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愛執ワルツ

「転生カプリチオ」続編。







「おまえ、どういうつもりだ」


 生徒会長である男がそう言った瞬間、風紀委員室から一切の音が消えた。

 待機組の風紀委員たちが険悪な雰囲気に動きを止める中、風紀委員長である片桐隼人カタギリハヤトは目の前の男を無表情 に見返し。


「………どういう、とは?」


 その返しをはぐらかされたとでも思ったのか、男は持っていた書類を苛立たしげに委員長席の机に叩きつけ た。


「ゆる馬鹿のことだ! アイツの周りを子飼い連中で囲むような真似しやがって」

「…ああ、それが?」

「っ、あのなあ!」


 机に両手を置き勢い込んで詰め寄ってくる男に対し、だが片桐の態度は至極淡々としていた。

 叩きつけられた書類に対しても何を言うでもなく、上から順に確認していく。

 その様子を見た男はちっ、と舌打ちし。


「…てめぇ、『風紀委員長サマのご乱心』とか言われてんの知ってんだろが」

「さあな」

「昨日は親衛隊持ちの一年を派手に殴りつけたって?」

「だから何だ」


 まともに取り合う気もないといったその態度に、男はやがて呆れたように大きな溜息を吐く。


「………なあ……、なんでああまでアイツの周りを固める必要がある?」


 ややして告げられた男の声には、純粋な疑問が滲んでいた。

 しかし片桐は聞いているのかいないのか、書類を捲る手を止めることもなく。


「制裁にしても大した被害はなかった筈だ。今回の一年だって実際に手を出したわけでもない─────誰 にも本気にならない“アイスドール”が熱くなるなんて、らしくないんじゃねえ?」


 向けられる視線はそんな片桐の態度を窺い、探るもの。 それでも片桐が碌な反応を返さないことに焦れたのか。


「おまえ─────アイツをどうしたいんだよ」


 誰もが触れられなかった部分に、男は初めて切り込んだ。 あの日、あの場で、あのやりとりを見て以来誰もが疑問に思っていることを。


 これまでの“片桐隼人”と言えば、常に冷静で公平。

 際立って玲瓏な容姿から来る人気は高く、風紀委員長としてのカリスマ性も絶大。

 そんな片桐が顔色を変えて声を荒げ、他人に縋ったという事実は、学園生徒たちに凄まじい衝撃を与えた。

 同時にそんな状態の片桐を切り捨てた“彼”の様子もまた、以降の変貌と併せて驚愕で以て受け止められてい た。


 気安かった態度はなりを潜め、纏う空気も冷然としたものに変わり。

 締まりのない笑みを浮かべていた顔からは一切の表情が削ぎ落とされ、能面のように眉一つ動かない。

 声音から抑揚は失せ、話し方も冷ややかに、発語は必要最低限。

 何にも興味を示さず、視線も向けず、淡々と過ごす態度は以前では考えられない。


 だがそれが、現在の彼─────“円城真澄エンジョウマスミ”の姿だった。


「何言ったって何したって、いつもヘラヘラ笑って馬鹿なこと言ってた奴が、今じゃ笑いもしねぇ喋りもし ねぇ─────おまえ、アイツに何をした?」


 猜疑の強い視線と共に告げられた言葉に、片桐の書類を捲っていた手がようやく止まる。


 そして一拍の後。


「─────は」


 書類に落としていた視線をゆるりと上げた片桐の口から漏れたのは、紛れもない嘲笑。


「………それこそ“らしく”ないんじゃないか、生徒会長サマ?」

「!」


 揶揄するような言い方には似つかわしくない、抉るように鋭く冷たく見据えてくる眼に、男はひゅっ、と息 を呑む。


「様子がどうだろうと気にする義理も道理もない存在だろうが。おまえにとっての“円城真澄”は」

「……、そ、れは…」

「そもそもおまえが真澄の何を知ってる? 一方的な暴言を吐くだけだったような奴が」


 当て擦るように皮肉ってやれば、思い当たる節の有りすぎる男はぐっ、と押し黙る。


 口を開けば馬鹿にするような言葉を投げつけ、“鳥頭”だ“ゆる馬鹿”だとまともに名前を呼ぶことなく、事あ るごとに転校生の傍から排除しようとしていた奴が。

 暴力、暴言、更には家の力を使ってまで退学に追い込もうとしていたような奴が。

 今更偽善者ぶった顔で身を案じるなど愚かとしか言いようがない。


「むしろおまえたちには都合の良い状況なんじゃないのか」


 転校生に付きまとうな、と難癖つけて真澄をいびり倒していたのだ。風紀が保護する名目で引き離したとこ ろで非難される謂われもない。

 むしろ彼らにとっての邪魔な存在を風紀が引き受けていることを喜ぶべきだろう。


 連中の転校生を見る眼が以前と違って冷めていることを知りながら、今更覆しようのない過去の態度や行動 を嘲ってやれば男の顔は見事に歪む。


 その反応からして、男を含めた連中が未だ転校生の傍にいるのも、離れるに離れられないだけだということ は簡単に想像がついた。

 これまで所構わず見せびらかすように行動していたのだ。風紀が手を引いた今、連中が傍を離れれば何が起 こるかなどわかりきっている。

 自己の保身にかけては敏感な転校生が、今の状況で取り巻き連中を離すわけがない。むしろこれまで以上の 引き留めに掛かっている筈だ。


「人のことに口を挟む暇があるなら自分の方をどうにかするんだな」

「……おまえに言われるまでもねぇよ」

「ならばこちらにも口を出すな。おまえたちの態度で親衛隊はどうとでも転ぶ─────この際はっきり言 っておくが、この先“アレ”が絡んだ騒動に風紀は一切関知しないからな」

「……………風紀にあるまじき怠慢だな」

「どうとでも」


 苦々しげな言葉を素っ気なく突き返せば、男は眉を顰めてむっつりと黙り込む。

 無駄に反論してこないところを見ると、転校生が自分の身代わり兼引き立て役とする為に真澄を連れ歩いて いたのだとようやく理解したからだろう。

 更には変貌した真澄の様子を見て何か思う所でもあったのか。

 男は今更ながら悔やむように唇を引き結ぶ。


 しかしだからといって片桐にはその辺りの微妙な心理を汲み取ってやる気など更々はない。


「わかっているならさっさと手綱を握っておけ─────もっとも、一度痛い目を見させるつもりだと言う のなら逆に放置を推奨してやるが」

「…ッチ」


 これ以上話をする気はないとばかりに風紀委員長印を押した書類を顔面に突き付けてやれば、男は舌打ちし て引ったくるように奪い足早に部屋を出て行った。

 それを視界の端で見届けた後、片桐は脇に避けていた携帯を手に取りメール画面を開く。

 最新で届いていたのは真澄についている風紀委員からのものだった。


 “本日も異常無し”


 一日の動向報告の最後に書かれたその一文に、片桐は小さく息を吐く。


 噂では様々なことを言われているようだが、実際にはあの日の食堂以来、片桐は一度も真澄と顔を合わせて いない。

 その為、片桐が知る真澄の情報はすべてが護衛についている委員からのものだ。


 真澄に妙な絡み方をしたという一年の話も、当然その日のうちに報告として受けていた。

 だが。


『もういい加減片桐様のことを解放してあげて下さい! いつまであの人のことを縛るつもりですか!?』


 件の一年が、そんな余計な言葉で真澄に詰め寄ったらしいことを知った瞬間。


 一応の事情を聞く為に呼び出していた相手の顔面を、咄嗟に殴り飛ばしていた。


 表情一つ変えず為されたその暴挙に一連の経過を間近で見ていた風紀委員たちが凍りつくのを尻目に。

 護衛として傍にありながらそんな妄言を許した風紀委員二人の顔をも拳で殴り倒せば。

 真澄への対応に何かと不満を漏らしていた副委員長ですら、以来その処遇の一切に口を出さなくなった。


 無駄な暴力も理不尽な真似も一度としてなかった片桐の反応の激しさが、周囲には一層の脅威として映った のだろう。


 事実片桐にとって真澄の存在は、不可侵の領域だ。他人が踏み込むことを許さない。許せない。 真澄にも記憶があることを知ってその想いは更に増した。

 だからこそ勝手な思い込みや一方的な決めつけで真澄を非難する存在など容認できない。


 愚かしいほどに真っ直ぐで、驚くほどに強靭で、そのくせ手に取ろうとすれば脆く砕ける。




 ─────それが片桐の愛し、守る存在。













 思い返せば“フミ”は綺麗な女だった。

 容姿ではなく、その内面が。


 綺麗なものだけを与えられ、綺麗なものだけに囲まれ、綺麗なものだけを見て育ってきたとわかる純真無垢 さ。

 汚いものを映したことがないだろう澄んだ眼で見つめられる度、自らの暗く醜い部分が引きずり出さ れるようで。

 清廉な、穢れというものを知らない純粋さが─────やけに鼻についた。


 そんな負の感情を知りもしない、両親の愛情にぬくぬくと浸かっていた女からすべてを奪ったらどうなるか 。


 女の“家”が、その“名”が邪魔だという人間と手を組んだのも、単純に興味からだった。

 一度堕ちてみればいい、そんな悪辣な気持ちで近づき、甘言で取り入り、最後には手酷く裏切って引きずり 下ろした。


 両親を失い、家を奪われ、家名が地に落ちた時でさえ涙を見せず唇を噛み締め耐えていた女が。 妹を取り上げられそうになった時、初めて蒼白な顔で泣き喚き懇願した。


 自分はどうなってもいい、だが妹だけは助けてくれ、と。


 なりふり構わず縋ってきた、それすらはねのけてやった時の絶望した顔が堪らなく甘美で。




 ─────その顔が、見たかった。




 綺麗なものを汚し、踏みにじってやった快感。

 真白な中に消えない足跡をつけてやった達成感。


 茫然とこちらを見返す女に背を向けた時点で、自分にとっては過去となった話だった。


 しかしその数年後、己が裏切り貶めたその女が流行り病で妹を亡くし、しおれ果てた末に後を追ったと風の 便りで聞いた時。


 感じた衝撃は、なんと言えばいいのだろう。


 複雑でありながら単純な─────喪失感。


 そうして思い返し、気づく。


 あれほどの仕打ちをされておきながら、だが女の口からは非難の言葉も罵倒も一度として聞いたことがなか ったと。

 ただ『何故』という言葉。

 それと共に向けられた視線にあったのは悲哀と─────後の諦観。


 ─────思えばそれが転機だった。


 のし上がるためにしたかつての所業が降りかかってきたのは。


 女に懸想していた男の手によって嵌められてすべてを失ったのも、結局は因果応報というものだろう。

 身包み剥がされ放り出された山奥で、野犬に咬み殺された─────それが、色々なものを利用してのし上 がった男の、最期。


 死ぬ間際の脳裏に浮かんだのは─────己の手によって堕ちて死んでいった女の微笑み。


 すべてを許し受け入れる慈愛に満ちたそれが、何よりの答えだった。


 羨み、妬み、八つ当たりの逆恨みでしかない憎しみを向けることしかできなかった女を、それでも確かに自 分は─────愛していたのだと。

 その遅すぎた自覚は、最期の時に更なる絶望しか齎さなかった。


 それでも。




 “          ”




 最後の最後に願ったものは、自分の中にあった一番綺麗で、純粋で、偽りのない感情。

 だが事切れる間際に呟いた誓いは音にならず、闇に散った。


 それが─────運命の始まり。

















「………“来世こそ、君に幸せを”」


 放課後の見回りに委員たちを送り出し、一人になった室内で、あの最期の時、音にならなかった言葉を片桐 は今はっきりと口にする。


 そう、あの時。

 自身の手で壊してしまった幸せを必ず来世では返そうと、心に誓ったはずだった。


 なのに、実際は真逆。


 記憶が無かったことなど言い訳にならないくらい、これまで苦しめてきた。

 そこに至った原因が、ずっと身の内に巣喰っていた焦燥感。


 交わらない視線。

 近づくほどに遠ざかる距離。


 “何故俺を見ない?”


 “何故俺から離れる?”


 “何故俺から逃げて行く?”


 何故。


 何故。


 何故、何故─────ッ!?


 自分を視界に入れず、拒絶し否定する彼が、彼女が─────許せなかった。

 だからこそ思ったのだ。


『自分の思い通りにならないのなら滅茶苦茶に壊れてしまえばいい』と。


 心の内に灯った暗い情念が命じるまま、時には言葉で。

 時には金で。

 時には脅しで。

 時には暴力で。

 周りにいる人間を一人、また一人と引き剥がし。

 追い詰めて─────追い詰めて。


 けれど最期まで彼は、彼女は、自分に助けを求めることなく。

 友人を、兄弟を、親を引き離しても、あの存在は自分の元に堕ちてこなかった。


 二度目も。

 三度目も。

 その後─────今日に至る生まで。


 記憶を繰り越さないことが罰だったのか。

 何度も歪み。

 何度も間違えて。

 その度に絶望した。

 どの生でも失う瞬間に再生される過去の記憶。容赦なく流れ込んでくる映像と妄念とも言うべき感情に発狂 寸前まで追い込まれ。

 その破壊的な衝動のままに、遺されたすべてを自らの手でぶち壊した。


 あの存在がないのなら意味がない。価値がない。

 彼が、彼女が、自分にとっての“生きる意義”であり“世界”だったのだから。


 “世界”が消えたら─────朽ちるしかないのだ。


 しかし今生は初めて記憶が“引き継がれて”いた。

 執着からくる壊乱も、慙愧の念からくる焦熱も、延々と繰り返される鬼哭から派生した狂気も。 奪い続け、失い続け、相手を傷つける人生の記憶を持って生まれた今生だからこそ、気づいたことがあった 。


 彼は、彼女は、誰の手も必要とせず、独りで立ってしまう人だから。

 周りの人間を全て遠ざけたところで意味はない。

 ならば始めから目的であるその存在自体を攫い、囲い、隠してしまえば良かったのだと。


 その為には少しずつ包囲網を完成させて行く。

 ゆっくりと。確実に。逃がさないよう、気づかれないよう、静かに囲いを狭め。

 どれだけ拒絶されても、拒否されても、手放す気も失う気もないのだと。


 真澄自身にわからせる。


 本来ならもっと直接的な行動に出ることも選択肢としてはあった。何せ片桐にはそれだけの力がある。

 学園から、家族から引き離し、無理やり閉じ込めることもできた。

 だが焦って事を進め、反発されて逃げられては意味がない。


 だから。


 手の届く場所にいながら傍に行けない歯痒さも。

 すぐさま腕の中に囲いたくとも出来ない苛立ちも。

 すべては真澄を手に入れる為だと、自身を抑え込んだ。

 幾度も傷つけてきた過去がある以上、生半可なやり方では手に入れることなど出来はしない。




『誰よりもお慕いしております─────わたしの唯一の、あなた』




 思い出されるのは、かつての婚約者の、無垢で可憐な微笑み。


 その言葉があるからこそ─────信じていられる。

 再びその瞳に自分が映る日が来るだろうことを。


 繰り返しているのは“呪い”などではない、“祝福”だ。

 何度もやり直す権利を与えられているということが、共有している記憶こそが、その確固たる証。


 幾度生まれ変わろうと必ず巡り会う。


 傷つけることも、傷つけられることも、互いにだけ許された特権だ。

 あの存在の幸不幸を握るのは自分。

 そして自分のそれを握るのも、あの存在次第。


 かの存在がくれるものなら、嘆きも、苦しみも、きっとすべてが甘い痛みに変わる。


「おまえにとっての俺がそうであるように─────俺にとってのおまえもまた、“唯一”なのだと」


 決められた定めの前では気持ちの違いなど瑣末なことだと、片桐は低く嗤った─────。





















 少し離れた場所で定時の連絡を入れているらしい風紀委員を待つ間、真澄は窓際最後列の自席で頬杖をつい た体勢で外を眺めていた。


 あの食堂での一件があって以降、真澄の周りから人が消えた。

 それは真澄にとっての災厄を引き寄せる切欠となった転校生も例外ではない。

 いるのは護衛としてつけられている風紀委員だけだ。


 転校生に連れ回されていた時でさえ多少の交流があったクラスメイトたちも、現在ではめっきり疎遠になっ ている。

 今では同じ教室内にいても真澄に話しかけようとする生徒はいない。


 それというのも風紀委員長である片桐が強引とも言えるやり方で真澄を周りから遠ざけたからだ。

 同じ風紀委員ですら決められた人間以外は近づくことも許されない。

 常に護衛の風紀委員が間に立ち、用件も彼らを通して伝えられる。

 仕事との兼ね合いによって顔触れは日ごとに変わるが、必ず二人は真澄の傍らに配置されていた。


 そのせいで真澄は現在“風紀委員長の特別”というポジションに追いやられているのだ。


『あの風紀委員長が本命を作った』


 いつしかそんな噂話が校内で囁かれ始め、今では何故か真澄が片桐の“本命”という話になっていた。


 だが男の本性を知る真澄からすれば、その噂自体が見当違いで的外れなものでしかない。


 “清廉で潔癖”。


 周囲からそう評されている片桐の本質を、真澄ならばこう言う。


 “冷血な人非人”だと。


 利が有るか無いかでしか他人を判断しない、利益が無くなれば付き合いの長さや親密さ如何に関わりなくあ っさり切り捨てる、それがあの男の本質だ。


 恋? 愛?




 ─────笑わせてくれる。




 噂の当事者の片割れとして挙げられていることを知りながら、真澄の心情は限りなく冷めていた。

 現に今真澄の頭にあるのは、この先やってくるだろう被害を最小限に抑えるにはどうすればいいのか、とい うことだけだ。


 果たして男はどこまでの記憶を持っているのか。真澄の知る過去世すべてか。もしくは一部だけなのか。

 自分を“文”と呼んだことからして、少なくとも始まりの時の記憶はあるようだが。


 不可解なことに、あの日以来、片桐は真澄の視界から消えていた。


 それどころか一週間、二週間、ひと月、と経っても噂以外はこれと言った兆候もなく。

 護衛と言う名の監視役を付けられ、片桐の信奉者らしい連中から嫉妬と憎悪の眼を向けられたりはするが、 真澄の周りは平和そのものだった。


 しかしそれが余計に真澄の中の疑心を煽る。


 確かにあの時、真澄は男に向かって「姿を見せるな」とは言った。

 記憶があるのならば、真澄の反応などわかりきっているだろうと。

 それは真澄が男に譲れる最後の一線であったのだが。

 男は決して自由にさせるつもりはないのだと言うように、すぐさま手の内の者で真澄の周りを固めてきた。

 それを「守る」為だと好意的に解釈できるほど自分は素直でも単純でもない。


 愛してる。

 大事にする。

 信じてくれ。

 君を助けたいんだ。


 男の吐く言葉がどれだけ軽いのか身を以て知っているが故に。

 身の内に抱える悪意を相手に気取らせることなく笑って嘘を吐ける男の言うことなど、信じるに値しないと 。

 真澄は男の言葉すべてを拒絶する。


 信じる。

 信じたい。

 信じさせて。


 そう言って縋った日々は遥か遠い。


 生温く、甘ったるいほどに幸せで、何の疑いも持たず未来には幸せがあると信じていられた、まっさらなか つての自分など。

 泥にまみれ、汚れ、穢れてしまってからは、理解不能な他人の記憶としか思えなくなっていた。


 それでも一番鮮明に思い起こせるのは、その、好意に悪意が返ってくることなど考えもしなかった、何より 一番幸せだと感じられていた始まりの生。
















 “文”は伯爵家の長女として生まれ、優しい両親の元で何不自由なく大切に育てられた。

 甘え慕ってくれる五つ下の可愛い妹と過ごす日々は、幸せと輝きに満ち。

 いつまでもその日常が続くのだと、信じて疑いもせず。


 だがそれは、初めて恋心を向けた男と想いを通じ合わせ、将来を誓い合ったのを機に─────脆くも崩れ 去って行った。


 父は賊臣として捕らえられ獄中死。財産は没収、家は取り潰しになり、母は精神を病んで自死した。

 両親も家も失い、幼い妹共々身売りするしかないという状況になった時、最後の心の拠り所であった婚約者 の男の口から放たれた言葉は。




『そうですね、一度汚れてみればいい。ちょうど折りよく生娘を所望している異人の男がおりますから』




 あんまりな内容に何を言われたのか解らず、声もなく呆然と見上げた自分に、男は心底愉快と言わんばかり に。




『………ねぇ、文さん。あなたのその純粋さが、僕にはとても─────不快だったんです』




 そう言って、笑った。










 それからのことは、あまりよく覚えていない。

 自失している間に異国の貿易商を営む男に引き渡され。

 抗ってもどうにもならないと悟った後は─────ただ必死だった。

 奴隷という扱いでないだけ救いではあったが、しかし所詮は外妾。人種が違う物珍しさで興味が引けるのも 最初の内だけだ。碌な性技も持たない女など飽きられたら終わり。

 だがその歓心をつなぎ止めるのにこれまで培われてきた教養が有効だと知った時─────失われた両親を 思って一人涙した。


 思えば両親には周りの同級生たちより遥かに自由に育ててもらったように思う。

 そんな両親の在りようは憧れであり目標だった。自分もいつかはそんな家庭を築くのだと。

 男に惹かれたのも、聡明で誠実な父親の影をその姿に見たからだ。


 一緒になりたいのだと男を両親に引き合わせた時も、境遇や身分差に難色を示しはしたが最後には認めてく れた。

 『おまえが選んだ相手ならば』と。


 そんな経緯があるからこそ、男を恨むより憎むより、自分が選ぶ相手を間違えてしまったが為に両親を失っ た事実が─────何より辛い。


 自らの愚かさに両親と妹を巻き込んでしまった悔悟に暮れ、それでも別の場所に売られて行った妹を取り戻 すまでは飽きられて放り出されるわけにはいかないのだと自身に言い聞かせ。

 上流階級に属する相手との取引における接待要員として様々な場所に連れられ、命じられるがまま求められ るがままに身を預けた。


 そんな日々を必死の思いで生きていた自分が、やっとのことで妹の居場所を探し当てたのは、それから二年 後のこと。


 しかしその時には既に妹の命は儚く消えかけていた。








********








『ッアヤ……!』


 暗い室内で粗末な蒲団の上に横たわる愛しい妹の変わり果てた姿を見た瞬間、文の戦慄いた唇からは引きつ ったような悲鳴が漏れた。


 もっと早く動いていれば。

 もっと早く見つけてやっていれば。


 崩れ落ちるようにその傍らに膝を付き、震えながら持ち上げた妹の手は、かつての柔らかさなど見る影もな く筋が浮き、骨ばっていた。

 その事実が、更に文を打ちのめす。


『…………姉、様…?』

『…ッ』


 だがそこで小さく呼び掛けられた声に息を呑んだ。


 既に見ることも覚束無いのか、妹の眼は文の姿を探すように宙を彷徨う。

 その様子に震える唇を気力で抑え込み、文は努めて柔らかく言葉を返す。


『………綾、遅くなったけれど迎えに来たわ─────これからはずっと一緒よ』


 両手で包み込んだ手に頬を寄せ、虚ろに見上げてくる妹の眼を覗き込み微笑めば、彼女からは無邪気な笑み が返される。

 それを見た途端、堪えきれず、文の頬を涙が伝った。


 両親は救えなかったが、妹は間に合った。

 そう、信じたかった。


 けれど痩けた頬に、落ちくぼんだ目蓋、手を握り返す力さえ、もはや妹にはない。

 瞬間頭を過ぎった不吉な言葉を、それでも必死に振り払い。

 気づかない振りをした。

 認めてしまったら、その耐え難い現実を引き寄せてしまいそうで。


『…姉、様』

『っ、大丈夫…大丈夫よ…綾は何も心配しないでいいの。すぐお医者様に─────』


 自身にも言い聞かせるよう話す文の瞳からは、しかしとめどなく涙が溢れ落ち、横たわる綾の顔を濡らして 行く。

 そんな彼女を見上げ。


『…もう、いい、の…………姉、様』


 ようやく取り戻せた筈の愛しい存在が、淡く笑む。


『……、……綾?』

『……ずっと、会いたかったの………だから、最期に……お会いできて………うれし、かった』

『ッ』


 “最期”という不穏な言葉に息を詰める。


『綾……ッ!?』

『……ごめ、……なさ…ね、さま……………』


 覗き込んだ瞳から徐々に失われていく光。

 掬い上げた筈の掌から零れ落ちていく命の音。


『……、────────』


 ゆっくり閉じられた瞳。

 うっすら開いた口から途切れた吐息。


『……………、あや?』


 呆然と呼び掛けた声に返るのは─────静寂。


『………ねぇ……綾…? 待って、駄目…ッ嫌よ嘘でしょう、綾…っ! 綾ッ……!?』


 眼の前の細く痩せた体を必死で揺さぶり。

 それでも小さな反応一つ返らない事実に。




『…っ……ッ、あ…ああああ…っ、いやァあああああ─────ッ!!』




 喉が裂けんばかりに、絶叫した。








********








 それからはもはや文自身が屍のようだった。

 愛し慈しんだ妹の死は、彼女から生きる気力を奪い。

 食べることを放棄した体は日に日に衰弱し。

 周りから何を言われようと碌に反応もせず。


 結局、妹の死からひと月を数えた頃に自ら命を絶った─────それが、“文”としての最期。






 そんな記憶を継いで生まれ変わった二度目以降の人生は、振り返るのも厭なくらいに碌な死に方をしていな い。

 ましてやその原因を作るのはいつだって片桐の前身である男で。


 生まれる国、人種、性別もその時によって変わる自分の前に、男は必ず“容姿に優れた人格者”として現れた 。人が羨む美貌と才覚を持ち合わせた、人望に厚い男として。

 裏で非人道的なことに手を染めていながら、さも清廉潔白な人間だと言う厚かましい顔で。


 時代が時代だった。

 国が国だった。

 肌の色が。性別が。生まれ落ちた家が。

 原因を挙げて行けば決して男のせいだけとは言えない。

 しかし同時に、男と出逢わなければもう少しまともな人生であったのではないかと思うのだ。

 男と自分の因縁に巻き込まれ、道を踏み外した者も少なくないのだから。


 ある者は癒えない傷を抱え、ある者は精神を病み、ある者は自ら死を選んだ。


 自分だけが苦しいのだと言うつもりはない。

 自分だけが被害者なのだと言うつもりもない。


 だが。


 騙され、捨てられ、利用され続けてきた過去が、他人を信じる気持ちを喪わせ。

 躊躇う気持ちを棄てさせた。


「………『一度汚れてみればいい』」


 低く呟いた言葉は、つかず離れずの距離にいる風紀の護衛たちにも届くことなく、真澄の胸元にぽとり、と 落ちた。


 “文”と呼ばれていた始まりのあの日、あの時から、男に言われた通り汚れ続けた。


 人としての理性を持ったままでは生きられない環境に身を置き。

 個人の感情など容易く吹き飛んでしまうような時代を経て。


 気づけば全身血にまみれていた。


 それなのに今。

 純粋さが不快だと言って踏みにじった男が、『守りたい』と真逆のことを軽々しく口にする、その矛盾。そ の詭弁。

 今更何から守ると言うのか。多少の汚れなど意味をなさないくらいに汚れきってしまった後で。 人の信じ方など、とうに忘れてしまった自分に向かって。


 あの時、男の言葉を聞いた瞬間にこみ上げてきた衝動は、『守る』という言葉への反射的な拒否感だった。


 そして。


『どんなことをされたのかは知りませんが、センパイは片桐様の罪悪感に付け込んでるだけなんじゃないで すか!?』


 一昨日真澄を名指しで非難した生徒は、食堂でのやり取りから始まった今の状況をそんな言葉で示し。


 真澄の過去の傷を、外野特有の無神経さで盛大に引っ掻いてくれた。


 だから。


 もういいだろう、と真澄は思うのだ。

 自分はよく耐えた筈だ、と。 耐えて。耐えて。耐えた先にあったのは─────救いでも何でもない。延々と続く悪夢だ。


 何より、今生の男にはかつての“記憶”がある。


 ならば。




 ─────思い知ればいい。




 ふとした瞬間に心を掻き乱される辛さを。

 制御できない感情に振り回される苦しみを。

 突発的な怒りに身を焼かれる痛みを。


 男が自身の姿は見せることなく、人を使って真澄を周りから隔離した裏にどんな思惑があったのかはわから ない。

 だが、そう─────すべてがもうどうでもいい。

 その真意が何であろうと関係ない。

 これまでの苦しみの千分の一、否、万分の一でもいい、あの男に味わわせてやれるのなら。

 周りの人間を巻き込んでも構わないと─────枯れ果てたはずの憎悪が噴き上がり、それに触発された記 憶が叫ぶから。




『『『『『死して尚続く因果を、今こそあの男に贖わせろ』』』』』と。




 泥を被ることも、疎まれることも、蔑まれることも、今更厭いはしない。


 この、昏く鬱屈した感情を解放することができるなら─────何だって、誰だって利用する。







 周りに眼を配りながら寮室へと帰る道のりを警護する風紀委員二人の姿を、真澄はその時初めてまともに視 界に入れた。

 長身で体格の良い鋭い目つきをした生徒と、銀縁眼鏡を掛けた風紀にはそぐわない優形の生徒。 その二人の頬には、一目で殴られたとわかる痛々しい痕。

 それが誰によって為されたものか、これまでの経緯を思えば自ずと察しがついた。


 多分あの男は、自らが関知しないところで真澄に何かされることを酷く嫌う。


 それは、これまでが“そう”だったからだ。




「─────………、ねぇ。笹木ササキ加藤カトウ…、だっけ?」




 途端、弾かれたように振り返り、驚きに眼を見張ってこちらを凝視してくる彼らに向かって。


 真澄はひと月振りに─────ふんわりと笑いかけた。



























片桐隼人カタギリハヤト→過去世では“悪因悪果”という言葉通りの最期を遂げてきた人。これまでは生 まれ変わっても記憶を受け継いでこなかった為、相手への執着の根底にある激情の意味がわからず同じこと を繰り返してきた。毎回相手の死を契機に記憶を取り戻す為、絶望→狂乱→惨死の過程を辿ってきてる。 今生はその辺りの記憶がある分、真澄に対しては慎重そのもの。だがその態度が逆に真澄の疑心暗鬼を誘っ てしまうという悪循環。


円城真澄エンジョウマスミ→これまでの過去世では自虐→恐慌→絶望→憎悪→虚脱→諦観という感情の 変遷を経てきた子。そのせいで今生ではすべてが混ざって混沌としてます。ただ少なくとも“文”の時点では 片桐のことを恨んではいなかった。だがその後生まれ変わる度に結構な目にあわされ続け、今では片桐に対 して怨恨と不信感共にMAX。更に今回は片桐の行動パターンがこれまでの過去世とまるで違う&放置プレイ 中に色々考えた結果、何か妙なスイッチが入りました。


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