(28) 怒りのジェレミア
パオロの去った方向を見ながら、わたしは何かが以前と違うような気がした。ただし、あくまでもなんとなくだ。
例えるなら、今まで子ども扱いだったのが、突然大人として見るようになったような感じが近い気がする。
「気のせいか」
そうつぶやいて、考えるだけ無駄だと割り切る。もしかしたら、頬も赤かったことだし、パオロは本当に具合が悪いのかもしれない。だとしたら、あんな必死で店に着て欲しいと言った理由もわかる。
具合が悪いと、いいしれぬ不安を感じるものだ。前世で寝込むことの多かったわたしには良く分かる。
「そうだよ、うん、納得」
パオロの態度の違いにどうにももやもやしていたが、結論が出るとすっきりした。なので、それまで視界に入らなかったものがようやく入ってくる。
そう、例えば、壁に手をついて何か悩むデニスとか。
「って、え? デニー! どうかしたの?」
「……いえ、何でもございません。ただ、私はもし、ジェレミア様がこの件を了解なさってしまった場合にどのようにすればロレーヌ様を完璧にお守りできるか考えていただけです。他にも、ロレーヌ様がこの件を諦めるにはどういう手を打つべきか、なども」
――わぁ、言っちゃだめなことまでだだ漏れてる。
そこまで心配させたのか、と思うとやっぱりやめておくべきなんじゃないかと思うのだが、パオロの表情を思い返し、同時にあの記録を思い出すと、居ても立ってもいられなくなるのだ。
申し訳ないが、ここは堪えて欲しい。
「わがまま言ってごめんんなさい。でも、どうしても行きたいの」
「そのようなことを仰らないで下さい、ロレーヌ様。私の役目はただ貴女様をお守りすること。そのためには命も掛けます」
「えぇ! いや、命までは掛けて欲しくないから。わたしが頼れるのはあなたしかいないのに」
心からそう思って言うと、デニスは何かとんでもないことを言われたようによろめき、わたしの足元にうずくまった。な、なんか悪いことを言ってしまっただろうかとうろたえると、デニスは言った。
「何ということ、これほど必要とされたのは生まれて初めてだ。ロレーヌ様……私、デニス・ランデッガー、カスタルディ家に生涯仕える所存でしたが、このままロレーヌ様の元にとどまりたく思います」
床に膝をつき、騎士の宣誓みたいなことを言われたわたしは余計うろたえてしまった。
これはどうしたらいいのか。
「ぜひ、お側に置いては下さいませんか?」
見れば、デニスの目に涙が光っている。これは、ちゃんと考えた方がいいのだろうか。とりあえず、わたしは言った。
「あのね、わたしは構わないんだけど、ほら、ジェレミアに相談したりお父様に相談したりしないと。わたしの一存じゃ決められないことだから、すぐに返事はできないわ」
「はい、わかっています。ですが、私の気持ちは変わりませんから」
それは困ったな。
まあどの道、いずれはジェレミアと結婚ということになる。それに、彼はこのままデニスをわたしにつける心積もりのようだから、放っておいても問題はない、はずだ。
「そ、そう。えーと、とりあえず、ようやく休めそうだからこのままここで本を読むわね」
「はい、見張りはお任せ下さい」
いや、公爵邸内でそれはいらないだろう、と言いたかったが、わたしは何も言わずに本を手に取った。
思わずため息がこぼれる。
少しだけ、心を休めたかった。
◇
翌日。
朝食後、ジェレミアに温室に呼び出されたわたしは、彼が険しい顔をしているのに気づいて足を止めた。
何だろう、怒っているように見えるのは気のせいではない。まあ、怒った顔も冷たさが増して、酷薄な悪魔みたいでそれはそれで見惚れてしまうのだが、近づきたくはない感じだ。
だが、ここまで来た以上近寄らない訳にもいかず、怒気を発する麗しの君の側へゆっっくりと歩み寄る。
「ロレーヌ、話はデニスから聞いた。諦めろ」
まだ何も言っていないのに、彼は突然そう告げた。わたしはそれがパオロに関する話だとすぐにわかった。
そして、ジェレミアの怒りの理由にも察しがついた。わたしはため息交じりに言った。
「でも、ただ食事しに行くだけなんですが?」
「それでもだめだ。少なくとも、王都が物騒ではなくなるまで、治安の良くない場所には行かせない」
「そうですか」
なら、何とか連絡手段だけでも手に出来ないだろうか。パオロをあのまま放っておくのは、やはり気がかりだった。どうしたらいいだろう、と思いつつため息をつくと、ジェレミアが少しうろたえたように言った。
「あ、いや、君の気持ちも理解はできる。彼のことは聞いたよ、デニスはかなり怒っていたが、かつて君たちが生きた国というのは、階級が存在しないらしいな」
「はい、少なくともわたしの国はそうでした」
今まで、ジェレミアにだけでなく、家族にすら前世のことはさほど話しては来なかった。一番の理由は、話したところで理解してもらえないような気がしていたからだ。
だから、聞かれたことには答えるが、それ以上何かを伝えようと思ったことはない。なので、ジェレミアの質問はわたしにとって意外なものだった。
「正直、私には踏み込めない領域だから、あの従僕が妬ましいよ。しかしそんな理由で君から過去を取り上げることはしたくない」
「ジェレミア……?」
いつもより固い雰囲気の彼に、思わず声を掛ける。こんな様子の彼は初めて見る。わたしは思い切り狼狽した。
ジェレミアは、一体何をそんなに思いつめているのだろう。
「だが今はとにかく、店には行かないで欲しい」
真っ直ぐに見つめられ、わたしは呼吸が止まるかと思った。こんな真剣な顔を見るのは久しぶりだ。心から、わたしを心配してくれているのがわかる。
嬉しくて、胸の辺りがじんじんと痺れるようだ。
――でも。
「グリファルバの記録ってご存知ですか?」
「……いや、何かの本か?」
「はい。この世界の記憶持ちたちについて興味を持った学者が書いた本です。わたしは、以前それを読みました。そこには、幸せになった人から、過去に取りつかれて自害した人まで、様々な記憶持ちたちが出てきます。筆者は、より鮮明な記憶のあるものほど不幸な結末を辿ると結論付けていました」
知らず、ぎゅっと両手を握りしめる。指先や節が白くなるほど、強い力で。そうしていないと、怖かったから。




