侯爵子息、意思を固める
寄って来る若い娘とその母親から逃げつつ、時にはかわしながら、流れてくる音楽や人の話し声に耳を傾ける。
その間も、視線をあちこちに配ることは怠らない。
しかし、なかなか見つからない。
苛立ちが次第に心を閉めて行く。なぜいないのか、この夜会には来ていないのか。だとしたら、ここにいるのは時間の無駄でしかない。
踊りを申し込んで欲しそうな娘たちの目から逃れるように、私は嘆息した。彼女がいないのなら、ここには用がないのだが、腹が減った。食事をしてから帰ろう。私は空腹を満たすため、食事が用意されている部屋へと向かうことにする。
熱気にあふれた舞踏室を出ると、開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。風はやや熱をはらみ、夏が近いことをうかがわせた。
つまり、もうすぐ社交の季節は終わりを告げるということだ。
思えば、今までの中で一番長い滞在だった。
歩きながら、柄にもなくそんな感想を抱く。
廊下には人影はなく、遠くから聞こえてくる喧騒だけが風に混じって漂ってくる。すると、そこに別の声が混じった。
私はふと立ち止まる。その声には聞きおぼえがあった。声がするのは、テラスのようだ。私はそちらへ向かう。
近づくにつれ、声の応酬が激しいことが知れる。
「これ…何人目? よくも……前で、愛……かと踊れたものね」
「それが……した? 私が私………で好きなことを……何が悪…」
切れ切れに聞こえる内容は、どうやら痴話喧嘩のようだ。上流社会ではおなじみの内容。悲嘆に満ちた女性の声と、面倒そうな男性の声。
別に珍しいことではない。よくあることだ。
だが、苦しげに叫ぶ女性は、ダリオを裏切った女だった。私は、その場で立ち止まると、ふと考えた。
裏切った者が、結果裏切られているのかと。
立ち退くべきか、しばらく逡巡していると、男性のひと際大きな怒鳴り声と、何かを叩いたような音がした。次いで、慌ただしい足音がし、こちらに歩いてくる影が見えた。
ずいぶんと洒落た服装をしたひょろりとした男だ。
確か、親が一代で財をなしたという成りあがりだったろうか。
彼は私に気づくと、きまり悪そうに「失礼」と告げて去った。
その背を見送っていると、今度は別の足音が後ろから聞こえ、振り向く。そこには、頬を押さえた彼女がいた。
名前を呼ぶことすら汚らわしいと思っていた彼女は、涙を浮かべて皮肉げな笑みを浮かべて私を見た。
「あら、こんなところで会うなんて奇遇ね。それとも、わざわざ聞きにきたのかしら? だとしたらさぞ楽しかったでしょうね。
貴方のお望み通り、わたしは今とても悲惨よ……ご満足?」
「そうだな。少なくとも、君の目が間違っていたことだけは証明されたと思う」
そう告げると、彼女はヒステリックな笑い声を上げた。
「ええ、その通りよ。結婚して間もなく気づいたわ。自分で、必死になって見定めたはずのひとが、あんな暴君だったなんて……でも、離婚はしない。
あっちだって、わたしの社交術や身分は必要だもの」
「……そうか。まあ、大概の結婚はそういうものだ。何かと引き換えに何かを得るだけのものだよ」
目の前で、精一杯虚勢をはって強がる彼女は、小刻みに震えていた。
悔しさと悲しさで、どうしようもないのだろう。自分でまいた種だとはいえ、その姿は憐みをさそう。
とはいえ、慰めてやりたいとは思わなかった。
だから、事実だけ述べた。
すると、彼女は自嘲気味に嘆息すると、独り言のようにいった。
「そうね、その通りよ。わたしは身分と彼の子どもを、彼はわたしの望む生活を与えあう契約を結んだだけ。
でも、わかっていたらこんな結婚はしなかった。少し前、あるひとにいわれたわ。自分のための行動であっても、裏切るほうがつらいと……裏切られるのって、苦しいわね。あのひとも、辛かったのかしら」
彼女の変化に、私は目を見張った。
それは間違いなく、レディ・ロレーヌの言葉だった。
「ああ、引きとめてごめんなさい。でも、ひとつだけいわせて。すぐ忘れてくれていいから……ねえ、感情のまま行動することは悪だといわれているけれど、こんなに後悔するくらいなら、行動しておけば良かったと思っているわ。
もし、貴方も理性を試される事態になったら、そんなもの忘れた方が賢明だと今では思うわ」
遠くを見つめる彼女の目は、過去を羨ましがっているように見えた。そして「聞いてくださってありがとう」と告げると、幽霊のようにするりと歩み去ってしまった。
その場に残された私は、彼女の言葉の意味を考えてみた。
もしかしたら、彼女は誰かに諭されて今の結婚を選んだのかもしれない。だが、それがなければ、ダリオと結ばれたかったのだと言外にいったのだ。
そう思うと、わだかまりが解け去っていく気がした。
いつまでも、彼女を許せない自分が情けなく思える。
もう、いいのではないだろうか。
「そうか、そうだな」
そして。彼女が最後に告げたことを噛みしめる。
いつまでも悩んでいないで、行動すべきだ。感情の行く先はわかっている。ためらっていたら機を逃すかもしれない。
私は食事の用意されている部屋へ向けていた足を、再び動かした。
ここにはレディ・ロレーヌはいない。だが、明日母に頼み込むのだ。最後の催しを開いてもらい、そこに彼女を招待する。
決めた途端、気が楽になった。
私は数人が食事を楽しんでいる部屋へつくと、早速テーブルに用意されたとりどりの食べものを皿にとり、堪能した。
野鳥をこんがり焼いたものや、瑞々しい季節の果物、茹でた赤いエビの身を甘いソースであえたものといった本格的に空腹を満たすためのものから、パンに冷肉を挟んだものや、小ぶりのケーキといった簡単につまめるものまで色々ある。
それらはどこの催しでも見られるほどには豪華だが、とりわけ素晴らしいという訳でもない。
だというのに、とても美味しく感じられた。
食事を終えると、私は階下へ戻った。何とはなしに、舞踏室をもう一度のぞいてみれば、そこでは彼女の夫らしき洒落男と、バイアーノ男爵未亡人が踊っているのが見えた。
どうやら、彼の浮気相手というのは男爵未亡人のことらしい。
ふたりとも、背徳の間柄に酔っているように思えた。それを一瞥し、私は待たせていた馬車に向かう。
今日はもう遅いが、明日にも母に話をしよう。
そっと目を閉じ、脳裏に蜜色の髪を思い浮かべる。同時に、記憶していた様々な表情までもが思い出される。
あれを間近で見たい。
実際に触れて、踊り、声を掛けて反応を見たい。
自然と、口元が綻んでいることに私は気づいたが、放っておいた。明日が楽しみだ。私は喜びに浸っていた。
だから、忘れていたのだ。
もしかしたら、バルクール家のひとびとは、すでに帰ってしまっているかもしれないということに……。