なぜ彼は機嫌を損ねたのでしょう?
本当ならば晩餐用に着替えをしなくてはならないのだが、わたしは逆らう気力もなく、彼に連れられるまま再び外へ出た。
日射しはだいぶ傾き、暮色を帯びてきている。
わたしは改めて顔を上げるとジェレミアの顔を見た。
――美しい。
さくさくと芝生を踏みながら、わたしは見惚れた。
ここへ転生し、成長してからというもの、わたしは大勢の美形を見つけては眺めてきた。その中でも、彼はとびきりだった。
大きな舞踏会に招かれたとき、偶然目にしたその姿は、今でも瞼の裏に焼き付いて離れない。
美形が好きと言っても、当然わたしにも好みのタイプが存在する。どちらかというと、女顔に近い、綺麗としか表現しようのない顔が一番好きだ。
そして、ジェレミアはそんなわたしの好みに最も合致するのだ。
とはいえ、彼は侯爵家の子息。
わたしなどには遠い存在だった。だから、眺められるだけで良いというのは、わたし自身へ向けた言葉でもあったのだ。
だというのに、そんな彼がむすっとした顔で隣を歩いている。
生きていれば色々あるとは言うが、こんなこともあるのだなと思った。
「いつまでそう眺めているつもりだい」
「えーと、飽きるまで?」
不機嫌に掛けられた言葉に、わたしはあっさりと答えた。
はっきり言ってデメリットしかない彼の頼みを引き受けたのは、ひとえにこの美麗顔が間近で拝めるからに他ならない。そうでなければさっさと断っている。
「……お話する機会があれば、聞いてみたいとずっと思っていたのだが、他にも大勢魅力的な男がいる中で、君は私を見ていることが多かったと思うのだが、それはなぜだろうか?」
わざわざ小道の途中で立ち止まって、ジェレミアは問うてきた。
「それは、ジェレミア様のお姿が最も好みだったからです」
特に隠す必要もないのでわたしは答えた。先ほどタチアナとグリマーニ卿を交えた会話で、自分の趣味はすでに知られていることがわかった以上、取り繕う意味もない。
何より、わたしを恋愛対象として見ることはないだろう人物に対して仮面をかぶったところで無意味だと思ったのだ。
「そ、そうか、それは光栄だな」
やや戸惑ったような声が返ってくる。彼は、ちょっと赤くなりながら再び歩き出した。わたしも一緒に足を踏み出す。今日は良く晴れていて、夕方でも寒くない。もう春だ。
こちらの世界にも四季がある。もちろん、日本とは細部が異なるけれど、季節の変化を楽しめるのは嬉しいことだった。
わたしは庭園と美麗顔を交互に眺めて、目と心を保養しつつ歩く。
特に交わしたい言葉もないので静かだ。遠くに招かれた紳士淑女の姿が見える。あちらはあちらで逢引き中のようだったが、こちらに気づくと驚いたように見つめてきた。
この散策の目的は達成されたようだ。
とはいえ、どうか彼らの視界にはわたしが幽霊のように映りますようにと願ってから、ふと思いつく。
確かジェレミアにも応援する会は存在する。この館に滞在中、彼に優しくされたけどすぐに振られたとか何とか理由をつけてその会に自分の名前を記せば、これから振りかかるだろう嫉妬の嵐も少しは和らぐのではないだろうか。
あるものは利用しなくては、結婚出来なくなったら困るし、などと今後についての対策を練っていると、沈黙がいたたまれなくなったのか、ジェレミアが再び声を掛けてくる。
「もうひとつ、訊ねてみたいと思っていたのだが」
「はい、なんでしょう」
「本音を言うと、この申し出は断られると思っていたんだ。実際、ひどいことをお願いしていると思う。どうして君は受けてくれる気になった?」
申し出とは恐らく、便宜上の恋人役のことだろう。
顔をガン見したいからだと正直に言って良いものだろうか。だが、他にどう言ったら納得してもらえるのかわからなかったわたしは、正直に伝えることにした。
「貴方の側にいられるからです。ご存知だとは思いますが、ジェレミア様はとても美男子ですもの、わたしなどがお近づきになれる機会なんて、こんなことでもなければきっと無かったはず。
ですから失言についてはお気になさらないで下さい」
説明してにっこりと笑う。すると、彼は再び立ち止まり、なぜかわたしの地味な顔をじっと見つめてきた。どことなく青い目がうるみ、熱を帯びているように見える。
照れたのだろうか、それとも、やはり気を悪くさせてしまっただろうか、と思って覚悟しつつ、彼が何か言うのを待った。
ガン見するのは平気だが、がん見されるのはかなり居心地が悪い。
そんなに眺めるほど価値のある姿かたちをしていないのは良く分かっている。身に染みるほどだ。それこそじっくり煮たおでんの大根並みに染み込んでいる。
早く何か言ってくれと心の中でムンクの叫び状態になっていると、ようやくジェレミアは言った。
「それは、私のことを好きだと言っているように聞こえるんだが?」
返って来たのはまたしても質問だった。
まあ、確かにそう言ったので、そう聞こえたジェレミアの耳も頭も正常極まりない。ただし、恋愛対象として好きだ、といった訳ではないので、ちゃんと釈明しておかないと勘違いされる。わたしは慌てて言った。
「はい、好きです。でもそれは貴方のことを愛しているとかではなくて、存在が魅力的だからという意味の好きです。ご迷惑になるのはわかっていますし、わたし如きが貴方を恋愛対象にするだなんて、そんなの神への冒涜でしょう。ジェレミア様にだって好みはありますでしょ?
ですから、わたしの気持についてはあまりお気になさらず……ジェレミア様?」
ジェレミアが恨めしげな顔つきになったのに気づいて、わたしは何か失言をしただろうか、と思って驚いた。落胆したような、どこかやさぐれたような表情にも見える。
そんな顔をされるようなことは言っていないはずなのだが――。
わたしがどうしたのかと声を掛ける前に、彼はややぶっきら棒な口調で言った。
「君の気持は良くわかった。だが、せめて私がもう恋人の振りをして貰わなくても良いと思う時までは、ちゃんと恋人らしくしていて欲しい」
「もちろんです、ああ、そろそろ館に戻らないと。風も冷たくなって来ましたし」
「そうだな」
それからは全くと言って良いほど会話はなく、わたしたちは突き刺さる視線を受け止めつつも、静かに館に戻ったのだった。