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濃い一日でした


 わたしは驚いて顔を上げた。すると、美麗な顔と目が合う。どこか警戒しているような、心配しているような目だった。


「……彼とはあまり関わらない方がいい」

「え、何でですか?」


 何でそんなことを言われるのかわからないわたしは思わず問い返した。今度はジェレミアが目を丸くする番だった。


「あいつは放蕩者だからだ。常に未亡人やどこぞの夫人と浮名を流しているし、手が早いことで有名だ。未婚の娘なんかが相手をしたらどうなるかは目に見えている」

「……心配、して下さっているのですか?」

「当然だ」


 腰を抱えられたまま見下ろされ、真剣な眼差しを注がれたわたしはまたしても心臓に多大なるダメージを受けた。後一体何度ダメージを受ければこの役目は終了するのだろう。

 顔が上気し、足から力が抜けそうになる。


 なんという凶器だ、その顔面は乙女を殺せる。色々な意味でだ。


 もちろん、彼の「当然だ」は恋人役の娘が他の男にうつつを抜かしていたら意味がないばかりか、ジェレミアが恋人を他の男にとられたと思われてしまう可能性について示唆したものだろう。

 だが、例えそうであっても、真剣な顔で見られるのは嬉しすぎて死ぬ。


「あ、ありがとうございます。気をつけます」

「そうしてくれ、さあ、そろそろ音楽隊も準備が整う頃だ。行こう」

「はい」


 見れば、他の客たちも階下のダンスホールへ向かいだしている。

 わたしたちもその流れに加わった。途中でタチアナとグリマーニ卿が手を振ったので、こちらも振り返した。やがてキラキラしてシャンデリアのつり下がるホールへ辿りつくと、ゆるやかな旋律が聞こえる。

 わたしのような素人耳にもわかる艶やかな音色は、才ある音楽家と優れた職人による楽器からこぼれ落ちてきているようだった。


 わたしは流れている音楽にしばし聞き惚れていると、ジェレミアが言った。


「では、楽しく踊ろう」

「は、はいっ」


 慌てて答えると、可笑しそうな笑顔が視界いっぱいに広がる。他にも踊り始めているペアはたくさんいたのだが、すっかり見えなくなってしまった。

 わたしの視界に映るのは、彼だけだ。


 やがて、腰に手があてられると、体が安定するのを感じる。ゆっくりと踏み出されたステップは、決して強引なものではなく、鈍いわたしを優しくリードしてくれるものだった。

 丁寧に、穏やかに、かつ情熱的。


 ほんの内輪だけの小さな舞踏会なので、あまり細かいルールにはこだわらなくとも良いのだが、彼はきちんとしていた。

 わたしから合わせる必要は全く感じず、やや息が上がる頃にはすっかり身を任せていた。


 まるで夢のようだ。


 きっと、前世があまりにもあまりだったから、神様がこいつ可哀想だから今度の人生では少しくらい良い目を見せてやろうと思ったのではと感じたくらいだ。

 だとしたら神様ありがとう。

 これで生きていける気がする。


 わたしはここへ来た本来の目的を完全に忘れ去って、踊りながらジェレミアの姿を堪能した。まあ、人生一度や二度大馬鹿をやらかしたっていいじゃないか。

 そんな気分で夜は更けて行き、やがて人気も少なくなると、ジェレミアが言った。


「そろそろお開きの時間だ。部屋まで送ろう」

「わかりました」


 少し休んでから、わたしは彼に部屋の入口まで送ってもらった。なんだか頭がふわふわしている。脳みそだけ雲になったみたいだ。

 とはいえ、いくら脳みそが綿菓子化していると言っても、礼儀だけは忘れてはならない。


「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」

「そうか。それでは、また明日」


 囁くように告げると、妙に前方が暗くなった。何だろうと思っていると、額に柔らかい感触が落ちてきたのでぎょっとする。

 ――ちょっと待って、今額にキスされた?


 意味がわからず、ガチガチに硬直していると、食事を終えた満足そうな猫みたいな顔をしたジェレミアが言った。


「おやすみ」


 彼はそれだけ告げると、しっかりとした足取りで去って行った。だが、残されたわたしはといえば、しばらく衝撃から立ち直ることが出来ず、扉の前で棒立ちしていた。


 額にキス。

 それは便宜上の恋人にすることじゃないはずだ。しかも、今日言葉を交わしたばかりの人間にすることでもない。理解不能だ。何を考えているのかわからない。

 困惑しながらゆらゆら揺れて、ぶつぶつ念仏を唱えていると、どうやら踊ってきたらしいドロテアが紅潮した顔で不思議そうにわたしを見ると、肩をつかんで揺さぶった。


 ちなみに、ドロテアとわたしは同じ部屋を使っている。


「ねえちょっと、どうしたの? 何だか顔が凄いことになってるわよ、半分にやけてて半分恐怖に凍りついたみたいになってるわ。何かあったの?」

「ゴメンナサイ、ワカリマセン、スミマセン」


 言語をうまいこと構成することが出来ずに、片言でそう言うと、わたしは必死に体を動かさんと気力を総動員した。


 とにかく、休まなくてはならない。

 明日は今日などとは比べ物にならないほど大変なことになるはずなのだ。

 体力だけは回復させておかなければならない。今日はジェレミアとの仲を見せ付けるだけで良かったが、明日からは周囲の人々の視線に耐えねばならないのだ。

 嫉妬、憎しみ、色々向けられることだろう。


 ついでに、おばに何か言われる可能性も絶大だ。


 睡眠をとっておかないと耐えられないこと請け合いである。


 関節がきしんで、まるで壊れたロボットみたいに部屋へと入って行く。とりあえず、寝よう。わたしは「どうしたのかしら」と不思議がるドロテアに返事を返すことも出来ず、小間使いを呼んで着替えると、すぐに横になった。


 神様、お恵みは嬉しいですが、ほどほどにして頂かないと寿命が縮まります。


 寝台の中でわたしは神様に向けて言った。

 けれど、最後に見せたジェレミアの嬉しそうな笑顔が強く目に焼き付いており、結局なかなか寝付くことが出来なかった。



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