(29) 甘苦い思い
このまま、ジェレミアの言うことを素直に聞いて、わかりました、行きませんと言うことはすごく簡単だ。
けれど、関わってしまった以上、あのままで放っておくなんてわたしにはできない。何も、近くにいて相談役になろうなんて思っていない。わたしには、もう大切なものがある。
だから――。
「わたしには、パオロもそういう人に見えるんです。ですから、連絡をとりあうことは許していただけませんか?」
言った。言ってしまった。しばしの間が空き、重苦しいため息と共に返事が返って来た。
「……わかった」
さも渋々といった、心底嫌そうな声音ではあるが、ジェレミアはうなずいてくれた。わたしはその言葉に安堵して気が抜け、その場にしゃがみこみそうになるが、そこは堪えた。
「ああ、ありがとうございます。良かった、こんなこと言って嫌われたらどうしようかと」
「何を言ってるんだ、私が君を嫌う訳がないだろう」
「でも、完全にわたしのわがままですし。いくらわたしがジェレミアを好きで仕方なくても、一緒に生きられたらと願っても、何かのきっかけで気持ちが離れたとして、引き留められる自信はないですし」
今まで緊張し過ぎていたせいか、いつもなら言わないセリフをペラペラ並べてしまうわたし。終いにごまかし笑いを浮かべ、何でもいいから返事が来ないかな、と思ってジェレミアを見る。
すると、彼は手の甲を頬に押し当てた状態でこちらを睨んでいるではないか。やばい、何か失言したかもしれない。そう思ってわたしは慌てた。
「あああの、今のは安心して心の声が出てしまっただけで、すみません、聞かなかったことにしてください!」
「……だ」
「へ?」
「嫌だと言ったんだ。聞かなかったことになどしない」
怒らせた!
わたしは青くなったが、ジェレミアはそんなわたしに構わず、先をつづけた。
「それより、もう一度聞きたい」
「へ?」
「君が、私のことをどう思っているかもう一度聞きたい、と言ったんだ」
気づけば、かなり近い距離に来ているジェレミアをぽかんと見つめる。それから、ゆるゆると彼の言ったことが理解されてきた。
それはつまり、再度告白しろと言っているようなものだった。
「も、もう一度なんて、どうして」
「いつもの君は、あまりそういうことを口にしてくれないだろう。たまには、確認しておきたいんだ。もう一度、言ってくれないか?」
切なげな瞳でこちらを伺うように見つめられ、頭が爆発しそうになる。なんという目で見るんだ、そんな顔をされたら嫌だなんて言えないではないか。それでも、羞恥心が口をふさいでなかなか声が出てこない。
ジェレミアは黙ってこちらを見つめたままだ。
いたたまれない、いたたまれなさすぎて煙のように消えられたらと思わないではいられない。
しばしの沈黙の後、わたしは観念した。
「ずっと、一緒に生きて行きたい、です。好き、なんです」
言ってしまうとあまりのことに顔を両手で覆い隠す。こんなことを繰り返せだなんて、何て意地が悪いんだと思うが口にはできない。
心の中で七転八倒していると、顔を覆った手をつかまれた。抵抗するが、もちろん力でかなう訳もないので、そのままムリヤリ引きはがされ、顔が露わになってしまう。
「や、やめて下さい」
「君は今まで私のことを散々眺めてきたじゃないか。なのに、自分はその可愛い顔を見せてくれないなんて、ひどいな」
「かっ!」
可愛い訳がないと言おうとしたわたしだったが、ジェレミアがあまりにも嬉しそうなので、何も言えなくなってしまった。
それから少しの間、ジェレミアは混乱したわたしをあれこれからかい、見られたお返しだと言っては見つめるので、心臓がどうにかなるかと思った。これじゃ拷問だ、と思いつつ、嬉しそうな彼を見るとやっぱりわたしも嬉しい。
それでも、そんな甘い拷問から解放される頃には、結局疲れ切ってぐったりしてしまったのだった。
◇
それから三日経ち、わたしはようやく覚悟を決めることにした。
もちろん、パオロのお願いについてである。
ジェレミアやデニスの協力を得て、こちらでパオロと連絡を取り合ってくれそうな人間がいないか探し、引き受けてくれそうな人物が何人か見つかった、と言われたことで、気持ちが定まった。
「断るのは気が重いな、本当はすごく行きたかったのに」
「機会は必ずまた訪れますよ。それに、雇い主がレディ・アストルガなのですから、彼が生活できなくなることもありませんし」
「そうよね」
もはやわたしの影のように傍らに佇むデニスの励ましに気を取り直すと、その時を待つ。もうパオロに、わたしがこの応接間で待っているという旨の連絡は行っているはずだ。
早く来ないかな、と思いつつ扉の方を眺めていると、足音が聞こえた。次いで扉を叩く音がした。来たのだろうか、そう思って身を固くしたわたしは、拍子抜けしてしまった。
扉を開けて入って来たのは、この公爵邸の執事だったからである。
「お待たせいたしました。ロレーヌ様、申し訳ないのですが、パオロはここへ来ることは出来ません」
「え、どういうこと?」
「彼は、ここを辞めました」
素っ気ない執事の言葉に、わたしはただ驚くばかりだ。あれからパオロの姿を見ないと思っていたことは確かだが、何かの用事で出かけているとばかり思っていたのに。
「ど、どうして?」
「さあ、一身上の都合だとかで、私にはわかり兼ねますが、とにかく、これを預かっていますので、よろしければ」
執事はそう言うと、丁寧に折りたたまれた紙片を渡してよこす。わたしはそれを手にして、すぐに広げた。
「……どこかの住所のようですね」
デニスがざっと紙面に目を走らせて言う。
彼女の言う通り、そこには知らない場所の住所が書かれていた。ここに、一体何があるというのだろう。
それに、どうしてパオロは黙って姿を消したのか。
わからないことだらけで、わたしは眉間に指を当ててため息をつく。とりあえず、この住所について調べなければ。今できることは、それくらいしかなかった。




