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生徒会顧問の執心

「元生徒会長の言い分」「元生徒会長の誤算」続編。





『この学園の生徒たちは皆それなりな家柄の子たちだからでしょうね。自分がなさねばならないことをわか っている子が多いんです』

『家の名を背負っているからこそ自分の立場というものをよく理解していますから』

『特に生徒会役員は優秀な生徒たちで構成されていますし。顧問と言っても提出された書類に目を通して判 子を押すだけですよ』

『むしろ他の部活の顧問になる方が大変です』


 吉戒千晶ヨシカイチアキが社会科教師として学園に赴任して三年。

 未だ学園の校風に戸惑うことの多い自分が生徒会顧問を任されることになった時、他の同僚教師たちからは そんな言葉を贈られた。


 この学園では年間行事を生徒会が、生活指導は風紀委員会が受け持つ。

 生徒会を頂点に風紀が規律を引き締め、教師は基本的に口出ししない。というより出来ない体制となってい た。

 生徒会や風紀委員会の権限が遥かに高く、教師が介入する必要がないほどにきっちりとシステム化されてい たのだ。


 赴任当初にそう説明された時は、生徒の自主性を重んじていると言えば聞こえは良いが、ある意味教師の責 任放棄だな、と感じたのを覚えている。

 しかしそれが学園の特色だと言われてしまえば、それほど立派な志を持っているわけでもない一教師の吉戒 に何が言えるわけもなく。


 その上で金持ち学校特有のしがらみを仄めかされてしまえば尚更だ。


 同僚の教師は学園生徒を“家柄が良く利発な子供たち”だと口を揃えて評した。


 だが蓋を開けてみれば、実際には家の名を笠に弱い者たちを見下げて格付けしているような、横暴で低俗な 空気が蔓延している場所だった。

 山奥の閉鎖的な全寮制、ということもそれに拍車を掛けていたのかもしれない。


 家格や容姿の良い者を崇め、その範囲に入らない者たちを虐げることが当然のようにまかり通っている学園 。その徹底した差別主義。

 それを『自分の立場を理解している』とはよく言ったものだ。

 本当に自分の立場を理解している者が、“制裁”などと言って一方的に個人をターゲット認定していたぶるわ けがない。


 だからこそ生徒会や風紀委員会に容姿や家柄の良い者たちを集めて抑止力としたのだろう。

 しかし逆にそれが新たな弊害を生んでいた。


 吉戒自身、眉を顰めるような光景に出会ったことも少なくない。

 それでも勤続年数の少ない教師にできることなど高が知れていて。

 精々が被害に遭った生徒を一時的に保護してやるくらいのことしかできなかった。

 下手に関われば逆に足を掬われる。それは教師も例外ではない。

 そんなところにも連綿と受け継がれた学園の歪みが見て取れた。


 そういった場面を眼にする度、教師としての役割や自身の立場を考えさせられ、吉戒は三年目にして辞め時 かとさえ思っていたのだ。ここに来た経緯をも振り返り、自分は教師に向いていないのだと。

 当然、生徒会顧問の話を持ち出された時も断るつもりだった。

しかし。


『来期の生徒会長はあの皆瀬海里ミナセカイリですからね、彼に任せておけば大丈夫ですよ』


 結局はそんな言葉で押し切られた。


 “皆瀬海里”


 家柄も良く、頭脳明晰で眉目秀麗、それでいて公平無私の才色兼備。

 学園内に蔓延る悪習に染まることなく、理性的な立ち居振る舞いでカリスマ的人気を誇る生徒。


 それまではそんな噂程度にしか吉戒は海里を知らなかった。


 受け持つ学年が違う為、特に関わりがなかったから、と言ってしまえばそれまでだが。単純に興味がなかっ たのだ。


 それでも気が進まないながら引き受けることになったあの日。

 生徒会顧問として、次期生徒会長である彼と初めて間近で対面した瞬間。


 体の中を走り抜けたのは純粋な衝撃。


 これまでどんなに綺麗な顔をした生徒に迫られようと決して動かなかった気持ちが。


 海里と眼が合った瞬間─────初めて乱れた。


 逸る鼓動。

 渇きにも似た情動。

 体のあからさまな反応。


 気持ちが先か体が先か。

 わからないままにすべての意識を奪われ。


 衝動的に思った。


 ─────欲しい。


 と。


 理屈じゃない衝動で誰かを欲しいと思ったのはこの時が初めてだった。


 だが自分は曲がりなりにも教師で、相手は生徒。

 いくらこの学園が他とは違う特殊な場所であろうと、その一線を越えることはないよう自分に言い聞かせ。

 せめて海里が卒業するまでは、言葉にすることも態度に出すことも自重しようと。 さすがにその程度には教師としての倫理感というものを持ち合わせていた。


 しかしそう自制はしていても、欲しい相手が手の届く場所にいて何も思わずにいられるほど理性的ではなく 。

 見つめる視線に抑えきれない即物的な欲が浮かんでいる自覚はあった。

 そして手を伸ばせない分、何度も頭の中で夢想しては海里を穢し。


 やがてそんな吉戒の視線の意味に気づいたらしい海里は、必要最低限にしか関わろうとはしなくなった。

 それが逆に吉戒の想いを募らせることにもなったのだ。


 そうしてじりじりとした焦燥と理性のせめぎ合いで頭がどうにかなりそうだった時。


 あの転入生がきたのだ。








 2Aに来たというその転入生が発端となって引き起こされた騒動は、受け持つ学年が違う吉戒の耳にもすぐ 届いた。


 人気のある生徒たちが、可愛らしい容姿の転入生を巡って派手にあちこちで騒ぎを起こしているらしい、と 。

 そして会長である海里を除く役員たちもまた、その転入生に夢中になっているということも。


 とはいえ1Aの担任である吉戒に直接的な関わりがあったわけではない。ましてや他学年の問題であるそれ に関わる義務もなかった。


 だがそれも生徒会顧問としてとなれば話は別で。


 話の事実確認の為に生徒会室を覗いてみれば、そこにいたのは何故か海里一人。

 他の役員たちがいないことより何よりまず驚いたのは、書類が山となった机の有り様だった。


 そこで初めて事態の深刻さを知った吉戒だ。

 まさか他の役員たちがここまで全てを放置しているとは思ってもみなかった、というのが本当のところで。


 しかし海里は唖然としている吉戒に気づくと、まともに機能していない生徒会の状態を詫び、自身の親衛隊長をサポート人員として使うことの許可を求めてきた。他の役員が使い物にならなくなっていることを理由 に。


 当然許可したものの、だからと言ってそれでどうにかなる仕事量ではない。かと言って慣れない相手に任せ るよりは、というのが海里の判断らしかった。

 とはいえここまでの状況になっている以上、原則教師は非介入などと言っていられない。

 見兼ねた吉戒が他役員たちへ働きかけようと試みたのだが。


 校内放送で呼び出しをかけても来やしない。

 教室へと足を運んでも姿自体が見えず。

 クラスメイトに言付けを頼もうにも連中の立場が立場だ。不用意に一般生徒には頼めない。

 かといって連中の親衛隊に頼むにしても転入生のことで溝が出来ているらしく、まともに話ができるかどう かも怪しい状況。


 それでもどうにか風紀室で捕まえた彼らの、責任の欠片も感じられない勝手な言い分に─────吉戒はま ともに相手にしないことを決めた。


 聞きもしない相手に何度も忠告するほど暇じゃない。しかも自分の受け持ちでもない他学年、他クラスの生 徒相手に。

 いつまでも繰り返し諫めて貰えると思っていたとしたら、それは甘えだ。

 高校生にもなってやっていいこと悪いことの判断がつかないはずがない。


 そうして彼らを放置していれば。

 次に流れ出したのは海里の信じられない噂話。


 あまりにあまりなその内容に、書類を提出しにきた彼の親衛隊長である赤羽美弥を捕まえて問い質した吉戒 は、しかし返ってきた言葉に声を無くした。


『僕らだってどうにかしたいですよ、あんな悪辣な噂! でも海里様が口を出すな、と……』


 聞いた瞬間、何故と思うよりも先に、そこにある海里の思惑に気づいて途端に頭が冷えた。


 これまでの実績から来る人望、親衛隊の規模を鑑みてもたった一言否定すれば済むそれ。

 その気になれば噂など簡単に払拭できる海里が、それを敢えてしなかった理由。


 その意図に思い当たり、吉戒の中に暗く淀んだ感情が一気に噴き出す。




 ─────そこまで、俺から逃げたかったか。




 吉戒の視線に海里が苛立っていることには気づいていた。

 視線以外の行動が無い為に、拒否すらはっきりできないという状態にストレスを感じているだろうことも。


 そこに来てこの騒動。


 義務を放棄したばかりか悪質な噂を流して海里を排除しようとしている役員たちや。

 海里に執着し、情欲を隠しもしない眼を向けてくる教師など。


 穏便にどうにかしようとするより、この状況を機に─────見切りをつけた方が早い。


 そう、彼が考えただろうことは明白だった。


 しかしまさかこんな不名誉な噂話を放置してまで距離を取りたいと思われていたことに、ギリギリのところ で堪えていた吉戒の理性が、ぷつりと切れた。


 同時に思う。

 ではどうすれば良かったのか、と。

 想いを告げること自体が不適切だとされる教師という立場にある自分に、見る以外に何ができたのか、と。

 言葉に出すことも態度に出すこともできず。その上で見られること、それすら耐えられないと拒絶されたら 。


 教師としての立場を律儀に守ったところで、海里は逃げて行く。


 想いを告げることが許される立場になってから、などと悠長なことを言っていれば、このザマだ。


 なら。




 ─────立場を守る必要など、ない。




 教師だろうが何だろうが、欲しいものは欲しいのだ。

 逃げたいと言うのなら一度は逃がそう。

 多少距離が開いた程度で冷めるような気持ちじゃない。




 ─────必ず、捕まえる。




 そう覚悟を決めてからは早かった。


 敢えて噂をどうにかしようとはせず、吉戒は事実確認に来た生徒たちに対して『何が事実かは自分たちで見 極めろ』というスタンスを貫いた。


 当然、自分の眼で見て海里を信じる選択をした者もいた。

 しかしどうとでも取れる態度が逆に不安を煽ったのか、最初は噂を信じていなかった生徒たちも、否定どこ ろか姿も見せない海里に対して徐々に不信を抱くようになり。

 それまでの印象を打ち砕く話を聞くにつれて、やがて生徒たちの間に『裏切られた』と言う空気が広がり始 めたのだ。

 気づけば憶測さえ断定となり、海里の噂は途端に悪意ある下世話なもので膨れ上がった。


 そうした噂が広まるのを傍観し、海里のリコール、転入生の生徒会長就任となった時。


 吉戒は生徒会顧問として彼らに最初で最後の釘を差した。

 

『おまえたちが自分で選んだんだ。後は“自己責任”─────わかってるな?』


 他者に全ての責任をなすりつけたことに対して“自己責任”というのも笑える話だが。


 “仕事してないのは海里の方だろ!”

 “そうですよ、私たちはちゃんとやってます”

 “変な言い掛かりつけないでよねー、センセ”

 “やってないの、会長の方”


 仕事をするように求めた自分に彼らが平然と嘯いたその言葉を吉戒は忘れていない。


 その意味する裏に気づいたらしい転入生以外の三人は、一瞬顔を引き吊らせた。

 だが。


『当たり前です。私たちには私たちのやり方があります。吉戒先生の手を煩わせるようなことはありません ので』


 余計な口出しするなと言わんばかりの言葉に、吉戒は生徒会に関わることの一切合切を放置した。


 “優秀な役員たち”に任せておけば問題ないと。

 これも卒業後の先を見据えた訓練であり予行練習なのだと。


 そう、以前言われた通りに。


 何より例え生徒であろうと、惚れた相手を悪し様に言って貶めた連中をフォローしてやろうと思えるほど吉 戒は心が広くなかった。


 そうして好きにしろと突き放した結果、彼らは面白いほど簡単にボロを出し始めた。


 一生徒であればそれほど問題にはならなかった転入生の利己的で自己愛が過ぎる面も、権威を与えてしまえ ば独善へと一直線だ。


 時間が経つにつれ眼につき始めた新しい生徒会長の問題行動と度重なる失言。

 途端に滞り始めた書類。

 仕事放棄と生活態度の乱れを理由に海里をリコールして会長をすげ替えたはずなのに、状況はむしろ悪化し て行く一方。


 最初に意気揚々と出席した会議では委員たちとのやり取りで癇癪を起こした転入生が途中で退席。

 仕事を放棄していた役員たちもまごつくばかりで進行もままならず、決めるものも決められない。

 準備が進まないばかりか話し合いも頓挫。


 生徒どころか教職員すらも初めての事態に右往左往している様を、だが吉戒は何をするでもなく冷めた眼で 見ていた。

 むしろ今まで大きな問題が起こらなかったのは、過去の生徒会や風紀が非常に上手く機能していたからなの だと。


 何かコトが起こった時、権限が一カ所に集約されていると総崩れになる危険性を孕む─────その良い例 だ。

 教師や風紀、実行委員たちからの生徒会役員に対する陳情にも、だが吉戒は首を振り続け。


『どうにかしようにも今はこちらまで書類自体が回ってこなくてな』


 基本的に生徒間で全てが回るようになっているこの学園では、生徒会顧問と言っても上がってきた書類に眼 を通し、不備がなければ承認印を押す程度の権限しかないのだから勝手がわかるわけもない。最終的には更 に上、理事長の判断待ちだ。

 ましてや海里がリコールされた後のやり取りから考えても、役員たちが吉戒の言うことを大人しく聞くとは 思えなかった。

 それどころか余計に意固地になる可能性の方が高い。


 その辺りを噛んで含めるように言えば、誰もがバツが悪そうな顔で退いて行った。


 海里をリコールして転入生が生徒会長になることを認めたのは学園の生徒たちであり、それを傍観していた のは吉戒だけでなく他の教師たちも同じだったからだ。

 今更“こんなはずじゃなかった”は通らない。


 ここにきてようやく流れていた海里の噂話が取り巻き連中の悪意からきたものだと学園生たちが気づいた時 には既に遅く。


 大幅に日程がズレたばかりかまともに準備すら出来なかった体育祭が、例年にはない小規模で盛り上がらな いままに終わった後だった─────。









 そんな経緯で起こった彼らのリコール劇から一ヶ月が過ぎた現在。

 海里は宣言通り、自らが推した新役員たちをサポートする為に放課後はこちらの本棟へと日参していた。

 その折には彼の親衛隊員たちが本棟入り口で出迎え、ボディガードさながら周りを囲んで吉戒のいる社会科 準備室まで送ってくる。勿論、本棟と別棟間の道のりは2Eクラス面子が付く。

 帰りは生徒会役員の誰かしらが寮まで付き添うという徹底ぶりだ。


 最初は何でそこまで、と難色を示した海里だったが、2Eクラスメイトたちと、何より自身の親衛隊から切 々と訴えられては突っぱねることもできなかったらしい。


 というのも、海里のところは親衛対象と親衛隊員の関係が非常に良好なのだ。そもそも海里の親衛隊自体が隊長による面接制。隊長と面談し、そして許可が降りなければ入隊することも叶わないらしい。

 規律を守り、分を弁え、親衛対象を影から支える、まさしく海里の親衛隊はそういう集団だった。


 だからこそ海里は自身の親衛隊を信頼し、気にかけ、交流を欠かさない。定期的に催される茶会でも隊員一 人一人と言葉を交わし、個々の性格や彼らの人間関係なども把握している。

 親衛対象と親衛隊の距離が近しい分、意思の統率が見事になされているのだ。


 だがそんな隊員たちに自身のリコールのせいで肩身の狭い思いをさせてしまったという負い目から、彼らの 願いを無碍にはできなかったらしい。

 結局は送迎時の人数を減らすことを条件に折れた形となっている。


 そして海里の妥協を引き出して以来、常時四人の生徒が彼の送り迎え時に配置されるようになっていた。


 そんな理由で、つい先ほどHRが終わるのを廊下で待ち構えていた海里の親衛隊長である赤羽から送迎完了 連絡を受けたところだ。

 吉戒が社会科準備室に不在の時は、わざわざ隊長自ら1Aに赴いてまで連絡を入れるくらいの念の入れよう であった。


 今、親衛隊員以外で海里に近づくことが許されているのは以前からの彼の友人、今回の件で有望と認定された者、後は前期の生徒会、風紀の役員であった三年のみ。

 それ以外の生徒が近づこうものなら、海里を囲んでいる隊員たちから激しく威嚇されるのだ。


 ─────テメェ、どのツラ下げて話しかけるつもりだ、あ゛ぁん!?


 背後にそんな言葉が見えるような鋭さで睨みつけられ、声をかけようものならバリエーション豊かな罵声が 待ちかまえている。


 可愛らしい顔立ちの隊員たちが揃って巻き舌で怒声を浴びせる様はなかなか心臓に悪い。


 何度か眼にしたその光景を思い返しては溜め息をつきつつ、吉戒は足早に社会科準備室へと向かう。


 海里には予備のカードキーを渡してある為、吉戒がいなくても出入りするのに問題はないのだが、社会科準 備室は校内において二人きりで過ごせる唯一の空間でもある。それがたとえ数分であっても貴重な時間だ。

 だが生憎と1Aから社会科準備室までは結構な距離がある。無駄に広い校舎がこの時はやたらと恨めしい。


 そうして辿り着いた社会科準備室の扉の鍵を手早く外して踏み入れた室内は、壁伝いに本棚が配置された中 央に作業用の長机が二つ並ぶシンプルなものだ。

 入口からは見えないようパーテーションで仕切られた正面奥には仮眠用のソファベッドが置かれ、対角線上に見える扉を開ければそこにはちょっとしたキッチンとシャワールームが完備されている。


「─────海里?」


 後ろ手に閉めた扉を再度ロックしながら、既に来ているだろう相手の名を呼ぶが、しかし返事はない。

 だが海里の在室を示すように、彼が持ち込んだらしき紙袋とブレザーが中央机の上には置かれている。


 それを確認してからパーテーション奥を覗き込むと、ソファの上にはネクタイを緩めた格好で無防備に眠る 海里の姿があった。


「海里」

「……んー……」


 ソファの背もたれに手を付き、腰を屈めて海里の目許に掛かっていた髪を指で梳き上げながら呼びかければ 、彼は僅かに身じろいでうっすらと眼を開けた。


「………………ちあき…?」


 数回瞬いた後、寝起き特有のぼんやりした様子で名前を呼ばれ、吉戒の顔がつい綻ぶ。


「……そろそろ迎えが来るんじゃないのか?」

「……ん……、あー…、ん。起きる」


 微かに首を動かしてそう言った後、無意識なのか吉戒の掌に頬を擦り寄せてくる。


「……海里」

「ん」


 吉戒の袖口を指先で掴んでゆっくり瞬きするその様は普段と違って稚く、堪らない気持ちにさせる。

 今はこうして幼い仕草を見せる彼の艶やかに乱れる瞬間を知っているからこそ、余計に妙な背徳感を覚えず にはいられない。


 それでも海里を強引に絡め取ったそのことに対して後悔の欠片もない自分は、やはり教師に向いていなかっ たな、と思う。


 未だ眠気が去らないのか、瞬きを繰り返す海里の頬を指先で撫でながら、吉戒は覆い被さるようにしてその 薄く開いた唇を塞いだ。


「ん、……ん」


 意識がまだはっきりしていないからか、海里は特に抗いもせずにされるがままに受け入れる。

 それをいいことに吉戒は感触を楽しむように何度か角度を変えて啄み、ゆっくり舌を差し込む。 歯列をなぞって上顎を舐めてから舌を絡めて吸い上げれば、徐々に覚醒してきたらしい海里の手が吉戒の胸 を押し返してきた。


「っ、は…」


 そうして押されるままに唇を離して身を起こした吉戒の下では、潤んだ眼に非難がましい色を乗せた海里が こちらを見上げてくる。


「……なん、で…あんたはいちいち…こう、普通に起こせないんだよ…」


 口許を手の甲で押さえながら海里は眼を吊り上げるが。


「仕方ないだろう、心底惚れ切ってるからな。顔見れば触りたくなるし、軽いキス程度で済ませられるもの じゃない」

「………ホント、あんたって……」


 悪びれもせずに肩を竦めてそう言った吉戒に、海里は脱力したように肩を落とす。


「……………こっちは昨夜のせいで怠いっつーのに…」


 海里は横にしていた体を起こしながら口を尖らせてぶちぶち言うが、それでも隣の空いたスペースに吉戒が 腰を下ろせば自然と背中を預けてくる。

 慣れた動作でその体を抱き留め、吉戒は彼の緩んでいたネクタイを抱え込むようにして締め直し、今度はこ めかみに唇を押し当てた。

 そうして腹に腕を回して海里を抱え込んだ体勢で落ち着いた吉戒に、腕の中に囲われた彼からは溜め息が落 ちる。



「……なんつーか、あんたって顔に似合わずベタベタすんの好きだよな」

「………鬱陶しいか?」

「いや。そういうわけじゃないけど、まだこの距離感が慣れない」


 海里がそう言うように、吉戒の部屋で一緒に過ごした昨夜もこんな調子だった。

 吉戒の手を拒むわけではないが、抱え込もうとする度に戸惑ったような顔をして。


 どちらかと言えば長身に入る部類の海里だからか、自分より大きい相手に抱き締められるのはどうも居心地 が悪いようだった。


 だが吉戒は何かにつけて海里を抱き締めたがる為、今ではよほどのことがない限り拒まない。

 ただそのおかげでうっかり不埒な悪戯をし始めたら止まらなくなることもしばしばだった。

 昨夜も早々に海里をベッドに引っ張り込んだのは記憶に新しい。

 最終的には『しつこい!』と怒られるほどの結構な回数を付き合わせもした。

 それでも結局は昨日の今日でこうして許してくれるのだから海里は甘い。


「……あ。メールきた」


 そうして吉戒の腕の中でケータイを弄っていた海里が、ふと声を上げる。


「……なら扉開けておくか」


 今日はこれまでか、と吉戒は溜め息をつき、海里を離して扉の鍵を外しに行く。

 何せそうしておかないと役員たちが五月蝿いからだ。

 以前鍵を掛けていたことで一度嫌味を言われた。


『そりゃ吉戒先生ですから? “万が一”にも間違いなんてないでしょうけど。でもやっぱり誤解を生むような ことは慎んだ方が良いと思うんです』


 その時にはしっかりばっちり海里に対して間違いを犯していた為、非常に耳が痛かっ たのでよく覚えている。


 それ以来、彼らの迎えがくる前に鍵は開けておくようにしている吉戒だ。


 しかし、ぴっ、という電子音がするのと同時に外側から微かに聞こえた声に、もうきていたのか、と内心舌 打ちする。 渋い顔で吉戒が扉を開ければ。


 そこにいたのはどこか気まずそうな顔の元生徒会役員たち。


 吉戒の中で印象最悪なその三人の姿につい、と片眉が上がる。


 何せ彼らは現在転入生の世話係となっているはずだった。また騒ぎや面倒を起こさない為の。


 当初は容姿の良さで学園生徒たちにもちやほやされていた転入生だったが、会長職を早々にリコールされた 今では取り巻き連中以外から存在自体を黙殺されるまでになっている。


 容姿の良し悪しで判断することを咎めておきながら周囲に置くのは顔の良い者だけ。

 言行不一致が多く、周囲の状況を把握できない愚鈍さ。

 自分の非を指摘されると逆ギレして相手を罵倒する。


 転入生のそんな陰口をそこかしこで聞くようになっていた。


 だがそれも転入生を会長に据えて初めて気づいたと言うのだから笑うに笑えない。

 吉戒が見聞きした限り、転入してきてからの彼の言動や行動はまったく何一つ変わっていないのだから。

 ただ単に彼に対する周囲の見方が変わっただけのことで。


 『明るくて天真爛漫』が『我が儘で自己中心的』となり。

 『感情豊かで可愛い』は『感情的で扱い辛い』へと変わり。


 転入生は同じように振る舞っているのに何故かこれまでとは違って人が離れて行く。


 それをどうにか引き戻そうとして躍起になり、だが上手く行かずに喚き散らすことが増え、更に人が遠巻き になる。その悪循環。


 そして元役員を始めとした取り巻き連中は、その転入生の身勝手な態度を助長させた原因としての責任を現 在進行形で取らされているのだ。


 聞くところによれば、当の本人は周囲の空気も一向に解さず、生徒会長という肩書きがなくなってからも授 業をまともに受けることなく、何かにつけて海里を声高に非難しているらしい。

 逆にそこまで自らを省みない図太さは、ある意味見事ですらある。


 だが今この場にその問題児である転入生の姿はない。


 吉戒は中にいる海里に気づかれないよう室外に出ると、閉めた扉を背に彼らと対峙した。


「……おまえたち、子守りはどうした」


 盛大な皮肉を込めて吉戒が問えば。


「ッ、……今は広岡ヒロオカ中安ナカヤスが……」


 “子守り”の部分には反論せず、ここにいる元役員連中と同じように転入生を自分たちの“光”だ“太陽”だ、と追 いかけ回していたスポーツ特待生と一匹狼などと呼ばれていた二人の生徒の名前を挙げた。

 ここに来てさすがに彼らも転入生の感情的な言動や行動に辟易しているようだ。

 久々に間近で見た三人の顔には疲労が色濃く滲んでいる。


 しかしだからといってそれがこの場にいる理由にはならない。


「アレは二人で制御できるようなタマじゃないだろうが」


 吉戒が転入生と会話したのは数えるほどしかないが、話せば話すほどこちらの生気を奪っていくようなキャ ラクターだったことは体感として知っていた。


 今までは彼の周りにそれなりの生徒たちが群がっていた為、その強烈さも分散されていたのだろうが、あの 勢いは二人やそこらで止められるものではない。


 そんなものを放置してきたのか、と白い眼を向ければ。


「ッでも! 今日は……、その。かいちょ…、じゃなくて、皆瀬に話が─────」


 弁解しようとしたのか元会計が口にした言葉に、今度ははっきりと吉戒の眉が不愉快そうに上がる。

 彼らが海里にしたい話の内容に察しがついたからだ。


 海里が生徒会のサポート役となることが決定した時、彼には密かにSクラスへの再移動話が持ち上がってい た。

 しかし海里はその話を蹴り、本来ならばEへのクラス落ちとなるはずだった転入生及び取り巻き連中のこと も、『定員オーバー』だと突っぱねたのだ。


 何せこれまでにも転入生への制裁を試みたとしての責任を押しつけられ、取り巻き連中の親衛隊に所属して いた隊員が数名、海里に先んじてクラス落ちとなっている。さすがに二桁とまでは行かないものの、それに 近い数は移動となっていた。


 そこにまた数人クラス落ちしてくるとなれば、どう考えても超過人数だ。

 海里一人が移動したところで人数に釣り合いが取れるわけもない。


 打診してきた教師に海里はそんな理由をつけて無理やり押し切った。


 海里がそう拒否した裏には、折角居心地の良い場所であるクラスに騒動の根源である異物を放り込まれてた まるか、というのがあったらしい。

 ましてやそのトラブルメーカーの被害に遭い、クラス落ちした元親衛隊員のことを思えばその辺りを譲るこ とはできなかったのだろう。


 彼らがクラス落ちとなる際、海里が前もってEクラスのトップである犬養に話を通して頼んでいたらしいの だが、だからと言ってそんな簡単に行くものでもない。

 今でこそEクラスに馴染めているものの、それでも不祥事の責任を押し付けられた上でのクラス移動だ。そ う簡単に気持ちの切り替えができているとも思えない。


 そんなところに原因となった連中が移動して来るとなればどうなるか。

 その辺りの問題を海里は特に気にしていた。


『何でもかんでもEに押し付けないで下さい』


 結局は海里のその言葉でクラス変更話自体が立ち消えになった。


 そして何より重要なことに、この短期間で二度もクラスや部屋の移動なんてやってられるか、というのが海 里の偽りない本音だったようだ。


 しかし何を勘違いしたのか、元役員たちはそれを海里の温情だと都合良く解釈したらしい。


 それには吉戒もさすがに溜め息を禁じ得ない。


 彼らに対する信頼も仲間意識もなくなった海里相手に、この期に及んで何を言うつもりなのか。


 そもそも海里はそんなに甘くない。


 彼の中では許せることと許せないこと、その境界線がはっきりしているからだ。

 連中の存在自体をスルーし関わらない、その態度が何よりの証拠である。


 そういった意味では吉戒はただ単純に運が良かっただけだ。

 海里の性格を見越して強引に一線を踏み越えはしたが、ほぼ博打に近しい賭けだった。

 本来なら拒絶されて当然な行為だったが、海里が吉戒の気持ちを受け入れてくれたが為に曖昧な許しを得た 形となったからだ。


 元役員たちの話の内容が何であれ、海里からすればそれは面倒なものでしかない。謝罪や弁解も、それこそ 話すことも意味がないと。


「話も何も今更だろう─────諦めて子守りに戻れ」


 嘆息一つで海里と会わせることを拒否した吉戒に、だがやはりそう簡単に引き下がる気のない彼らは不満げ に突っかかってくる。


「そんなのセンセが決めることじゃないじゃん。とにかく会わせて。中にいるんでしょ?」

「私たちはただ皆瀬と話がしたいだけです」

「先生…には、カンケイ…ない」


 その相変わらずな様子に、吉戒からはもう溜め息しか出ない。


 ここでこうしている内に戻った方が彼らのダメージも少ないと知っているからこそ言っているのに、それを まるで理解しようとしない元役員たち。


「そうは言ってもな。俺は、これ以上おまえたちのことで皆瀬に余計な面倒を掛けさせるつもりはない」

「っ! でも、それは」

「言い訳は必要ない。おまえたちの怠慢であいつにどれだけの迷惑を掛けたのかわからないとは言わせない 」

「…っ、だ、って」

「むしろあんな真似がよくできたもんだな。謝れば許されるなんて甘いことを考えているなら、帰れ」


 吉戒は腕を組んで背を扉に預けたまま、顎で彼らに戻るよう促す。


「…っ、それは仕方ないじゃないですか! だって皆瀬は何も言ってくれなかった! 仕事のことも噂のこと も!」


 しかし最後は逆切れしたかのような元副会長の身勝手な言い分に、吉戒は疲れたように天を仰ぐ。


「………大体その考え自体がそもそもの間違いだろうが。とにかく無理なものはむ─────」

「あっ、吉戒先生ー! お迎えに上がりました!」


 言葉の途中で割り込んできたのは、高めのボーイソプラノ。


「………相川。今日もおまえか」


 声のした方へと視線を向ければ、生徒会補佐の一人である相川アイカワが駆け寄ってくるところだった。


 比較的小柄で綺麗な栗色の髪と眼が特徴の彼は、海里の親衛隊にいそうな可愛らしい容貌の持ち主だ。


「ふっふー、昨日に続いてジャンケン二連覇ですよ! やっぱり日頃の行いがいいからですかね」


 胸を張って自慢気に話す相川は、だが視界に入っているはずの元役員たちの存在には一言も触れない。


「ちょっと、鹿島会長! 早くしてください! 皆瀬先輩が待ってるんですから!」


 それどころか後ろを振り返り、これ見よがしに海里の名を持ち出す。


「あーもう、こんの海里大好きっ子が! 多少待たせたところであいつは気にしないよ」


相川がやってきた方向から少し遅れて現れたのは生徒会長の鹿島カシマだ。 高校生らしからぬ大人びた容貌に呆れを乗せ、小走りでやってくる。


「何言ってるんですか! 早く行けばそれだけ一緒にいられる時間が増えるんですよ! その大事で貴重な時 間を減らす気ですか!?」

「あー、うん。ソウデスネ。ゴメンナサイ」


 くわっ、と相川に信じられないとばかり責められて、鹿島は降参とばかりに両手を上げる。

 そうして彼も元役員たちを一瞥した程度で吉戒に向き直ると。


「最近雰囲気が柔らかくなって更にモテモテだと評判の吉戒先生こんにちは。海里、います?」


 笑っているのに吉戒に対してはいちいち刺を乗せてくる鹿島だ。


 彼には海里に対する気持ちを感づかれているらしく、最初からこんな調子だった。

 意外と卒なく幅広い友人関係を築いていそうな鹿島であったが、どうやら海里はその中でも“特別”だったら しい。

 彼はその海里を吉戒の元に一回預けなければならないこの状況がかなり不満なようで、鹿島が迎えの時はい つもこんな感じだ。


 とはいえそれも今はまだ一応“友人”の範疇らしいので、吉戒もその警戒混じりの敵意を毎回受け流すだけに 留めている。


「……ああ、開いてるから入れ」


 内容の前半部分には敢えて触れずに体を退ければ、すかさず鹿島が扉を開けて声を張り上げる。


「海里ー、お迎えですよー!」

「……鹿島、うるさい」


 既に準備していたらしくきっちりブレザーを着込んで紙袋を片手に出てきた海里は、そこに元役員たちの姿 も認めて僅かに片眉を上げた。だがすぐ興味を失ったように視線を逸らす。


 その態度に怯んだのか、小さく息を漏らしただけで声を掛けることもできない元役員たちを押しのけ、鹿島 は海里の背中に覆い被さるようにして懐く。


「ね、ね、海里! 今日のおやつ何?」

「……鹿島……、二言目がそれか?」

「だって先週の肉まんと胡麻団子、すごい美味しかったー」

「はい! 先々週のフィナンシェとミートパイも絶品でした」


 鹿島の主張に続けて相川がしゅぴっ、と右手を挙げて補足する。


「ね。あーあ、Eクラスいいなー。調理実習の日はお昼だってそっち行きたいくらいなんだよ。すっげ楽し そうじゃん。先週は中華だったって言ってたし。俺、海老チリ食べたかった」

「ラーメンも手打ちしたんですよね? 麻婆豆腐とか小籠包、餃子に焼売、回鍋肉! 杏仁豆腐とかエッグタ ルトも! …いいなー」

「料理にお菓子まで作れるってんだから、海里ってばどんだけ器用なの。差し入れてくれるヤツは全部美味 しいしー」

「本当ですよね。僕も皆瀬先輩にお料理教えてもらいたいです」


 そう言ってにっこり笑い合う様は仲良さげで何よりなのだが、毎週『おやつおやつ』とせがまれている海里 は呆れ顔だ。


 しかし深々と溜め息をつくその彼が右手に持っている紙袋には、鹿島の言う“本日のおやつ”が入っているの を吉戒は知っている。


 最初はうっかり作りすぎた菓子を押し付ける意味合いで役員たちに差し入れたらしいのだが、何故かやたら とそれが好評で、今では調理実習の度に何かしら持ってくる羽目になっている海里だ。


「………仕事は」

「言われた所までは完璧に終わらせてあります、マイ・マスター! だからおやつ欲しいです!」

「後はチェック待ちであります、えと……マイ・ロード! だから御褒美下さい!」


 揃ってぴしり、と敬礼して見せた二人に、海里は疲れたように肩を落とす。


「…………………その言い方に妙な物悲しさを感じるのは何でだろな、鹿島。相川はそんなところまでソレに 合わせようとしなくていい─────……今日はチーズフォカッチャとパンナコッタだ」


 それを聞くや、ぱあっと顔を輝かせて「いぇーい!」とばかりにハイタッチする鹿島と相川。


 微笑ましいと言うか─────食い意地が張っていると言うか。

 もはや海里の差し入れ欲しさに仕事を頑張る形になっている。


 ─────それでいいのか生徒会役員。


 図らずもすっかり海里に餌付けされている役員たちだ。


「なら早く行くよー! 他の皆も楽しみに待ってるから」

「あーはいはい……じゃあ、吉戒先生」

「…ああ、悪い。今日も頼む」

「はい。失礼します─────って、おい。わかったから引っ張るな!」


 そんな些細なやり取りも気に入らないのか、やや強引に紙袋を奪い取った鹿島が海里の右腕を、相川は左腕 を掴んで彼らがきた方向へと引っ張って行く。

 その途中、海里に気づかれないように振り返り、元役員たちに向かってべっ、と舌を出したのは相川だ。一 年ながら結構イイ性格をしている。

 存在自体をスルーしようと、やはり色々思う所があるのだろう。


 傍で見ていればわかるが、鹿島が称した通りに生徒会役員は皆“海里大好きっ子”だ。

 揶揄混じりに言った鹿島は勿論、これまで海里と関わりのなかったはずの他六名の役員たちの入れ込み具合 も、非常にあからさまだった。

 以前からの付き合いだった原は当然ながら、海里から生徒会の仕事を教わってサポートを受ける内に、その 美麗な容姿だけではない能力の高さとフランクな性格を知った彼らは、一気に惚れ込んでしまったようだ。

 今では親衛隊に負けず劣らず見事な海里フリークとなっている。


 その役員二人と海里のあまりに気安く近しい様子を目の当たりにし、相川の挑発にも反応できずに声もなく 見送った元役員を吉戒は横目に見て。


「─────『皆瀬は何も言ってくれなかった』だったか」

「「ッ!」」

「……それが、何なんですか─────」


 吉戒の声で我に返ったのか、声を上げた元会計と元書記、そして元副会長がキツイ視線で応じてくる。

 だが静かに見返した彼らの視線には隠しきれない妬みと僻み、焦燥がちらちらと渦巻いていた。


 何故。

 どうして。

 自分ではなく。

 あいつらが。


 そのわかりやすい感情の揺れ方に、つい口角が上がる。


「っ、何が可笑しいんですか!」


 途端に眼を吊り上げて憤るその様に、だが逆に吉戒の笑みは更に深くなった。


「─────笑いたくもなる。プライドも、それこそ持ちようだとな」

「「「ッ!!」」」


 息を呑んだ彼らに、吉戒は嘲りを隠さずに笑う。


「哀れだな………素直にぶつかっていれば、それ相応のポジションが保証されていたはずだったのに」


 少なくとも今回のことがなければ海里の中での彼らの立ち位置も、そう悪くはなかったはずだ。それを修復 不能なまでにぶち壊したのは彼ら自身の浅慮で子供染みた行動。


 仕事放棄までなら恐らくはまだ海里の許容範囲内だった。

 仕事より恋愛を取るなら取るで、役員を辞するなりのケジメをつけていれば、また印象も違っていただろう 。

 だが彼らは最低限のそれすら行わず、自らを省みるどころかその責任をすべて他者へと押し付けた。悪意あ る嘘さえ広めて。


 気に入らないなら気に入らないで構わない。だが有りもしない話を捏造してまで追いやろうとする彼らの人 間性に、海里は『NO』の判断を下したのだ。

 自らを高めようとするのではなく他人を貶めて優位性を保つ、そんな相手に先はないと。


 だが彼らは海里にそこまでしておきながら、最後の最後まで明確な言葉を欲しがった。


 仕事放棄に対する叱責の言葉を。

 悪質な噂をバラまいたことに対する非難の言葉を。

 それを切っ掛けにした─────海里が自分たちを求める言葉を。


『だって皆瀬は何も言ってくれなかった!』


 それは元副会長のその一言に集約されている。


 構って欲しくて気にして欲しくて馬鹿をやる、典型的な子供の思考回路。


 嫉妬と羨望。

 自分を見て欲しいという欲求。

 必要とされたい。

 頼られたい。

 おまえじゃなきゃ駄目だと言って欲しい。


 単純且つ複雑な感情から来るプライドが邪魔をしてそれを認められなかった為に、亀裂が決定的になものに なった。


 だが、これまで皆瀬海里という存在を見てきた吉戒は知っている。


 何も言わなかったのは海里がその程度には彼らを信用していたのだということを。

 選ばれて生徒会役員としてやってきた彼らの自負を尊重したからこその放任だったということを。


 それを『気づいてくれなかった』と責めるのはお門違いだ。

 気づかなかったのはどちらなのか、と。

 そしてその信用を裏切ったのは誰なのか、ということも。

 

 元役員たちのその勝手な期待と甘えを、新しい役員たちも気づいている。

 だからこそ彼らに対して並々ならぬ敵愾心があるのだ。


 少なくとも去年からの付き合いである相手に散々迷惑を掛けた挙げ句、悪意に満ちた噂を流布させて貶めた 極悪人共。


 素直になれない屈折した気持ちがあった?


 ─────へえ、だから?


 もう一度新しく関係を作り直して行きたい?


 ─────アホか!! ならいっぺん産まれ直して来い!


 彼らの間に流れるその気迫溢れる思いは尋常じゃない。


 謝罪?


 ─────ハッ、言・わ・せ・ね・え・よ!


 和解?


 ─────あるわけねぇし!


 ごめんなさいで済むかボケェェ! を合言葉に、がっちりスクラムを組んでいる生徒会役員たちだ。

 諸悪の根源である連中に対しては、海里本人よりも彼の親衛隊を始めとしたその周りからの反感が凄まじい 。


 何しろ彼らは燦然と輝く海里の経歴に“リコール”という汚点を残させたのだ。

 海里大好きっ子の親衛隊や役員たちが怒らないはずがない。

 評判や信頼は一朝一夕にどうにかなるものではないことを知るからこそ余計に。

 いくら噂が事実無根であったと言っても“火のない所に煙は立たず”と勘ぐる輩もいる。

 それを誰より腹立たしく思っているのは海里ではなく、彼をよく知る者たちだ。

 ただ海里本人がそういった連中を歯牙にもかけない為に何も言わないだけで。


 例え本人に落ち度は無くとも、今回のように些細な悪意から“放火”という惨事を引き起こす連中がいるのも 現実だ。

 子供の火遊び程度の軽い気持ちで流した嘘が予想以上に広がってしまったと焦り出したって遅い。


 転入生が引き起こした騒動が生徒たちの抱えていたストレスを増幅させ、単純に起爆剤となった結果、苛立ちの矛先がすべて海里に向かった。結局はそういうことだ。


 海里がリコールされたあの臨時集会で生徒たちが彼に投げつけた罵声を、親衛隊の隊員たちは絶対に忘れな い。


 後になって『間違いでした』で済まされる話ではないのだ。

 一度口にした言葉は、投げつけた悪意は戻らないのだから。


 人間関係にしても、何の積み重ねもなく相手を信用できるものではない。

 だが元役員たちはその信頼関係を構築する努力をしようともせず、うっすらと繋がっていた糸を自分勝手な 言い分でぶった切って海里に不名誉な傷をつけたのだ。


 今更寄ってくんじゃねぇ! と言いたくなるのもわかる。


 そして海里もまた、そんな周囲の反対を押し切ってまで彼らと対話の時間を持つ気もないのだ。


 そこまで狭量なつもりはないが、だからと言って全てを許せるほど懐が広いわけでもない。

 そう、海里は言った。


 なら、それが彼らに対する“答え”だ。


「要するに、おまえたちが放棄した仕事を寝る間も惜しんで片付けている皆瀬に対して、更に自分たちの話 を聞く為に時間を作るべきだったと─────そう言うんだな?」

「「「ッ!?」」」


 言われて初めてそのことに気づいたのか、元役員三人はさっと顔を青ざめさせた。


「そ、れは─────」

「でも」

「だ、って…」


 一年時は補佐として、進級してからは短いながらも役員として、生徒会の仕事の多さを身をもって知っていた彼らは言葉に窮す。

 いくら優秀であっても捌ける量には限度があるのだと、ここでようやく思い至ったのか。


「期待したようには反応してもらえなくて癇癪でも起こしたか? だからあんな噂をバラまいてあいつを貶め て?」


 それで更に事態を悪化させて見限られていれば世話はないがな。


 そう呟けば、彼らは痛みを覚えたかのように顔を歪ませる。


 だがそれで容赦する気もない吉戒だ。


「……それで? 結局、何がしたかったんだ? 迷惑掛けて評判落としてリコールで追いやって」

「「「……………」」」


 転入生に入れあげて仕事を放り出したことも、海里が何も言ってこないことに理不尽な苛立ちを感じて下世 話な噂を広めたのも。


「─────頼って欲しかった、縋って欲しかった─────求めて欲しかった、か?」


 ぐっ、と唇を噛み締めて眼を伏せた彼らの、それが紛れもない本音だ。


 転入生を構っていても、彼らは常に海里の反応を窺っていた。

 出来過ぎる相手への反発にも似た思いがあろうと、無視するには海里の存在が大きすぎて。

 どれだけ傍で劣等感を思い知らされようと、彼らにとってもまた、海里は“特別な存在”であったのだと。

 こうなって今更ながら痛感したのだろう。

 だからこそ関係を修復しにこうしてやってきた。


 だが、もう遅い。


「俺はあの時に言ったはずだ、“自己責任”だと。おまえたちは皆瀬ではなく、あの転入生を“選んだ”んだ。 それなのにこうなってから、やっぱり皆瀬が、なんて………虫が良すぎるだろう? それに─────、あいつにおまえたちと話す気はない」


 そんな機会を持つことすら許されないのだと、さっきの態度でわかるだろう、と引導を突きつけてやれば。


 彼らはしばし呆然と立ち尽くし。


 やがて泣きそうに顔を歪めた後、肩を落としてふらふらと去って行く。


 そんな彼らの後ろ姿を見送りながら、吉戒は思う。


 結局は。

 海里に求められたかった彼らと。

 海里を求めた吉戒。

 その些細なようでいて大きな違い。



 



 あの日、あの時。


 『愛してる』なんて免罪符になりもしない言葉を告げる愚かしさをわかっていながら、今の自分にはそれし か言えないのだと。

 一方的に押し付ける好意ほど厄介なものはないと知りながら、それでも外れてしまったリミッターの掛け直 し方がわからなくて、欲しがる心のままに求めることしかできないのだと。

 だから。




『俺のものになってくれとは言わない─────俺を、おまえのものにしてくれ』




 そう言ってみっともなくも懇願した自分に、海里は破格の言葉を返してくれた。






『………〜〜〜ッあー、もう! わかったよ! あんたが俺のモノになるんなら─────俺もあんたのモノになってやる』






 そんな─────許しの言葉を。 抱き締め返す腕と共に─────。

















吉戒千晶ヨシカイチアキ→生徒会顧問で1Aの担任。海里に一回逃げられたことで理性の糸が切れた人 。教師としての立場? そんなのに拘って海里を逃がすなんて考えられない、と十も年下の相手に大人の狡さ と年の功とも言うべきテクニックを駆使して海里をモノにしました。教職にはそれほど思い入れもないので 、周りに知られて海里の立場を悪くするようなら辞める気満々。結局海里にベタ惚れ。


皆瀬海里ミナセカイリ→元生徒会長、現在生徒会オブザーバー。結局吉戒に絆されてそれなりに仲良く やってます。吉戒とは体の相性が良い為に、そちらの方からも陥落させられた模様。一度抱かれたことで吉戒の切迫感も消え、今は大人の包容力で好きなように甘えさせてくれるので、こうなったのも悪くなかった かな、と思ってたり。


鹿島カシマ→生徒会長。何となく海里に対しては友人としての独占欲があるらしい。なので海里をそう いう眼で見てる吉戒が嫌い。なんで吉戒に対してだけそう思うのかは本人もよくわかっていない。ただ何と なく二人の間に流れる雰囲気が嫌な模様。海里への気持ちは切欠があればどうとでも転びそうな位置取り。


相川アイカワ→生徒会補佐。自他共に認める海里大好きっ子。海里の親衛隊に所属している友人がいる 為、実は以前から“皆瀬会長”には憧れてました。補佐に任命されて海里を傍で見て知るうちにすっかりメロ メロに。海里に頭撫でられるとほにゃほにゃきゅーんになる。海里は「理想のお兄さん」とのこと。


元役員→実は我が儘な駄々っ子だったらしいことが判明した元副会長、元会計、元書記の三人。海里に対し てしでかしたことも「こっち見てよ、見てくんないならこんなこともしちゃうから!」という癇癪からだったっぽい。幼い子供ならまだしも高校生になってやられると面倒さ迷惑さ加減が半端ない。


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