侯爵子息、見られる
このお話は、ジェレミア視点による前日談です。彼がどのようにしてロレーヌに告白するに至ったかまでのお話となります。本編より少しシリアス。また、不定期更新となります。
結婚。
考えただけで頭痛がする言葉だ。
なぜなら、ここしばらくの間、その言葉にずっと悩まされ続けているからだ。いずれはしかるべき家柄の令嬢と結婚しなければならないことはわかっている。
領地と爵位を継ぐ者は、次代へと繋げていく義務がある。そのためだけに結婚するものとているのだ。愛がないことなど、貴族社会では当たり前のことだった。
もちろん、例外があることはわかっている。自分の両親や、幸せそうな姉を見ていれば、愛による結婚が存在しないなどとは言えない。
そんな奇跡にも近い僥倖が、自分の身にも訪れてくれるなど、到底信じられることではない。少なくとも、私、ジェレミア・カスタルディはそこまで楽観的な人間ではなかった。
ならばせめて、人柄だけは良い娘にしよう、そう決めていた。選ぶ時間はまだまだある。私はまだ差し迫って結婚しなければならない年齢ではないからだ。
だが、結婚適齢期の娘を持つ母親たちは私のそんな事情などおかまいなしに、自分の娘を押しつけてくる。それも仕方がないと思う。
私は将来侯爵家を継ぐことが決まっている人間だ。
結婚相手として、これ以上ない相手なのである。
しかし、私はまだ結婚する気はなかった。時間に猶予がある以上、花嫁は自分の力で見つけ出すと決めていたからだ。
だからこそ、ここから早く引き払いたいと、抜け出せる瞬間を虎視眈々と狙っていた。
現在は初夏。
すでに国王陛下と王妃、王太子殿下、王女殿下に挨拶を済ませ、社交の季節真っ盛りだ。父は挨拶を終えてすぐに領地に引きこもり、管理の仕事に忙しい。
私も出来ればそちらを手伝いたいと思っていたのだが……。
「だめですよジェレミア、この時期の催しに参加しておけば、後々になって役立つ事もあります。より良い花嫁を探すのにも、どんな女性がいるのか知っておかなければ周囲の言いなり。もちろん、わたしが探して勧めても良いでしょうけど、それじゃあ貴方は納得しないでしょう?
何より、きちんと選んだ女性と添えない場合、後で良くない行動につながる可能性もあるのだから、人を見る目を養う特訓だと思っておきなさい。
何も女性とばかり付き合えとは言っていません。議員としての役割もあるでしょうし、議論を戦わせても良いのです。他の貴族や資産家たちとの繋がりを培うために、遊ぶのも良いでしょうよ」
早く帰りたいとぼやいた私に、母は延々と社交の必要性を述べた。
全てに一理あるため、私は何も言えなくなり、頷いた。実際、試練のようなものだ。これが将来役立つのなら、多少の不快な事には耐えるべきだろう。
だが、私はいい加減イラついて来ていた。
現在私が訪れているのはベッカリア子爵夫人が催した夜会だ。貴族だけでなく、資産家や大地主らも集うゆるやかな集まりだ。ここに招待されていたのは、アストルガ公爵夫人である姉のパオラだった。私はエスコート役についてきただけ。
その役目のほとんどが終わった時、まだ社交界にデビューしたばかりの若い娘とその母親たちがこちらを見た。私は嫌な予感がし、姉に断って食事のテーブルへと避難することにした。
給仕の運ぶ皿から酒を取り、何か美味しそうなものはないだろうかとテーブルにざっと目を走らせる。つまみやすいよう工夫された色彩豊かな食べものが並んでいる。
王都があるのは内陸だが、各地から様々な食材が運ばれてくるが、そうした中には外国の珍しいものもあった。特に乾果実や菓子類が好まれている。こうした集いでは、そうした食品が供されることが多い。
そうした品を提供できる財力がある、と周囲に示せる良い機会だからである。
私はそれらを眺めるふりをしながら、母親とその娘たちが自分以外を標的にし始めたのを見て、ほっとした。それから皿を手に、いくつかの食べものを取る。これを食べたら帰ろう。そう思いながら、適当な椅子を見つけて、腰を下ろし、口に運ぼうとしたその時。
背すじがぞわり、とした。
「……何だか、見られている気がするな」
つぶやいて、その悪寒の原因を探るためにあちこちに視線を移動する。やがて視線の主がわかった。
若い娘だった。
どこまでも地味としか表現しようのない服装に身を包み、ひっつめにした髪には申し訳程度に飾りがくっついている。体格は小柄で、すらりとしているがそれだけだ。
良く見ないと見過ごしてしまいそうなほど、地味だった。
ただし、例外がひとつだけ。
その地味娘の目は、きらきらと嬉しそうに輝いていたのだ。口もとは笑みにほころび、一目でわかった。恋している目だ。
私は思わず顔をしかめた。
なぜなら、彼女の視線の先にいた人物こそ、この私に他ならなかったからだ。
「また顔か……いい加減にしてくれ」
呻くようにぼやいて酒を一気にあおる。苛立ちが心を支配しているのがわかった。さっさと退散するのが良さそうだ。恐らく、彼女は私の外見に惹かれてこちらを見ているのだろう。もしも、どこかの親切という名のおせっかい焼きが彼女に、あれはカスタルディ侯爵の子息だと告げたらどうなる?
その結果が何を産むか、わからない訳がなかった。
私はその視線から逃れるために大急ぎで食事を済ませ、姉に断りを入れると夜会の場を立ち去った。
◆
数日後。
「一体何なんだ! 不躾にもほどがある」
私は書斎で苛立ちをぶちまけていた。父が不在なため、この家の書斎は私が自由に使っている。ここで、手紙を書いたり、本を読んだりする時間が最も幸せだった。
だが、今は違った。
手に持った琥珀色の液体をぐっとあおり、胃が焼けるような感触にしばらく身をゆだねてから、吐き出すように言う。
「君の気持はよくわかるが、酒はゆっくり楽しんだ方がいいぞ? 体に悪い」
書斎にいたもうひとりの人物が苦笑した。彼は私の寄宿学校時代からの友人で、父親が早くに亡くなったため、現在ではグリマーニ伯爵となったブルーノである。
金色の髪に、端正な顔立ちをした彼は、昨年までは私と同じ立場だった。
伯爵であり、外見が優れた若者であった彼もまた、私と同じく娘を押しつけられる良い標的だったからである。そのため、こうして互いの家を行き来しては、愚痴を言い合っていた。
だが、彼は今や既婚者だ。
昨年、どこから見つけてきたのか、驚くほどの美人の令嬢と結婚したのである。社交界ではあまり見ない顔だった。話を聞けば、父親のせいで貧しい暮らしを強いられていたのだという。
しかも、ちゃんとした恋愛結婚。
私は内心羨んだ。
そうそう手に出来るものではない女性を、彼は手にしたのだから。私には、手に入るかどうかもわからない存在。羨ましくない訳がなかった。
「わかっているさ、だが、いい加減うんざりだ。私は今日こそ領地に帰りたい」
「レディ・カスタルディが許すとは思えないね。それに、別に何か危害を加えられた訳じゃないんだろう、いいじゃないか、眺めるくらい」
「最初はそう思った。だが、あまりにもじろじろと真っ直ぐに眺めてくる上、こちらが見ようとしても気がつけば消えているんだ。
顔を確認出来たのは最初だけ、それもあまり良く覚えていない」
苛々しながら、私はまた酒をあおる。
ブルーノは「ははあ」と訳知り顔で笑った。
「要するに、自分だけ見られているのが気に入らないんだな」
「当然だ。見てくるからには、こちらにも見る権利くらいあるだろう」
「きっと恥ずかしいのさ。僕の知り合いの女性たちは君にほほ笑まれたら気絶するだの何だの言っているから、きっと見られたくないんだよ」
馬鹿馬鹿しい。
内心そう思ったものの、口には出さずに、私は嘆息した。