侯爵子息、再会する
なんてことだ、と怒鳴りたい気持ちをこらえ、私はその場に立ちつくした。すぐに追いついてきたブルーノとタチアナが、私に気づいて声を掛けてくれた。
「ジェレミア、見失ったのか? またバイアーノ男爵未亡人に捕まっていたようだが」
「ああ、そのせいで見失った。くそ、あと少しだと思ったのに」
苛立ちを隠さずに言うと、タチアナが困ったように笑う。
「でも、少しは手掛かりをつかめたんだから良しとしましょうよ。もしかしたら、ここには来ていなかった可能性だってあるのよ? そんなに簡単に捕まる獲物なんてつまらないじゃない」
「タチアナ、ジェレミアは遊びでやってる訳じゃないと思うよ」
「そうでしょうけど、獲物を捕らえることには違いないでしょう」
タチアナは私を見て、問うように言った。確かに、その通りだと思う。
一種のゲーム。苦痛でしかないこの季節を乗り切るための苦肉の策だ。実際、蜜色の髪を追いかけるのは予想よりも楽しかった。
「その通りだ、どうせまだたくさんのパーティに参加しなければならないのだから、それで良かったんだと思う。背恰好や、何より一番特徴的な髪の色がわかったことだし」
「でしょう! それにしても、蜜色の髪……か」
「何か心当たりが?」
そう訊ねれば、タチアナは首を傾げた。誰かを思い浮かべたことに違いはないらしいが、言いあぐねている。なぜなのか、とにかく私は待った。すると、先にしびれを切らしたらしいブルーノが問う。
「何か思い当たることがあれば何でもいいよ、もし間違ったとしても大したことじゃない」
「そう? じゃあ言うけど、見当違いだと思うわ。だって、その女性はとんでもない美貌の持ち主で、様々な逸話がささやかれるほどの方なの。そして何より特徴的なのが、豪奢な蜜色の髪の持ち主だと言うこと。名前はラヴィーナ。レディ・バルクールよ」
「ああ! 確かに、ほら、君の領地の隣の家だよ、ジェレミア」
ブルーノが人差し指を立てて言う。
もちろん、すぐに思い当たった。カスタルディ家の領地の隣。そこを所有するのが男爵位を持つバルクール家だ。当主はひどい地味顔だが、恋愛結婚をした。なぜ絶世の美女であるレディ・バルクールが彼を選んだのか、当時は様々なうわさが飛び交ったらしい。
私はまだ幼かったから詳しい事情は理解出来なかったが、後で何度か会った印象は、うわさと違わぬものだった。
そして、神々しいほどの美貌の中でも際立って目立っていたものこそ、輝く蜜色の髪だった。
「なるほど、確かに。もしかしたら彼女の縁戚なのかもしれないな、その娘……そういえば、彼女には娘がいたが……どんな顔だったろう?」
どこかで会ったことはあるはずだ。だが、何かもやもやとして思いだせない。彼女の顔に霧で発生していたのかと思わせるほど、ぼんやりとしか浮かんでこない。
「う~ん……だめだ、僕にも思いだせないよ、君はどう?」
「わたしもだめ。確かに娘がいるはずなのに、会ってない訳ないわ! あの方は貴族社会で生きる女性全ての憧れなのよ?」
怪訝な顔で眉根を寄せるタチアナの気持は良くわかる。
ここまで思いだせないとは、一体何の魔術だと疑いたくなるくらいだ。とにかく、今ここでレディ・バルクールと件の娘について議論を戦わせても不毛なだけだ。
一番大切なのは、そこにいるのを捕まえることなのだから。
「それも、例の娘を捕まえればわかることだな。よし、明日もどこかへ参加してみることにしよう」
「そうね、わたしたちも出来る限り協力するわ」
「ありがとう。けど、あまり無理はしないでくれ、結婚したばかりの君たちの邪魔をするような野暮なことはしたくないんでね」
私はタチアナとブルーノを交互に見て笑った。ふたりは一瞬顔を見合わせる。
「別に気にしなくていいわよ。催しに参加するついでだもの」
「そうだよ、それに、家へ帰ればふたりきりの時間はたっぷりあるから、ね?」
ブルーノの言葉に、タチアナが嬉しそうに笑った。微笑ましいが、同時に羨む気持もわく。私は早々に退散することにした。ふたりにそう告げて、会場を出る。待っていた御者に声を掛けると、すぐに町屋敷へと向けて馬車が動きだした。
私はひとり、馬車の中で目を閉じると、あの髪を思い返す。
そうだ、もし捕まえられたなら、不躾なまでに眺めるのはその髪にしよう。私はそう決めた。
すると、なぜか心が浮き立ってくる。つまらないと感じていた催しが、途端に楽しいものに見え始めた。最初は苛立ちしか感じなかったのに、不思議なこともあるものだ。
私はそう思って、口もとを微かに歪めた。
◆
それからというもの、ブルーノとタチアナがいない集まりにも参加して、私は蜜色の髪の令嬢を探した。何度か見かけはするのだが、いつも存在していたのが幻ではないかと思えるほど、するりと視界から消え失せて行く。
苛立ちながらも、結構な数のパーティに顔を出した結果、母にも驚かれてしまった。
「どういう風の吹き回しなの? それともここにいるわたしの息子は別人なのかしら」
「ちゃんと貴女の息子ですよ。ちょっと楽しいことを見つけましてね」
朝食の席で今日も夜会へ行くと告げた私に驚いた母に、そう答えた。すると、母は何か変わった生き物でも見るような顔をした。
あまり詮索されても嬉しくない。
私は流し込むように食事を終えると、いつものように外出した。
向かう先は、講演会だ。
王都にはいくつか広場があり、そのひとつで、若い政治家が演説するのである。一応は知り合いなので、行かない訳にはいかない。とは言っても、下らない催しよりは余程楽しみだった。
私は馬車を出すように使用人に言いつけると、支度をはじめる。
ほどなくして、私は西側の広場へ向かう馬車の中にいた。
揺れる馬車から、通りを行く人々を見やる。
ぼろをまとった子どもが声を張り上げていた。主に通りを歩くのは物売りだ。威勢の良い声と、値切る客。いつもの風景だ。しばらく見ていると、舗装されていない道を行く馬車が巻き上げる砂ぼこりにむせかえる人々の姿が見え、私は御者に速度を落とすように言いつけた。
やがて、広場に面した建物に立つ友人の姿が見えた。
彼は拡声器を使って、バルコニーから叫んでいる。その下に集まっている観衆は、貴族か裕福なものたちだ。政治に参加できるものしかいないが、女性を連れている者もいる。
私は彼らを避けて、建物へと入った。
そして、一瞬立ちつくす。
――あれは。
がっしりした体躯の男性と連れだっているひとりの女性。
なよやかな物腰には見覚えがある。胃がきりきりと痛んだ。夫とともに領地に引きこもっていると聞いていたのに、なぜいるのだろうと思った。
思わず、彼女の視界から逃れるように建物の柱に近づく。
彼女は気づかずに通り過ぎて行く。
豊かな黒髪が揺れて、笑い声が聞こえた。綺麗な服。しとやかな笑顔。どこまでも幸せそうな顔を見ていると、裏切られたように感じた。
同時に、嫌な予感がした。
ここにいる、ということは、あの夫妻は王都に出て来ているのだ。だとしたら、これから私が参加する集まりにも顔を出すかもしれない。
二度と、見たくないと思っていた顔を見なくてはならないのか。
だが、それしきのことで逃げることなどしたくない。
それでも、私は顔をしかめるのをやめることが出来なかった。頭痛がする。
あの女のことを考えるのはよそう。
私は思考を切り替え、階段を上がりながら別のことを考えた。――そう、考えるなら楽しいことが良い。私の思考は自然と、あの蜜色の髪をした娘のことに向かっていた。