さが……。
その思いの丈が。
怒りか、憎しみか、愛か、プライドか。
「だが、連合の兵は強い。最弱と言われる流国で我らがあそこまで手こずったのだ。油断はするなよ?諸君。まぁ、分からんでもないが……」
その言葉に頷き返す兵士達、だが戦争の恐怖に怯える者の数はほとんどいない。
なぜならば……。
「なぜならば……!我々は強い!私は諸君が帝国最強と言われる近衛第一軍にも負けないと考えている。
なぜならば我らはまだ一度も敗北したことが無いからだ。私が指揮し敵を切り伏せ諸君らが私の背後を守る。それだけで勝ち続けてきたからだ、それゆえに私は諸君らが『狂姫』と呼ぶほどに正面の敵を殺し続けて見せる!
我が軍は、くくくっ、勝つべくして勝ってきたのではない、そう、敗北という言葉が近付き、勝利と言う言葉が遠ざかりそうな時に力ずくで奪い取ってきた!
我々は勝利の女神に愛されたから勝ったのではない!勝利の女神をたたき殺し、ねじ伏せ、押しつぶし従わせて勝利を奪い取ったのだ!
敵が神に勝利を願うなら我らはその神ごと斬るまでだ。
貴様らが私の背後を守る限り私が正面の敵をすべて屠ってやるまでだ!」
力の限り息を吸い込み、攻め滅ぼす彼方の国へ、彼方の城へ、彼方の王へ届けとばかりに叫び狂う。
「全軍全身!国を奪いに行くぞ!国を殺しに行くぞ!何処までも狂い醜い戦争の始まりだ!」
二万の兵が雄叫びを挙げる。
二万の野望、二万の暴力、二万の欲望。
眼前に見えるそれらを見渡し、『狂姫』は徐々に本来の『狂い』を取り戻す。
先程の弱気な女はもう何処にも見えない、もうどこにもいない。
流国の兵は、流国の王は私を存分に楽しませてくれたぞ。
互いの武器が悲鳴を上ゲ、互いの防具が軋みを上げる。
血肉がもうだめだと疲労の慟哭を告げ、しかし脳は敵を殺せと囁き喚く。
あれほどの楽しみは久しぶりの快楽だった。悦楽だった。
さぁ、我が軍が向かう新たな王よ。
我の向かう王よ。
『親殺し』の王よ。
貴様は私を楽しませてくれるか?
貴様は私を狂わせてくれるか?
貴様は私を『終わらせて』くれるか?
貴様が私の『狂い』を解いてくれるのなら私は貴様を認めよう。
貴様が私の『狂い』に負けるのなら私は貴様を食い殺そう。
旧流国と萌国国境の関所は半時も持たずに陥落した。
事前に撤退準備を言い含められていた兵達は火を放ち、僅かな犠牲を出しつつ撤退。
急報を伝えに本城へと息の続く限り走る。
七月某日
『帝国軍ノ野望トドマル事シラズ
流国ヲ呑ミホシ ソノ勢イハ収マラズ
帝国軍萌国ヘ侵攻セリ 是ニヨリ帝国ノ望ミハ連合ノ全トサッセリ
時ノ萌国五代目国主 暴君 軟弱ノ噂在レド暗君ニ非ズ
既ニ全テヲ予期シ連合ヲ集メントス』




