其之十四 あの頃の僕は1
直ぐに分かった。
桜の舞い落ちる木の下で。
彼女だけが僕の目に飛び込んできた。
その時、僕の目は彼女以外の存在を映すのを止めた。
彼女の周りにいた大人たち。
彼女を囲んでいた木々と草花たち。
そんな景色も僕の目は捉えているはずなのに。
すべてが白黒の写真の様に色褪せて。
彼女だけが色鮮やかに浮かび上がって。
集まった多くの人々の中で、僕には彼女しか見えなかった。
懇親会を兼ねた花見の席で、僕の目は彼女に釘づけになった。
彼女が流国の姫君。
彼女が僕の許婚。
もしかしたら、僕のお嫁さんになってくれるかも知れない人。
綺麗なお人形さんみたいな、物語に出て来そうな黒髪のお姫様がそこにいた。
どうすればいいのだろう。
いつもなら簡単に出てくる軽口の一つも飛び出る僕の口も、この場では裏切り何の音も発しない。
……そういえば、軍務大臣のじいちゃんが言っていたな。
戦の前に震えの止まらない時は軽く酒を飲めばいいと。
周りを見渡すと何店か花見の屋台が見える。
店先に並んでいる手ごろな酒瓶を手に取る。
僕の小さな手に酒瓶は大きく感じられたが、彼女と話せるならば何でもない。
屋台の一つで配られている酒を酒瓶丸ごと一息に飲み干した。
初めて飲む、甘酒以外の酒は何だか苦くて辛くて喉が焼けるように痛んだ。
店員が何やら慌てた様に喚いていたが既に僕の耳には届かない。
胸の奥が熱くなり、頭がぼーっとして何でもできる気がしてきた。
頭が重くなって、足元も少しおぼつかないが気にしない。
僕は一目散に彼女の元へ歩いて行った。
途中、侍女と彼女の会話が耳に入り込んで来た。
「姫様、甘酒をお召し過ぎではないですか?」
「兄様が近くにいると子供扱いされて甘酒すら飲めないんですもの。
偶に少し羽目を外すぐらいいじゃない。
流国でこんなに桜達に囲まれる事も無いし、花を愛でてお腹も満たす。
……でないと折角の花が可哀そうでしょう?」
花が好きなのか、確かに可愛らしい彼女にはぴったりだと、幼心に思った。
やがて僕は彼女の直ぐ目の前に立っていた。
『……あの?』
数人の侍女に囲まれ、甘酒を嗜みながら静かに桜を眺める少女。
頬がほんのりピンク色に染まってまるで辺りに咲き誇る桜とよく似ている。
気が付くと僕は彼女の頬に触れていた。
柔らかく、暖かい、その頬。
静かにその頬を撫でた。
『無礼な!』
燻しがっていた彼女の手が立てられ僕の頬に衝撃が走った。
「姫様!この方は萌国の……」
侍女の悲鳴交じりの声を聞いた瞬間、彼女の目が驚いたように見開かれたが、それでも思い直したようにもう一発、僕の頬を強く張った。
「痛いじゃないか……」
無礼は何の断りのもせずに未婚の少女に触れた僕なのだが。
……やられっ放しも癪なのでもう片方の頬にも触れて横に引っ張る。
ははは、お人形みたいな顔が台無しだ。
『だけど涙目の彼女もまた可愛いらしい』そんな事を考えて……。
ポカポカと彼女の手が顔に飛んでくるが、お互いに子供だ。
全然痛くない。
やがて騒ぎを聞きつけて大人達が集まってくる。
僕と彼女の惨状を見て真っ青にしながら。
そして、背後に軍務大臣のじいちゃんの怒鳴り声が聞こえてくる。
いかんな、逃げなければ。
僕は無我夢中で会場から逃げ出した。
酒の所為なのか足が上手く動かない。
途中、繋いであった馬に飛び乗った。
許婚と仲良くなりたかっただけなのに、結果はこのザマだった。
少し自分が嫌になった、伝えたい想いがあって。
その想いが胸の奥に渦巻いているのに。
話したい、抱きしめたい、手をつなぎたい。
その思いがどれ程大きくても、どれ程淡く輝いていても相手に伝える事が……とても難しい。
どうすればいいのか……。
どうすれば先程の無礼を許して貰えるか。
僕は一人、馬上で空と雲を見ながら思いを馳せた。
「やってみるか……」
一つの案が思い浮かんだ。
失敗するかも知れない、所詮僕の考えだし。
だけどこのまま彼女に嫌われたままよりは、悪あがきをして見たかった。
このまま彼女に嫌われたと、一人納得して終わりにしたくなかった。
その日、僕は城には帰らなかった。
翌日、花見という懇親会も終わった。
各国の来客もそれぞれの国へ帰途に着こうとしていた。
その中の一団に彼女がいた。
なんと呼べばいいのかわからず、気が付けば僕は叫んでいた。
「嫁殿!」
言ってしまって、更に口が重くなった。
叫んだ僕の格好は酷いものだった。
昨日の服装のままで、馬上で揺られシワだらけ。
身体中は泥まみれで、走ってきた所為で汗だくで少し臭いかも知れない。
周りの大人たちが、また言い争いを始めるのではと落ち着きのない表情で見ているが、どうでも良い。
彼女は何も言わずにこちらを向いてくれた。
「あ……いや失礼を、流国姫君。その、昨日は失礼をいたしました」
「ええ、お互いに」
冷たい目でさらりと流された。
だか仕方ないと割り切る、返事をしてくれただけ上出来だと。
「これを」
僕は馬に積んだ山のような花を差しだす、まるで馬の背に花の山が乗っているのか、花の山に馬が埋まっているのか判らない状態だ。
「これを……すべて私に?」
「隣りの山で採って来ました。先日、花が好きとは伺ったのですが……何の花がとまでは分からなかったので。
その、今の時期には珍しく紫陽花が咲いておりまして、鮮やか咲乱れ余りの美しさに是非一目お見せしようと」
しどろもどろ。
おっかなびっくり。
僕は馬の背から一房を差し出した。
「……まぁ、優美であること。ありがたく頂戴いたしますわ、花に罪はありませんから」
ようやくその言葉で、お互いの表情が崩れた。
花を手渡す時、彼女の手が一瞬僕の手と交わった。
暖かで細くて小っちゃくてサラサラとしてるなと思ったが、『慌てて無礼をいたしました』と詫びた。
昨日から僕、失敗してばかりじゃないか。
婚約者らしいこと何一つしてあげられて無い。
その事が無性に悲しくて、なぜだか無性に泣き出したくなった。
再び訪れた沈黙の後、彼女がようやく切り出した。
「またお会いできますか?」
「……もちろん、次に会うときは僕があなたを『お迎え』にあがる時です」
それを聞いた流国の姫は真っ赤になり、同時に周りの大人たちにもどよめきが走る。
それでも彼女は『待っています』、と真っ赤でうつむいてそう答えてくれた。
「ははは、ご両人。仲睦まじいことは良いがね、申し訳ないがそろそろ時間である。行くぞ我が妹」
流国国主がやんわりと先を促し、馬首から僕に一礼した後、動き出す。
姫様もかごに乗り込み行列は動き出した。
僕はずっとその行列を見ていた。
僕の送った紫陽花を積んだ馬は山の中でも良く映えて、いつまでも姫様の居場所を教えてくれた。
その紫陽花が彼女の居場所。
その紫陽花が僕と彼女の結ぶ絆。
気が付くと僕は木に登り、見えなくなればさらに高い木に登った。
僕は日暮れまで、夕焼けに染まり遠ざかる紫陽花を眺め続けていた。
その光景を僕は深く刻み込んだ、この光景を忘れるような、この思いを忘れるような大人にはなりたくない、そう思った。
幼い僕は本当にそう思った。