(30) 紙片に秘められたもの
わたしは執事にねぎらいの言葉をかけて返すと、早速デニスに訊ねてみた。
「ねえ……」
「おっしゃりたいことはわかっています。そのくらいなら、今日にでも私が調べて参りましょう……ただ、場所によってはお連れ出来かねる場合がありますよ」
彼女はすでにわたしの言いたいことを察してくれ、その上できっちりと釘を刺してきた。わたしはぐぅの音もでない。
それに、彼女の言う通りだと思った。
余計なことをして、ジェレミアに心配を掛けたくない。
「わかったわ、じゃあお願いね」
「はい、畏まりました。では、これはお預かりいたします」
言って、デニスはわたしの指から紙片をするりと抜き取る。本音を言うと、返してもらえないのではないかと思ったが、書かれた住所は記憶した。憶えているうちにどこかに書きつけておけばなんとかなるだろう。
それ以外で気がかりなのは――。
「デニー、気を付けてね」
何しろ、全く知らない住所なのだ。この王都には危険そうな場所があるという。普段は近づかなければいいだけのことだが、今回はそうもいかない。いくらデニスが強いと言っても、少し心配になる。
「ありがとうございます。必ずどういった場所か突き止めて来ますから、しばしお待ちください。くれぐれも、ひとりでお屋敷の外に出ようなんて思わないように」
「失礼ね。今まで一回でもそんなことしたことないでしょう」
あまりにしつこく言うので、流石のわたしもそこまで信用ないのかと思い、ついムッとしてしまう。すると彼女は苦笑して、
「心配なだけです、申し訳ありませんでした」
と答えると、紙片を手に部屋の扉へ向かう。
「では、失礼いたします」
わたしは部屋を出ていくデニスに頷き返し、背を見送った。恐らく、あの住所は王都のどこかだから、今日中にはわかるだろう。とにかく、憶えた住所を書いてしまおう、と思い、わたしは書くものがある部屋へと向かった。
◇
日が暮れる頃になってデニスは戻って来た。
夜用のドレスに着替え終えて少しした頃のことだった。わたしのもとへ来たデニスは、紙片を返しながら訝しげに言った。
「どうも、庶民が食事をする場所のようなんです。しばらくの間眺めていましたが、パオロ・ヒュブナーの姿はありませんでした」
「そう、ありがとう。食事をする場所、か」
その言葉には思い当たる節があった。彼は、自分の試作品の和食を出させてもらっている店があると言っていた。過日、執拗に来てほしいと言っていたのもそこのことだ。
だとしたら、この店がそうなのかもしれない。
「ねぇ、ここって何か変わったものを食べさせる店だったりしない?」
「え、あ、はい。客を何人か捕まえて話を聞いたのですが、異国のものらしき料理が食べられるのだとか」
「それってどんな料理なの?」
ダメ元で問うと、デニスは少し考えながら言った。
「何でも、穀物を粉にせずにそのまま茹でたものに、大量の香辛料を混ぜたシチューのようなものをかけて食べるのだそうです。肉の種類が違ったりして、とても美味しいそうですよ」
――カレーだ!
どう考えてもそうとしか思えない。わたしは行ってみたくてうずうずしてきた。それに、もしパオロが関係なくても、カレーなら食べたい。そんなわたしの胸中も知らず、デニスはさらにつづける。
「他には、何やら粉を焼かずに細長くして茹でたものを、骨などからとったスープに浸して食べるものもあるそうです」
――ラーメンなんじゃないの、それ。
報告を聞けば聞くほど、行きたくてたまらない。それまで報告に集中していたデニスも、わたしの様子に気がついた。途端に渋い顔になり、首を左右に振る。
「だめですよ、そこは下町にあるんです。とてもロレーヌ様をお連れ出来るような場所ではありません」
「で、でも、その料理……もしかしたら」
「それなら、その店の料理人をここへ呼べばいい。そうすれば、食べることは出来ますよ?」
確かに。その方が安全だろう。しかし――。
「でも、そんなことをしたらせっかくそのお店の料理を楽しんでいるお客さんから楽しみを奪うことにならない?」
「一日くらいかまわないのでは?」
さも当然のように言ったデニスだったが、わたしは首を縦に振れなかった。この公爵邸に勤める料理長に悪いような気がしたからだ。
それだけではない。
わたしは再度紙片を見た。
素っ気ない文字からは何も感じないが、これを執事に託したパオロの気持ちを考えてみたのだ。やめた理由はわからないが、彼はどうしてもわたしに足を運んで欲しそうだった。
「だめ、やっぱり行かないと」
「ロレーヌ様!」
「止めても行く。だって、大事な友だちなのよ」
懇願するようにデニスを見ると、彼女は苦渋に満ちた顔でわたしを見て、やがて肩を落とした。
「そうおっしゃられるような気がしていました。その場所は、下町でも比較的明るく、健全な場所ですから、こういう状態でなければお止めしたりしませんから、行くのは構わないと思います」
「それじゃあ」
「私は、ただ貴女様の身をお守りするのが仕事です。ですが、ジェレミア様はいかがいたしますか? きっと、激怒されますよ?」
「うっ」
とてつもなく痛いところを突かれ、わたしは呻いた。
その様子がまざまざと想像出来てしまうのが悲しい。けれど、やましいことをしに行くのではないのだ。
「で、でも、料理を食べに行くだけだし……」
「私は見たままをご報告致しますよ」
突き放し気味に言われたセリフに、再びぐっと詰まりながらも、わたしは行くのを諦める気はなかった。もちろん、ちゃんとデニスは伴うし、食べたらすぐに戻るつもりだ。
何より、危険なのは上流階級の集まる場所であって、下町の食堂何か狙われるはずはない。
わたしはどうしても行きたかった。
「わかったわ、死ぬほど怒られる覚悟を決める。だから、行くわ」
きっぱり告げれば、大きなため息が返って来た。困ったような顔をして、デニスは頭を下げた。
「畏まりました。それでは、危険がないよう細心の注意を払い、そこへ向かう手筈を整えます」
「……ありがとう、ごめんなさい」
「いいえ、それが私の仕事ですから」
デニスはそう言うと、静かに退室していく。恐らく、わたしのわがままを叶えるための準備をしてくれるのだろう。
申し訳ない気持ちと、放っておけない気持ちが胸の中で強く争う。そんな自分の気持ちをなだめるべく、わたしはそっと胸に手を当てて、息を吐いた。




