侯爵子息、見失う
夜。馬車でポーチに乗りつけて、会場となっている子爵家の屋敷へ入った私は、すぐに主催者の元へ向かうと挨拶を交わし、来ているはずのブルーノとタチアナの姿を探した。ほどなくしてふたりの姿が見つかり、安堵する。
ふたりの側へ向かおうとした私だったが、横から呼びとめる声がした。そちらを向けば、艶やかに着飾った女性が手を振っているのが見えた。
私は思わず小さく呻く。
二度と見たくないと思っている顔ならすでにいくつかある。彼女の顔もそのひとつだった。
脳裏によみがえる記憶は、未だに、うっかり悪臭をかいでしまった時のような不快感をもよおさせる。私がそんな思いをしているなど露知らず、彼女は嬉しそうに歩み寄ってきた。
「お久しぶりね、元気だったかしら?」
「ええ。夫人もお変わりなく」
「ふふ、そうでもないのよ。今の私は夫人じゃないの……バイアーノ男爵未亡人よ」
女性、バイアーノ男爵未亡人は妖艶な笑みを浮かべると、人差し指をふっくりとした唇につけて、意味ありげに私を見た。
――変わりばえのしない女だ……。
冷めた気分で、深紅のドレスに身を包んだバイアーノ男爵未亡人を見る。
彼女の存在もまた、私に結婚願望で暴走する母娘を忌避させている要因のひとつなのはわかっていた。結婚前、私は彼女に熱心に声をかけられていたことがある。
嫌な思い出だ。
さっさと彼女から解放され、目的を果たしに行きたい。――が。
「この意味、わかるかしら? 以前、貴方に言った言葉、覚えている?」
「……申し訳ありません、忘れましたよ。もう何年も前でしたからね、貴女と会っていたのは」
そう告げれば、残念そうに目を細め、唇をとがらせる。
愛らしい仕草だ。あの時どれほどの男たちが彼女に惑わされたことか。そして彼女は、首尾よく貴族の男を射とめた。恐らく、彼女にとって計算外だったのは、彼がこれほど早くに亡くなってしまったこと、ただそれだけだろう。
「そう、そうかもね。じゃあもう一度思いださせてあげましょうか?」
「それも良いですね、ですが、今は友人たちを待たせておりますので、またの機会に」
「あら残念。でも、きっとわたしが教えなくても貴方は思いだすと信じているわ」
バイアーノ男爵未亡人はそれ以上は粘らず、するりと私の横をすり抜けて、別の紳士のところへと向かう。解放されて清々した私は、ブルーノとタチアナに歩み寄った。
案の定、ブルーノは顔をしかめてバイアーノ男爵未亡人の背中を見ている。
彼も、私と同じ時期に彼女に声を掛けられていたひとりだったからだ。
「やあ、これはレディ・グリマーニ、会えて嬉しいですよ」
「こんばんは、ジェレミア卿。良い夜ですわね、夫からお話は聞きました。それで、貴方のお探しの令嬢ってどんな方なの?」
薔薇が開くようにほほ笑んだタチアナは、好奇心に目を輝かせた。
客観的に見ても、彼女はとにかく美しい。情熱的な赤い髪に、透明感のある金色の混じった緑の瞳。肉感的な体つきを鮮やかな緑のドレスに包んでいる。
一方、渋い顔をしたブルーノは、彼女に会わせた緑色の服装だ。
それを見て、羨ましいと思った。
「実は、私もそれほどはっきりと見た訳じゃないんですよ。でも、ここに来ていれば恐らくわかるはずですよ、そうしたら目をお借りしたいのです」
「楽しみね、煙のように消えてしまう謎の令嬢探しだなんて。わたし、ちょっと退屈していたの、面白い遊びに加えて頂けて嬉しいわ」
タチアナのセリフに私は笑った。
すると、まだ渋い顔をしたブルーノが言う。
「ジェレミア、さっき、彼女に何を吹きこまれていたんだ?」
「彼女? ……ああ、大したことじゃない。未亡人になったと言われただけだ。ようするに、好きな時に遊べる立場になったと言いたかったんだろう。
別に私が相手してやる必要はないさ。どこかの放蕩者が素適な夜を提供してくれるはずだ、相手が見つかってしまえば、見向きもしなくなるさ」
「そうか、わかっていればいい」
安心したように息をついたブルーノに対し、私は肩をすくめてみせた。だが、彼はまだ何か言い足りなそうな顔で私を見てくる。何か誤解があったのだろうか、と思い、私は言った。
「私が彼女に興味を持ったのはほんのわずかだった、本気で熱をあげていた訳じゃないぞ」
「わかってるよ。けど、彼女は恐らく次の相手を探しているはずだ。そして君はまだ独身、注意しておくに越したことはないと思ってね」
彼の説明に、私は納得した。恐らく、私より先にここについて周囲のひとびとと話をしていた彼は、彼女に関するそうした話題を耳にしたのだろう。ここは素直に聞いておくべきか、と思い、私は頷いた。
「なるほど、そうするとしよう」
答えると、ようやくブルーノは笑顔を見せた。隣のタチアナも、つられて安心したような笑顔になる。それを眺めながら、私は視線を会場に走らせた。
今夜開かれているのは、舞踏会だ。この季節、どこの貴族の家でも一度は舞踏会が開かれるため、毎夜のように貴族たちは夜出かける。
私は親しいひとや縁戚関係のある家以外に訪問することはしない。そうしなければ、ただでさえ催しが押し寄せてくるというのに、体がいくつあっても足りないからだ。
天井からつられたシャンデリアがホールを照らし、脇で休むひとびとのために軽食と椅子が用意されている。遠くでは、連日連夜休みなしの楽隊が疲れた顔で馴染みの舞踏曲を奏でていた。
何とはなしにそちらを見ていると、――来た!
私は急いで、ぞわりとした方向を見る。と同時に、ブルーノとタチアナに言った。
「いたぞ、ふたりとも、あの娘だ」
「えっ! どこ、見えないわ。もう、人が多すぎるのよ」
不満げに言いながら、私の指した方向を見るふたり。私も懸命に探した。だが、一瞬こちらを捕らえていたはずの瞳は、あっという間に周囲の風景に溶け込み、見えなくなってしまっている。
「どんな服装だった? せめてそれだけでもわかれば」
「確か、目立たない薄い緑色のものだ。髪は、確か金色だったと思う……飾りは控えめで、これといって特徴が見当たらないな」
言いながら、どこまで地味なんだとイラついてきた。
会場を見渡して見れば、若い娘はここぞとばかりに流行を取り入れたり、自分独自のファッションを追及していると言うのに、件の娘は徹底的に埋没するものを身につけているのだ。
もっとちゃんと主張しろ、と普段思っている事と真逆のことを思う。
すると、再びぞわり、と首筋の毛が逆立つ。
そちらに視線を向ければ、いた。遠目だから、はっきりとは捕らえられないが、淡い金色の髪に、薄緑の品の良いドレス姿の少女がこちらを見ている。
彼女はそれに気づくと、慌てて目を反らして人の中に消えてしまった。
私は舌打ちしたい気分で、その後を追う。
あの金の髪、目に焼き付けた。
今宵こそ、居心地の悪い思いをさせてやるという思いで進む。すると、ブルーノが問うてきた。
「いたのか?」
「ああ、こっちだ」
答えると、私は再び金の髪を追う。地味な外見に反し、きらきらと艶めく美しい蜜色の髪だった。一度目にしたら、早々忘れない。良い手がかりを得たとばかりに、人のなかを進む。
すると、横から声がした。
「あら、早速わたしを追って来てくれたの?」
バイアーノ男爵未亡人だった。困惑した私の腕に、自分の腕をやわらかく絡め、上目がちに問う。
「ああ、いや。知人を見つけたので声を掛けようとしたんだ。すまないが離してくれ」
「何よ、つれないのね」
怒ったように言うと、彼女はさっさと離れてくれた。どうやら私は相当失礼な態度を取っていたらしい。だが、そんなことは問題ではなかった。
私は人の波に目を凝らし、小さく呻いた。
――しまった、見失った。
再び視線を投じた先に蜜色の髪はすでになく、緑のドレス姿の娘はこつ然と私の視界から消え失せてしまっていた。