(26) くつろげない
返事を書くのは気が重いが、ミセス・モレナがああいう人間だということを考えると、わたしが報告をしなくてはならない。
母への返事はそれほど苦労ではないだろうし、と考えたわたしは、まずドロテアへ向けての返事を書き始めたのだった。
◇
目の前に、湯気の立つ香り高いお茶が置かれた。わたしはそれを手にして一口すする。
「ふはぁ~、ああ、疲れた」
「ずいぶん長くかかりましたね」
声を掛けてきたのはデニスだ。その傍らには、彼女を手伝うドーラの姿がある。今日はそう着飾ることもないので、ドーラは少し暇そうだ。それでも、時間があればどう髪を結うか、その際の小物はなどと考えては何か書き付けているから、退屈ではないようである。
「うん、何でなのか、ほとんど出掛けもしないのに色々と書かなきゃならないことがあったの。ついでに、生まれて始めて嫉妬されたんだけど、これを喜ぶ人の気持ちがわからないよ……」
このままテーブルに突っ伏したい気分で言う。すでにデニスには素の状態でしゃべるようになっている。なぜかはわからないが、怖い顔のとき以外の彼女は、側にいてもとても気が楽なのである。
だからか、ついこうして泣き言をもらしたり、愚痴を言ったりしてしまうのだ。するとデニスは苦笑した。
「ご苦労なさったのですね。ロレーヌ様はお優しい方ですから、仕方がありませんよ。きっと、ロレーヌ様のそういうところを、ジェレミア様はお気に入られたのでしょうね」
デニスの言葉に、わたしは思わずお茶を吹きそうになる。
やばい、こんな良いお茶を吹いたりしたらもったいないし、何より、淑女として大変よろしくないではないか。
「な、なんで突然そういうことを言うの?」
「いえ、これでも長いこと貴族の方々を見てきたものですから」
「そ、そう」
確かに、ジェレミアも似たようなことを言っていた。でも、わたしは優しくなんかないと思う。ただ、誰かを辛い目に合せてまで自分が幸せになんてなれないと思っているだけだ。
それに、ルチアがあんなに苦しんでいても、わたしには何もしてやれない。この国の制度や法律や、階級社会は変わらない。与えられた枠の中で生きることが当たり前の国なのだ。
ふと、そのルチアの想い人であるパオロのことを思い浮かべる。彼はこの国の考え方や有り方に、なじめずにいるようだった。
そんな彼に対したって、わたしは何もできないのだ。
「あまり、悩み過ぎないようにしてください。ジェレミア様が心配してしまいますよ」
まるで心を読んだようなデニスのセリフに、わたしはぎくりとしたものの、素直にうなずいておくことにした。
「そうね、悩んだってどうにかなる問題じゃないなら、悩むだけ疲れるだけよね」
「ええ、そうですとも」
デニスは大きく首肯して、テーブルに並んでいる菓子や食べ物をすすめてきた。わたしはその中で目に留まったもを口に運びながら、また後でパオロに会おうと決めた。デニスは怒るだろうけれど、放っておくのも後味が悪いのだ。
今日すぐに、という訳ではないが、なるべく早めに会って状況の変化を伝えよう。それから、ジェレミアにも相談しよう。そして、事件が解決したらパオロの店へ行くのだ。
そう考えたら気が楽になって来た。
わたしはもうひとつ、綺麗なお菓子を口に入れる。舌に砂糖の甘さがじんわりと広がり、自然と顔が綻んだ。
◇
さて、これで落ち着いたことだし読書でもしようかな、と思っていたのだが、早々に落ち着かない事態へと放り込まれてしまった。
のんびりとしたお茶の時間を終え、部屋を移して何を読もうかなとページをパラパラめくっていると、唐突にデニスがやってきて、凄腕の殺し屋みたいな表情で言った。
「ロレーヌ様、従僕のパオロが、どうしてもお伺いしたいことがあると言って、この応接間に来ておりますが、通しますか?」
「え、えーと、一応通して」
そう返事すると、デニスは厳しい表情のまま扉を開けて、その前に佇んでいた人物を部屋へ招き入れる。その人物、パオロはデニスの視線などやはり意に介さず、すぐにわたしの前まで来ると、恭しく挨拶をしてきた。
「レディ・ロレーヌ」
パオロは、妙に熱のこもった声でそう呼んだ。声だけじゃない。頬もうっすら赤いように見える。
わたしはもしや熱でもあるのだろうかと思ったものの、脳裏に浮かんだのはやはりルチアのことだった。何しろ、好きにすると言っていたから、言葉通り彼にまとわりついているのではなかろうかと心配していたのだが、その通りのことが起こってしまったのだろうか。
とりあえず聞いてみなくては始まらないので、わたしは訊ねた。
「それで、何かあったの? やっぱりルチアが迷惑を掛けてる?」
「あ、いや……まあ、それなりに」
パオロの返事は微妙に歯切れが悪かった。
ひどく言いにくそうなところを見ると、予想的中のようだ。頭を抱えたい気分で、目を反らしたパオロを見やる。
「ごめんなさい、ちょっと問題が起こってしまって」
よもや、パオロがわたしを好きだと思い込み、嫉妬して暴走しているので警戒してくださいね、とも言えず、曖昧な表現で謝る。
「何とか仕事の邪魔にだけはならないようにしようと思ってるんだけど、難しくて」
「いや、俺は大丈夫だよ。ちょっとまとわりつかれたり、眺められたりするのは居心地悪いけど、今までになかったことじゃないし」
――あったんだな、そういうこと……。
頭を掻きつつ、苦笑気味に答えてくれたパオロ。わたしはそういえば、彼もイケメンなのだったと思い、引きつり笑いを浮かべた。記憶持ちとしての方向でばかり見ていたから、うっかり忘れていたのだ。
きっと、同じ職場だったり、職場で良く会う女性にモテていたんだろう。
何しろ、ジェレミアとこうなるまでは、イケメン観賞こそが最高の娯楽だったわたしが、思わず目を引き付けられたくらいなのだから、当然と言えば当然だ。
むしろ、なぜ慣れていないのではないか、困っているのではないかなんて思ったんだろう。きっとこのところ色々起こり過ぎて疲れていたんだな。きっとそうだ。
「それならいいんだけど、何かあったら言ってね」
わたしは拍子抜けした気分でそう告げた。