侯爵子息、睨み合う
それから、友人の演説に加わり、私も二言三言述べた。
やがて演説が終わると飲みに行かないかと誘われたが断った。少し体を動かしたかったし、夜会に出る準備もしなくてはならないからだ。
つい頭に浮かびそうになる先ほどの出来ごとを、何とか頭から追い出したかった。
私は友人らと別れ、王都に来た際には良く立ち寄る道場へと向かった。
そこではここより南にある国の闘技を教えており、実際に戦うことを見世物にしている者たちと、体を動かすことを目的とした貴族や裕福な資産家の男たちが学んでいる。
少しなまければ、体力というのはすぐにが落ちてしまうのだが、王都では馬に乗って遠出も出来ない。
だから代わりに格闘技を習っていた。
どうせなら護身術になるものがいいと思ったからだ。
私はそこでしばらく汗を流してから、屋敷へと戻って夜会へ行く準備を始めた。だが、支度の途中で、思考がしなければならないことから離れると、途端に不快な経験がよみがえる。
「……くそ」
脳裏に否応なく浮かぶ顔。昼間の笑声。こめかみに手を当てると、耳が鳴っている気がした。私は頭を振った。一体どうしたら、この不快な記憶を闇に葬り去ることができるのだろう。
嘆息をして、私は顔を上げた。
余計なことは考えるな。
そう言い聞かせる。
言い聞かせながら、私は蜜色の髪の女性がこれから向かうパーティに参加してくれていることを願った。彼女に集中していさえすれば、この不快な記憶から一時ではあるが解放される。
やがて支度が終わると、階下に向かい、馬車に乗り込む。
今回も、私の屋敷からはそう離れていない。主催者は社交界でもかなり顔の広い、侯爵未亡人だ。多くの貴族と縁故がある彼女は、この季節様々な催しを開く。今回のものは小規模ではあるが、それでも多くの貴族や資産家、政治家、著名人が招かれていることだろう。
後で母も来ると言っていたから一緒でも良かったのだが、私は時間が欲しかった。
そんな訳で、少し早く出発したのだ。
舗装された道を進み、ほどなくして到着する。すでに大勢の人々が集まり、夜会を楽しんでいた。私は主催者である未亡人と、その息子の侯爵と侯爵夫人に挨拶をしに行く。
その時、視界に蜜色の髪がよぎった気がした。
私は挨拶を終えると、その方向へと足を向け、そして立ち止まった。
「……ああ、やはり」
呻くようにぼやく。
昼間の白昼夢が、ふたたび現れたのだ。
深みのある笑い声と、美しいドレス姿が。
貴族の家柄に生まれながら、父親の放蕩のせいで生活すら立ちいかなくなったその令嬢には、財産と呼べるものはほとんどなく、彼女は唯一の持ち物である自分の美貌と話術を武器にした。
裕福な紳士たちに、自分の窮状を訴え、同時に男を喜ばせる話し方をする。
彼女のとりこになった者たちは多い。ダリオもそのひとりで、早いうちから彼女に救援の手を差し伸べていた。彼は彼女を自分の所有する家に住ませて、後見人のようなことをした。
次第に、彼女の気持ちが自分に傾いていると思うようになると、婚約を持ちかけた。
彼女はそれを受け入れ、ふたりは正式に婚約。
だが、そのわずか三カ月後。その令嬢はもっと裕福で見目良い男性を見つけるや否や、同じように自分に注意を向ける作戦に出た。それは功を奏し、婚約は破棄。
彼女を信じていたダリオは、失意から立ち直ろうとしていた矢先に落馬して亡くなった。
それを聞いた彼女とのやりとりを、私は一生忘れられないだろう。
彼女は言った。
「ごめんなさい、彼のことはそれほど良く覚えていないの。でも良い方だったことは良く覚えているわ、本当にお気の毒ね、きっと運が悪かったのよ」
私はここで反論した。
「彼は落ち込んでいたんだよ、君に一方的に婚約解消されて、傷ついていた」
「そうだったの? まあ、そうとは知らなかったわ。だって、心変わりを説明したとき、彼はあっさりと受け入れてくれたもの。それほどわたしに執心しているようには見えなかったわ」
自分のせいだとは決して言わず、謝ることもせず、彼女は会話を切り上げた。
「ごめんなさい、主人が待っているの。彼のことはお気の毒だと思うけど、もうわたしには関わりないひとだし、それじゃあごきげんよう、ジェレミア卿」
いっそ爽やかとすら思える笑顔で、彼女は去って行った。
裏切りを裏切りとも思っていないことがわかる。
ダリオを見ていて、私は思った。裏切られるくらいなら、最初から何も期待しない方が良い。結婚願望のある女性が望むのは、あくまでも地位と富なのだ。それを持つ男性に嫁ぐことで、保障された生活を欲しがる。
それを責められるだろうか?
責められはしない、だがそれでも、頭のどこかにもしかしたらという感情がこびりついている。
理想の女性。
外見は優しげで、自分のこの馬鹿げた理想を理解してくれる相手。決して、裏切らないと思える、愛を注いでも良いと思える女性が、もしいたら……。
私は自嘲した。
いるはずがない。打算と欲望に満ちたこの貴族社会に、そんな女性はいない。
いい加減思考を切り替えよう。今はただ、小さな復讐を完了させられればそれでいい。嫌な記憶に引きずられてしまった自分に嫌悪しながら、私は至るところに目を走らせた。
いない。だが、先ほど視界に映ったそれが見間違い出なければ来ているはずだ。帰ってしまう前に見つけて、名前と顔を覚え、こちらからも凝視してやるのだ。
私は会場をゆったりと闊歩する。
ひとびとのさざめき、漂う香水が混じり、遠くからたばこの香りもしてきた。どこかでカードゲームをやっているらしい。今夜はそれに参加する気はない。
しばらく歩いていると、不意に首筋がぞわりとするあの感覚がした。
振り向くと、蜜色の髪の、小柄な女性と目が合う。彼女は驚いたように目を見開いたが、それでもしばらくは私を眺めていた。
「ほう、今夜は逃げないのか……だったら」
当然、見つめあう形となる。
私は意外に感じながらも、口角が上がるのをとめられなかった。どちらが先に気まずくなって目を反らすかの勝負だ。
ようやく、本懐が遂げられる。
沈んでいた気持が、今度は高揚に転じたのがわかった。
それまでの不快な気分が消えて、ただただ楽しさだけが心を満たして行く。目をそらさない娘が、面白くてたまらない。私は不敵に笑いながら、じっと見た。
絶対に、こちらからは目を離すつもりはない。
その間に、彼女をじっくり観察する。
かなり若い、十代後半で、社交界に出て来て間もなさそうだ。煌めくつやのある蜜色の髪は簡素すぎる形に結われ、黄色いドレスを着ている。腕や腰は細い。見た目は地味だが、そう悪くない。
好みか好みでないのか判別するとしたら、好みだ。
瞳の色は判然としないが、丸い目は可愛らしい。
しばらく見つめあっていると、彼女が誰かに呼ばれた。一瞬、こちらを名残惜しそうに見たものの、強引に誘われているのか、ついに目を離した。
私はゆっくりと人波をかきわけて、彼女を追う。
そんなに見たいなら、好きなだけ見させてやる。
代わりに、そっちが目を離すまでは絶対にやめない。今夜は楽しくなりそうだ。私は自然と笑みを浮かべながら、黄色いドレスを追う。
途中で声を掛けられても、そつなく断り、決して見失わないよう注意する。
ようやく訪れた報復のときなのだ。邪魔はさせない。そんな思いで後を追うと、彼女と連れの少女は別室へと入った。
流石の私も足を止める。
どうやら、女性たちだけで集まって軽くお茶するらしい。私はフンと鼻を鳴らした。幾らなんでも、入って行っては不味いことくらいわかる。
仕方なく、扉の側へ立つと、出てくるのを待つことにした。