其之二十六 萌国国主と家族
「妻様」
僕は部屋に入るなり目の前の女性をみてそう告げた。
この国の三代前の国主の後妻、つまり僕の血のつながりの無い義母という事になる。
彼女は顔を声にしたこちらに向けると体の向きを変えて正面を向かう。
その顔は穏やかな仏の様に微笑を浮かべ、肩より垂れる椿油のきいた流れるような黒髪は光り輝いてすらいるように見える。
陶磁器の様な肌、その肌はきっと赤ん坊のやわ肌のように水を弾くのだろう。
僕はそっと彼女の前に腰を下ろす。
「いらっしゃいませ、あらかじめ来ると言っていただけたらお菓子なりを用意させましたのに。あなたはいつも突然来るのですから」
「すみません。この所、会議が多くてまとまった時間が取れなくて」
「ふふ、いいのですよ。さあお顔を見せて」
そう言って彼女は両手を前へ出す。
何も無い虚空に向かって。
「……、失礼」
僕は彼女の両手を僕の頬へ当てる。
そう、この人の両目は閉じたままだった。
僕の頬を触る両手はペタペタと僕の顔を撫でてくれた。
「少し痩せたのではないですか?熱もあるようですね。国務も大切ですが自信の健康も大切になさい、貴方はこの国の国主であるのですから」
「帝国との戦が近付いていると聞きました」
「……誰がそのような事を言いました?」
「この国のほとんどの者が噂していますよ。目は見えなくとも耳は達者ですから」
「そのようなことはただの噂です。些細な戯言に耳など貸さずに、ご自身の体調を慈しんでご自愛ください。お食事の量が減っていると聞き及んでいます」
「ふふ、お互いに耳が早いのですね。私を心配してくれるのはありがたいのですけどあなたの嘘を見破るのは私には簡単すぎますよ」
僕は見えないのを幸いに苦い顔を作っていた。
「……もう、戦が回避が出来ないかもしれない所まで来ています。申し訳ありません」
「あなたがそこまで動いて、努力した後の結果なら仕方ない事なのでしょう」
「……はい」
そう言いながら再び彼女は僕の頬に両手を当てた、お互いの顔の距離は目と鼻の先。
この人は目が見えないのに何かを見るの様に、閉じた目を僕に近づける。
そのまま何気なしに口を開く。
「ある人物を帝国に人質として差し出せば回避できるというのは本当ですか?」
「……誰に聞きました?」
「皆が噂しています」
「そんな話はありません。出鱈目な虚報です」
そう言ったら頬をおもいっきりつねられた。
「本当に嘘が下手な子ですこと」
「……嘘ではありません」
「向こうの人選は私ですね」
僕は言葉に詰まった。この人は心が読めるのだろうか。
「違うと言っています」
僕は無駄だと知りながら再度否定した。
「あなたの顔はそうだと言ってます」
やっぱりこの人には敵わないな。
「なぜ私を出さないのですか?目の見えない女一人で国が救われるのですよ。今すぐに帝国に快諾の返事を送りなさい、私がこの国にできる最後の孝行です」
「帝国の要求は『三名』です、あなたお一人では役不足なのですよ」
僕はワザと冷たい口調を使った、突き放すように。
妻様は一瞬固まったが、本当にこの子は……と呟いた。
一瞬でばれた。それでほっぺたを思いっきりつねられた。イタイ……。
「私とてこの国の王族の一員なのですよ。この国の民を守る義務があります。役不足だろうとなんだろうと私一人で三人分の人質としての価値を釣り上げて見せます」
「なぜそうご自分を犠牲になさろうとするのですか?帝国へ送られても人質として生きるなど。なぜ『生きたい、私を帝国へ売るな!』と足掻いて下さらないのですか」
「私の事などもう良いのです、私はもはや過去の女。すべてはもう私の中で消化できています。私はいつでもこの国の為に人質としてでも、兵士としてでもこの身を犠牲にする覚悟はできているのです。それが私の役目です。
でも……、あなたは違うでしょう。あなたは進まねばなりません、いつまでも私などを気にして足踏みしている場合ではないはずです。
ただひたすらに前へお進みなさい、ただただ振り返らず前へ前へ前へ。それが貴方の役目です」
「僕はあなたに笑顔でいてほしいのです。あなたが笑顔で微笑んでくれるだけで僕は癒され生きることができます。あなたの笑顔を見るためにまた帰ってこれます」
そう言って席を立った。妻様が何か言おうとしたが聞きたくは無かった。
「またいらっしゃい」
立ち去る僕の背中に声がかけられた。