侯爵子息、盗み聞きをする
すると、女性たちが何かを話しはじめる。
他にすることがないため、良くないこととは知りつつも、耳をそばだてた。同時に、聞こえた声に知ったものがあり、眉根を寄せる。
それは、まさにダリオを捨てた女の声だった。
一体どこまでつきまとうのか。うんざりしながらも、蜜色の髪の女性をようやく捕まえられる機会なのだ。仕方がない、と割り切って待つことに決めた。
他愛のないうわさ話や、ファッションについての話がつづく。
良くもこう意味のないことを延々としゃべり続けられるものだと私は悪い意味で感心した。
そして、話題が結婚のことへと向かうと、あの女の声が語り始めた。
「そうね、わたしは結婚に夢や希望は持たなかったわ。何より大切なのは、相手の男性がわたしを見て、好ましいと思ってくれること。それに全力を尽くしたのよ、見つけて貰えなければ、求婚もしてもらえないじゃない、まずは求婚されることが大切よ」
女性たちの感心したようなため息が場を満たす。
「それもそうね。どれほど素晴らしい男性がいても、女性から求婚するなんて、はしたないですもの」
「次にね、相手の与えてくれるものがどういうものなのか、ちゃんと見極めないと。
わたしは、わたしの欲しいものをくれるひとと結婚したかった。大変だったわ、でも、今はとても幸せなの。だって、このドレスは流行の最先端だし、こうやって貴族の集まりにも出られるし、彼はねだれば何でも買ってくれるの」
羨ましいと言いたげなため息が複数聞こえた。
だが、私は吐き気がした。そんなもののために、彼女は愛してくれた男を、いらなくなった古いものを捨てるように捨てたというのか。
「みじめな暮らしは絶対にしたくないでしょう?
それに、一緒に歩いていて見劣りがするような容姿だとわたしが恥をかくし、何より、ちゃんとお洒落のできない男性もね。話が退屈なのもつらいわ、でも、今の夫は全てを備えているの」
やや自慢げに、彼女は笑いながら告げる。
困惑した空気が場を包んだ。彼女は自分の夫を褒めながら、その実、自分が凄いのだと言いたいだけのようだ。それを感じ取ったのだろう、遠慮がちな同意がぱらぱらとあがる。
私は、どうしても彼女たちの表情が見たくなり、ついつい覗いてしまった。
その中に、あの蜜色の娘もいた。
他の女性たちが微かな嫉妬を表情にのぼらせている中で、その娘だけはひどく静かに笑んでいる。
「何にしても、うらやましい話ね。わたしたちもそんな方に見染めて貰うよう努力しなくては」
ひとりの令嬢が場をおさめるように言う。
「ぜひそうして頂戴、大切なのは、自分が何を求めているかよ。そして、求婚してくれた方の中からそれを持っているひとを選べる立場になること。それが結婚で幸せになる秘訣よ」
傲然とあげられた笑いた声は、実に楽しそうなものだった。自分の言葉が、その場の令嬢たちに嫉妬心を呼び起こさせたことがたまらないらしい。
なぜなら、誰にでも出来ることではないからだ。
まずは男性をとりこに出来るほどの美貌がなければならない。そして、ここが重要だが、その場の女性たちの中で恐らく最も美しいのが、彼女だった。
彼女は言外に、出来るものならやってみろと言い放ったのである。
そこへ、静かな声が割って入った。
「それもひとつの幸せでしょうね、でもわたしはそんなの嫌だわ」
蜜色の髪の女性だった。場に集まった令嬢の視線が彼女に集まる。注目される事に慣れていないらしく、彼女は居心地悪そうにしながらも、穏やかな表情で語り始めた。
「あら、どうして?」
「気を悪くしないで欲しいんですけど、もしその中に心から自分を好きになってくれた人がいたら、その思いを裏切らなければならない訳でしょう? わたしはきっと辛くて、そんな風に割り切るなんて絶対に出来ないと思うんです。絶対に幸せなんて感じられないわ」
「そうかしら、お金がなくてみじめな思いをするより余程いいと思うけれど」
それはそうだ。
没落貴族のなかには、悲惨な結末を辿るものも多い。特に女性は働き口が狭く、末路は目をふさぎたくなるような話が実際に起こっている。
「もちろんです。ある程度の生活力はなければ困ります。そうではなくて、わたしが言いたいのは、誰かを裏切ってまで得た富が、幸せにつながるとは思えないと言うことです。
そんなものより、人を裏切る方がつらいですもの……そんな耐えがたい思いをするくらいなら、少しくらい貧しくてもそちらの方が余程ましです」
きっぱりはっきり、蜜色の髪の女性は彼女を否定した。
「そう、そういう考え方もあるわね。でも、わたしの夫はわたしを愛してくれているもの、わたしはちゃんと幸せよ」
「ええ。ですからわたしの個人的意見です。
ですから、わたしが結婚に大切だと思うものは、暮らしていけるだけの財産と、人柄なんです。一生を側で暮らすんですもの、不愉快なひととだけは結婚したくないの」
わざと最後の方だけ声の調子を強くし、女性はおどけるように言った。
「ああ! それわかるわ、わたしも同じようなことを考えていたの」
ひとりの令嬢が追従する。
場の空気が一変した。それまで彼女が述べた自慢話のせいで、悪くなっていた空気が、それまでの楽しげなものへと変化したのだ。
私は、扉から離れて後ずさりながら、額を押さえた。
脳天を一撃されたような衝撃に、酔っていた。
蜜色の髪の女性に出会えて、心から良かったと思った瞬間だった。痛快で、爽快な気分だ。何より、私の心を代弁したかの如きもの言いに、心打たれていた。
誰かを裏切って得た幸福。
そんなものは真の幸福ではないと、あっさり切り捨てた。私もずっとそう思っていたのだが、誰にも理解されない。強いものが弱いものから奪うのは当然だと言われているが、そんなことをしても気分は悪くなるばかりだ。
何より、蜜色の髪の女性が見せた、自分を好きになってくたれ男性がもしいたら、という部分。彼女は絶対に割り切れないと言った。簡単に捨ててしまえないと。
心に、何かあたたかなものが宿った。
ずっと、いないと思っていた理想の女性。
話に聞いても、自分の手に入るとは思えなかった。
愛したところで、ただ儀礼的な思いを返されるだけならば、最初から好きになどならない方がいい。だが、そんな思いすら吹き飛ばすような思いを抱けたなら……そんな人がいたならば……。
「いや、まだ早い。どんな人間なのかまだ知らないんだぞ……もっと、良く見知る必要がある。大体、今回のことはただあの女の発言が不快だったから、言い返しただけかもしれないじゃないか」
口に手を当てると、私は小声で呟いた。
地位と財産、容姿がそろっているせいで、女性は勝手に寄ってくる。その中に、財産や収入、侯爵子息という地位、優れた容姿目当てでない女性を見つけるのは至難の業だ。
見て欲しいのは、何よりも自分。
そして、家族。
それを与えてくれる女性は、恐らく誰かを気づかえる人物。
私は立ち止まり、再び会話に耳を傾けた。
やや高めだが、落ちついた声は覚えた。だが、今一番知りたいのは、彼女の名前だ。静かに耳を傾けていると、彼女の声がした。
その次に、知り合いらしき令嬢が笑いかける。
「わたしも同じような考え方なの、嬉しいわ、レディ・ロレーヌ」
「まあ、こちらもよ。言って良かったわ」
愛らしい笑い声が響く。
私は、にやりとした。彼女の名前がわかった。
「ロレーヌ」
極上の美酒を味わうような心持ちで、名前を舌の上に乗せる。蜜色の髪、レディ・ロレーヌ。これで誰だか絞れるだろう。
本音を言えば、もっと眺めていたたまれなくさせたかったが、今日はやめることにした。
そろそろ母も来ているはずだ。迎えに行かなければ怒られる。
私は晴れ晴れとした気持で、扉から離れるとゆったりと歩き始めた。