(8) 望まなすぎる再会
公爵邸へ来てからの初めての外出だ。
とはいえ、仮の付き添い役を頼まれているので、ミセス・モレナが来るまではルチアも一緒でなければどこにも行けない。なので、ルチアも一緒に、と思ったのだが、話を聞いて着替えを用意してくれたドーラが、自分が見ているからと仮の付き添い役を買って出てくれた。ジェレミアも大丈夫だろうと請け合ってくれたので、お言葉に甘えることにしたわたしは、ついつい、気持が浮き立ってしまう。
通りには昨日積もった雪があるが、通りは雪かきがされているのでそう大変でもない。とはいっても、空気は冷たくて、鼻が痛いくらいだ。けれど、そんなことは気にならなかった。
久しぶりの書店なのだ。
行けるのが嬉いので、つい口元が勝手に綻ぶ。そんなわたしに気付いたのか、ジェレミアが声を掛けてきた。
「嬉しそうだな」
彼はそれまで氷点下だった眼差しを春の雪解けの温もりを帯びたものに変えてわたしを見ると言った。
そんな目をされると心臓に悪いのだが、そんな感覚も何だかとても嬉しくて、わたしは大きく頷いた。
「はい、書店に行けること自体が久しぶりですし、こうやって一緒にいられるのがやっぱり嬉しいんです」
素直に言うと、ジェレミアは不意を突かれたように黙り、横を向く。あれ、わたし何か変なことを言っただろうか。よくわからないので、こちらも黙りこむ。馬車内を妙な沈黙が覆った。
黙っているのも何だか気が引けて、わたしは言った。
「それにしても、デニーが女性だなんて驚きました。従僕の姿で入って来るから、男性だとばかり思っていたので」
沈黙が気になっていたのは同じと見えて、ジェレミアは苦笑しつつもすぐに質問に答えてくれた。
「ああ、彼女も以前は気にしていたそうだが、ある時諦めたそうだ。使用人としての使命を果たすにはむしろ役立つし、自分の心を活かせる場所ならすでにあるから平気だと言っていた」
それは一体何なんだろう。
気になるが聞きづらいなと思っていると、察してくれたらしいジェレミアが教えてくれた。
「デニスの言っているのは応援する会のことだ。彼女も誰だか知らないが好みの男性がいるそうだ。まあ、少なくとも私じゃないことは確かだが。何しろ、赤ん坊の時から知っているからな」
「そんな頃からなんですか?」
「ああ、私の信頼する使用人たちだ。彼らは代々カスタルディ家に仕えてくれているんだ。ほとんど家族同然だよ。だからこそ、君に彼女をつけることにしたんだ。何より、強いだけでなく女性だというのがいい」
「はあ、それはまたどうして?」
信頼出来て、腕っ節が強ければ別に男性でも女性でも関係ないのではないだろうか、と思ってわたしは問う。すると、ジェレミアは肩をすくめて何を当然のことをと言いたげな顔をした。
「君と他の男が親しくしているのを見るのは、例えそれが使用人でもあまりいい気分はしない」
一瞬、何を言われたか頭が理解出来なかった。しかし、理解が出来てくると、じわじわと混乱してくる。
感情も追いつかない。
忘れていた。
そういえばそうだった。ジェレミアはこういう人だった。以前は演技だと流せた全てが流せない。なぜなら、これは演技ではないのだ。演技ではないとあの夜思い知らされたのだから。
固まったわたしを追い詰めるかのごとく、ジェレミアはさらに顔を近づけてきて言った。
「言っただろう、私だけを見て欲しいと……」
「い、言いました」
確かに言った。
わたしもそうすると返事した。
けれど、そこまで嫌だとは思っても見なかった。まあ、使用人ともなれば他の男性の友人より遥かに接する機会は多いのだが、だからといってジェレミアがそんなことを気にするとは。
「それでも、君は優しいから、きっと彼らを労わるだろう。そんな彼らが君を好きになる可能性がないとは言い切れない。もしそうなったら、私はその男に何をするかわからないからな、避けられる事態は最初から避けた方がいいと思わないか?」
「思います」
わたしは頷くだけの人形になった気分で頷いた。
正直、この王都へ来てからジェレミアの様子がおかしいような気がする。ふたりを結びつけたあの館にいたときとは異なり、明らかに余裕がない。
それがなぜなのかわからず、とりあえず彼の言う通りにしようとわたしは決めた。ジェレミアは頷き人形と化したわたしの返答に一応満足したのか、近づけてきた顔を元の位置へ戻す。
わたしは思わずほっとした。
今でもまだ、あの美麗顔が近づいてくると心臓がとんでもないことになるのである。
やがて、ほどなく書店についたと御者が告げ、扉をデニスが開けてくれた。わたしはジェレミアに降ろしてもらい、久々の書店を見た。
紙の臭いが鼻をつく。
自然と、顔がほころぶ。新しい紙の臭いをかぐ機会なんて滅多にないのだ。田舎だとどうしても新作が入ってくるのが遅くなる。そのため、父が王都に出かけないだろうかといつも思っていたものだ。
「さあ、行こうか」
「はい」
わたしとジェレミア、その背後につき従うデニスは書店に足を踏み入れた。早速物色をはじめる。もちろん、お目当ては小説である。新作はないかな、と置かれた本の位置を確認するため、ざっと店全体を眺めた時、わたしは気づいた。
書店の中に、どこかで見たような男性がいることに。
さらに悪いことに、その男性は海軍将校の服をまとっていた。
顔が勝手に引きつる。
さらに足はそちらの人物のいない方へと向かう。心の中では、他人のそら似だ気にするな気のせいだ海軍将校など何人いると思ってるんだ頭おかしいのか、と自分に言い聞かせるものの、あの背格好はどう見てもヤツだと思う。
動きがカクカクし出したわたしの様子がおかしいのに、ジェレミアもデニスもすぐに気づく。
「ロレーヌ、どうしたんだ。何かあったのか?」
声を掛けるジェレミアの背後で、デニスが鋭い目線を周囲に向けている。わたしは、どう言ったものか迷った。
だが、それがあだになったようだ。
向こうが先にこちらに気付いてしまった。
――あああ、こっちに来る。
その足音で、流石のジェレミアも気づいたようだ。一瞬で険しい表情になり、わたしを背後にかくまうようにして立つ。その横で、いつでも主人たちの不測の事態に動けるようデニスが備える。
「やあ、奇遇だね。こんなところで会うとは思わなかった」
「そうだな、むしろどこだったとしても会いたくはなかったが」
ジェレミアが凍りつきそうな声音で応じると、相手は肩をすくめて見せてから、わたしに視線を移した。
やはり、美麗だと思う。
兄の方がより優美ではあるけれど、こちらは兄にはない勇壮さがあり、体格も少しばかり良い。何より、穏やかな目をしていた兄とは違い、獲物を求める狩人のような荒々しさが恐ろしいほどの魅力を放っているのである。日に焼けた肌も、魅力を損なうどころか逆に彼を精悍に見せていた。
わたしは見惚れつつも、警戒しながら小声で挨拶した。
「ごきげんよう、カルデラーラ中佐」
そう、そこにいたのは、ごくわずか前に、わたしに醜聞を起こさせようとしてくれた海軍将校、エミーリオ・カルデラーラだったのだ。彼は甘い笑顔を浮かべつつ、目だけ鋭いままで言った。
「あれ、俺の階級知ってるんだ。じゃあ兄さんが教えたのかな。ほら、少し前の戦争でね、出世したんだよ。ちゃんと自分の力でね」
「そ、それは凄いですねー」
果てしなく棒読みでわたしは答えた。彼の階級は確かに兄であるアウレリオ・カルデラーラ子爵から聞いたのだが、特に意味があって聞いたというより、ドロテアに付き合っていたらたまたま耳にしただけのことだ。
エミーリオはそんな怯えた子ウサギ状態のわたしを楽しそうに見つめる。ジェレミアに見られるのとは別の意味で心臓に悪い。あの時の怖さが蘇るからだった。
「そんなことより、海に帰らないのか? 水兵がいつまで陸地をうろついている」
低い声がより剣呑さを増す。
後ろに隠れたわたしが怖いんですけど。そんなジェレミアも格好いいなと思うけれど、美形だからか凄い迫力がある。しかも後ろを見るともっと怖い人相の方と目が合っちゃった。デニスは大丈夫だとばかりに頷いてくれたが、怖すぎて慰めになってくれない。
ぶっちゃけ、この状況は地味ーな平凡令嬢にはちょっと苦しいものがある気がする。
ついでに言えば、精神が絹ごし豆腐なので、竜虎の睨みあいみたいなのは早めに終わらせてほしい。
そんなわたしの精神葛藤などさて置いて、エミーリオはジェレミアの侮辱に反応もせず、座った目で飄々と答えた。