(40) ふたたび下町へ
「あら、気にしないで下さいなロレーヌ様。心臓が悪いと言っても激しい運動をしなければ大丈夫ですよ。ちょっと脈がおかしいだけですし、それに、腰とか膝の具合も悪いんですけど、何とかなりますでしょ、ね。だから早く行きましょう」
「ですが……」
それでもデニスが断ろうとしたのを見て、ミセス・モレナは重そうなまぶたの裏からじろり、と睨みつけて問うた。
「……連れて行かないなんて言わないで頂戴よ、先のそれほど長くない人間の頼み事は断るものじゃなくてよ。あなたはわたしに悔いを抱えたまま死ねとおっしゃるの?」
「……っ」
わたしはその様子に、中高年の底力を見た気がした。流石のデニスもこれには閉口している。
その珍しく弱り切った様子に、わたしはもしかしたらと思った。
「ですから、わたしが行きます。お身体がつらいのに無理して欲しくないんです。ミセス・モレナ、ルチアのことは絶対にわたしが連れ戻します。だから、ここで待っていて下さいませんか?」
「……ロレーヌ様、でも、これはわたしの問題ですよ」
「わたしの問題でもあります。後悔したくないんです。もしここで一人待っている間に何かあったら、これからずっとそれを抱えて行かなきゃならないんですよ」
そう言うと、ふたりとも黙り込む。
わたしは、とにかく待った。それしか出来ることがない。本当はこんな時間も惜しいけど、仕方ない。
「……わかりました。それではロレーヌ様をお連れします。ミセスはお体に障りますので、どうかここにいらして下さい。こればかりは聞き入れる訳には参りません」
「あら、大丈夫と言っているのに。でも、あなたたちの負担になりたくないから、言うことを聞くしかないかしら」
「はい、すみません」
わたしが頭を下げると、ミセス・モレナはよしてくれ、とばかりに手をひらひらさせて顔をしかめた。
「そんなことなさらないで下さいな。バルクール男爵のご令嬢がそういったことをするものではありませんよ」
「はい。それでは、行きましょうか、デニス」
「はい」
渋々と言った風に頷いたデニスだったが、腹をくくったのか動きは迅速で、あっという間に護衛役の使用人を集めて、馬車を用意した。わたしはミセス・モレナにもう一度絶対に連れ戻す宣言をしてから、部屋を出てすぐに馬車に乗り込んだ。
◇
やはり、徒歩と馬車では速度が違う、と思いながら下りたわたしは、周囲の人々に妙な目で見られながら店へ向かう。
なんというか、ちょっとした珍獣気分だ。
何しろ、今のわたしは装いが半端で、髪もろくに結わず化粧もせず、でもドレスとその上の外套だけは立派という変な格好だ。しかも場所が場所だし、時間も時間だ。
若い貴族の娘が従僕付きとはいえ、うろうろしているのは実に珍妙なのだと思う。
「必ず、私の手の届く場所にいて下さい。正直、完全にお守り出来る自信はないのです……それに、私は彼を信じられません」
「どういうこと?」
「彼は労働者階級で、しかも記憶持ちだということです。あの事件の犯人と、知り合いである可能性もある。……彼自身はそうではなくても、です」
わたしの表情が険しくなったのを見て、デニスは付け加えた。
「もし、そんな場所にこんな姿の貴女様が行けばどうなるか。もうおわかりでしょう?」
「わたしはパオロを信じているわ」
それだけは本当の気持ちだった。
生まれた階級が低いのは本当だけど、そんなことするような人じゃないと思う。思いたい。なぜなら、いくら告白されたとはいえ、わたしはあの人のことを大して知らないのだ。
前世の話をちょっとして、彼の作った料理を食べただけ……。
そう思うと、なんとなく不安になって来た。わたしは若干体を固くして、店の入口へ近づく。
少しずつ暗くなって来た通りに、街頭が灯る。
まだ雪の残る道をすべらないように歩いて、店から漏れ聞こえる音に耳を傾け、わたしは首を傾げた。
もしかしたらルチアの声がするかも、と思っていたのだが、聞こえてくる気配はない。
むしろ、明かりはついているのに静かで、不気味ですらある。
――今日って別に休みじゃないよね。でもお客さんもいないし、何かあったわけじゃないといいけど。
「誰かいるようですが、営業はしていませんね」
デニスが看板を示して言った。
「もしかしたら、あの新聞の記事が関係しているかもしれません」
「どういうこと?」
「確か、彼らも記憶持ちでしたよね。あんな記事が載ってしまったとしたら、ここを追い出される可能性もあります。他にも、彼らがここにいられなくなる理由はいくつでも考えられますね」
言われて初めて、その可能性に気づく。
そうだ、わたしはパオロたちがそれに関わっているとは思いもしなかった。けれど、彼らのことを知らない人たちからすれば、疑いの対象となる。そうなったら……。
わたしは慌てて汚れた木の戸をノックした。
「誰か、誰かいないの?」
「ロレーヌ様、お声が大き過ぎです、目立ってしまいますよ」
「でも……」
もしかしたらここにはいないかもしれない。だとしたら、ルチアはどうしたのだろう。悪い想像ばかりがふくらんでいく。
わたしはもう一度戸を叩くため、ノッカーに手を掛けて、口を開いた。すると、デニスが肩に手を置いて、後ろへ引く。
「お下がりを、誰か来ました」
デニスの声に、思わず戸を凝視する。
ついでに、どれだけ耳がいいんだと思った。わたしには何にも聞こえなかったのに。しかも、周囲にはそれなりに人通りがあって、騒音も響いているのだ。
だが、とにかく誰かいることがわかった。
息を殺して待っていると、警戒気味に戸が開く。そこから見えた顔は、わたしの知るものだった。
「ロレーヌ……」
「パオロ、良かった。店が開いていないからどうしたのかと思ったわ」
「それは、まあ……」
歯切れ悪く答えた彼は、どこか怯えたような、それでいて少し嬉しそうな、微妙な表情でわたしを見た。




