(34) 突然茫然
「あの、パオロ、どうしたの? 何か様子が変だよ……もしかして風邪でもひいたんじゃ?」
「ああ、まあ、似たようなもんかも」
「ちょっと、じゃあ休まないと。何か体にいいもの食べて、薬はないの。なければわたしが何とかするけど……」
そんなことだろうと思ったのだ。
わたしがほんのちょっぴり見ていただけでも、彼はバリバリと働いている。あんなに働いて、良く体力が持つなと感心するほど、働いているのだ。
それには何か理由があるのかもしれないが、病気ならば休んだ方がいい。少なくとも、たった一日休んだくらいでどうにかなるほど、パオロが困窮しているようには思えないからだ。
「いらない」
「だけど……」
放っておいてもっと悪くなったらどうするのだ、と思ってさらに言おうとしたとき、唐突に手を取られた。そのまま、両手でぎゅっと握ってくる。よくわからずにそれを見ていると、パオロは真剣な顔をしていた。
「薬なんか、役に立たない」
見つめる目に、どことなく危険を感じたわたしは後ずさりかけたが、手が強く握られているので動けない。
――えーと、これ、どうしたらいいの?
むげにするのも気が引けるが、今のパオロはちょっと怖い。困り果てたわたしがデニスに助けを求めようとしたとき、それは発せられた。
「俺、お前が好きだよ」
「……」
青天の霹靂、とはこういうことなのだろうか。わたしはその場に固まり、パオロの視線を受け止める。いや、実際は受け止めているというより、単に理解できていないのだけだったりするが。
「どうしようもないってことはわかってる。でも、知っておいて欲しくて、少しでいいから、俺がお前の中にいられたらって」
パオロの目が潤みながらわたしを見る。本気で心の底からやめて欲しい。そんな切ない目をされたら困る。いや、すでに困り果てているけれども。
というか、いつの間にそんなことになっていたんだ。いつどこに、パオロがわたしに惚れる要素があったというのか。考えても全くわからない。少なくとも、それらしいことは何にもなかったと思う。
しかも、確かわたしはパオロが働いている場所で、結構ジェレミアと仲良くしてたと思うのだけれども、彼はそれを見ていなかったんだろうか。
混乱しまくりな脳みそを回転させて、今の状況を理解しようとするわたし。そして、ようやく思い至ったのが、前世についてのことだった。確かに、時代も国も同じなんて、滅多にあることではない。そこに運命を感じてしまったとかそういうことなら、理解できる。
いや、それしかないだろう。
ただし、理解できても果てしなく困ることに変わりないが。
「貴族のお前と、俺じゃ、あまりにも身分が違いすぎる。でもさ、気持ちと身分は関係ない。だから、お前を試したかった……本当は怖かったんだ、でもこうやって来てくれた」
「じ、じゃああの紙……」
「そう、あんなもの残して突然いなくなったら、どうするか見たかった。貴族令嬢であるお前が、こういう場所に来るにはよほどの覚悟が必要になるはずだ、俺に対して、どこまでできるか知りたかった。
でも、来てくれた……ずっと、来ないんじゃないかって、諦めるべきだって思った。けど、お前の中にはちゃんと俺がいた。なら、諦めたくない」
思いもよらぬ真実を聞かされ、わたしはやり切れない気持ちになった。あの紙片に込められた想いは、わたしの思ったものとは違っていたのだ。
「今すぐには無理だろう。けど、人の心は変わる……いつか、お前を手に入れられるほどになったら、きっと――」
――も、もうやめて。
これ以上は聞いていられない。もう、振り払うしかない、と覚悟をきめたとき、助けは即刻訪れた。
「ロレーヌ様!」
デニスが鋭い声を発し、わたしをパオロから引き離してくれたのだ。衝撃で、わたしはデニスの腕の中に倒れ込む。
ああ、何だかとっても安心する。
などと思っていると、デニスの怒号がパオロに向かった。
「貴様! ロレーヌ様に何をする。場合によっては……」
デニスがあのわたしも震えあがる目でパオロを睨みつける。しかし、彼はそんな殺気のこもった視線すら意に介さず、わたしに目を向けている。
思わず、背筋が寒くなってしまうほどの視線だった。
「ロレーヌ、お前の返事が知りたい」
静かな声に、反射的に体がびくつく。もちろん、そんなものは決まっているが、なかなか声が出てこない。それでも、ちゃんと言わなくちゃと思って口を開いた。
「……ごめん」
一言、それしか出てこなかった。しかし、それで察したパオロは辛そうな笑みを浮かべた。彼を、傷つけるつもりなんか全くなかったのに、そんな顔をさせたことが悲しい。
「いや、お前にだって立場とか、そういうのあるんだろうし、わかってた、俺の方こそ、ごめん」
つぶやくように言って、パオロはその場に立ったまま黙りこくる。わたしは声を掛けるべきか迷った。しかし、何とか言葉が浮かぶ前に、デニスが冷たく言った。
「ロレーヌ様、もうこの場に留まる理由はありませんし、時間もかなり経ちました。戻りましょう」
「……、……ええ」
彼女の言う通りだ。いくらここにいても、わたしにできることは何もない。素直にうなずいて、デニスに立たせてもらうと、そのまま出入り口へ向かう。
いよいよ外へ出る、という時、わたしは振り返って叫んだ。
「パオロ! 美味しかったよ、ごちそうさま!」
それからすぐに店に背を向け、デニスの後について行く。歩きながら思ったのは、このまま終わらなければいいということだった。これで、彼との関わりが途絶えてしまうのだけは嫌だった。
けれど、わたしには大切なものがある。
家族や、友人や、そしてジェレミア。
そういう人たちを切り捨ててまで、パオロを選ぶことは絶対にないことだけは確かだ。
やっぱり、やり切れない。
歩きながら、わたしはこっそりとため息をついた。




