(4) 嬉しすぎる勘違い
微妙にぎこちないわたしとジェレミアの様子に、パオラもどうやら察してくれたようだ。わたしとしては察してくれない方が心臓に良かったのだが、そうとは言えずに手元を見つめて耐える。
やがて、パオラは困ったようなため息をつき、呆れたような笑顔で言った。
「気持ちはわかるけれど、礼儀も大切になさい。でも、今回は見逃してあげるわ……そうでなければ貴方がわたしのところへ来るなんて滅多にないものね」
「姉さんならわかってくれると思っていました」
ジェレミアは笑顔で言うと、返答を待たずにわたしの腕を取った。慌てて立ち上がったわたしは、彼と思いっきり目が合ってしまった。いつもは落ち着いた凪の水面のような目なのに、今は嵐が来ている。
「行こう、ロレーヌ。姉さん、それにルチア、失礼する」
「ジェ、ジェレミア様」
待って、と言おうとしたが、視線で封じられた。
わたしはへびに睨まれたかえるよろしく大人しくなり、彼にされるがまま、それでも何とかパオラとルチアに声を掛けて部屋をあとにした。
扉の向こうから、ルチアの歓声が聞こえてくる。
「うわあ、凄い、いいなあ。あれですよね、ふたりきりになりたいってことですよね、きっと!」
うああぁ、何か羞恥心で灰になれそうなことをもの凄く楽しそうに言ってるよ。後でルチアに会うのが恥ずかしい。
そんなわたしの葛藤などどこ吹く風で、ジェレミアはどんどんと先に進む。公爵邸はわたしには未知の場所なので、彼がどこに向かっているかはさっぱり不明だ。そのために、寝室にと宛がわれた部屋に向かっているかどうかすらわからない。
「あの、ジェレミア様?」
どこに行くつもりなのかと問おうとしたわたしだったが、ジェレミアは突然立ち止まってしまった。どうしたのだろうと思ってさらに声を掛けようとすると、彼はぼそり、と言った。
「ジェレミア、だ」
「え?」
「名前のみで呼ぶと約束したのを忘れた訳じゃないだろう?」
わたしは大きく目を見開いて、次いで口に手を当てた。そうだった。忘れていた訳ではないのだが、彼と別れて家族の元へ戻ると、名前のみで呼ぶのが気恥ずかしく、かつまだおこがましいように思えて、呼び方を戻してしまっていたのだ。
「ご、ごめんなさい……、でもそれには理由があって、何だかまだ夢のようで信じられなかったんです」
「なるほど、だが、忘れているのはそれだけかい?」
何かを探るような目で見ながら問うてくるジェレミア。何故にそのような目で見られなければならないんだろう。わたしがした事と言えば、うっかり名前に様をつけて呼んでしまったこと以外だと、従僕の青年を常日頃のくせで眺めてしまったことくらいだ。
なので、恐る恐る聞いてみることにする。
「あの、もしかして従僕を見ていたのがいけなかったでしょうか?」
答えはすぐには返らないが、わたし好みの美麗な顔が若干引きつったような気がする。やっぱりあまり良い気はしなかったのだ。
申し訳ないし、何より誤解されたくなくて口を開く。
「確かに、長年の習慣なので中々すぐに直せなくて、ごめんなさい。でも、絶対に直して見せますから。それとも、他に何か変なことをしていたんでしょうか。だったら教えてください。すぐに直します、わたしのせいで貴方が変な風に見られるのは嫌ですから」
「いや、それもあるが、他にも理由がある」
力強く断言すると、ジェレミアは困ったような声を出す。わたし、何か間違ったことを言っただろうか。だとしたらそれも指摘して欲しい。悪いところは自分からは見えないのだ。
「じゃあ何なんですか?」
「……あの使用人に、何を言われた?」
わたしは驚いて、ジェレミアの目を見つめた。それほど大きく反応したつもりはなかったのだが、どうやら笑顔の仮面がはげかけていたらしい。彼はどこか怒ったような、それでいて心配そうな様子だ。
ということは、ジェレミアはわたしが変なことを言われて不快な思いをしたと思っているのだろうか。それで、あの時あんな風に怒ったと。
つまり、ジェレミアがあんな態度をとったのは、わたしを心配してくれたからということだ。
思わず頬が上気して来て、わたしは両手を顔に当てた。
嬉しいのと恥ずかしいので、わたしの心の容量があふれ返ってしまい、返事がすぐに出来ない。それをどう取ったのか、ジェレミアは表情を険しくする。
「やはり、何か不埒なことを言われたのだろう? だが、もう気にすることはない。姉さんに頼んであいつは首にしてもらうから。さあ、言ってくれ……」
「あ、いえ……違うんです。そうじゃなくて」
「君が優しいのは知っているが、あんな輩までかばう必要はない。嫌なことがあったなら、ちゃんと私に言うんだ。君が苦痛を感じているのに、知らなかったら私は自分が恥ずかしい」
ジェレミアは真剣な顔でわたしの肩に手を置いて、語気を強めた。
それを前にして、わたしは未だに有頂天で死にそうになっていた。呼吸困難もいいところだ。水から上げられた魚よろしく口をぱくつかせ、とにかく必死で落ちつけ自分と言い聞かせる。
しばらく自分と葛藤した後、心配そうなジェレミアに言った。
「今、凄く嬉しいんです」
「何を言っているんだ、それより」
「わかっています。あの、ジェレ……ミアは、わたしが記憶持ちだと知っていますけど、それはどうしてですか?」
逆に問いかけると、彼は訝しげな顔をして首を傾げる。
「それは、貴族の情報は社交界にいると自然と入って来るし、……その、色々あって、君について知りたくて調べたから」
妙に歯切れ悪く言うジェレミア。
何だかわたしが不安になってきたが、ふとあのカスタルディ家の所有する狩猟用の館でのことが思い出された。
最後の告白の時点で、彼は最初から口説き落とすつもりだったと言っていた。つまり、結婚相手として問題ないか素姓を調べたのに違いない。
良くあることだ。
わたしは訳知り顔で頷いた。
本音を言うと知りたいが、あまり知りたくもないような気もする。微妙な気分だ。とりあえず、今は関係ないからその話は置いておこう。
「そうですか、だとしたら、変ですよね」
「何がだ?」
「あの使用人、わたしが記憶持ちだと知っていたんですよ」
告げれば、ジェレミアの顔が驚きに染まる。わたしはさらに続けた。
「さっき、こっそり言われたのは、過去のわたしと同じ国の同じ時代に生きたひとでなければ知りえない情報だったんです。それで、凄くびっくりしてしまって……でも、本当にそうなら何故そんなことを言ったのか話してみたいと思っていました」
特に隠す必要が全くないし、ジェレミアに勘違いさせておくのも悪いので、わたしはあっさり思っていたことを言った。
すると、彼はわたしの肩から手を離すと、口元にその手を持って行って唸りだす。肩には、大きな手が触れていた感触だけが残った。
――何か、名残惜しいな。
何でだろう、と首をひねっていると、ジェレミアがようやく口を開く。
「何か、嫌な感じだな。あいつはどうやってその情報を得たのか、も気になるが、それよりもどうしてそれを知ろうと思ったのかも気になる」
「ですよね、だから話をしてみようかな、と思っているんです」
「それはだめだ」
ジェレミアはきっぱりと言った。
「危険すぎる。もし聞くのなら、私も同席する」
「でも、それだと向こうも警戒して本当の話をしてくれないかもしれませんよ?」
わたしはただ思ったことを口にしただけだが、ジェレミアはそう取らなかったようで、目が再び氷点下の温度を帯び始めた。
あれ、何かまずいことを言ってしまったような気が激しくする。
わたしは曖昧な笑みを浮かべつつ、冷たい笑顔を浮かべた愛しの婚約者の顔を恐る恐る見た。




