期待に揺れて
一方のわたしはといえば、今すぐ消えてしまいたい衝動に駆られていた。
ああ、透明人間なれたらいいのに。と言うか、まさかこんな風に公表するとは思ってもみなかった。てっきり、ひとりひとりに挨拶しつつ、婚約者ですと紹介していくものだとばかり思っていたのに。
こんなに一斉に注目の的のなるとか、本気で精神が霞になって消えそうな気分だ。
何てことするんだ、と言いたげにジェレミアを見れば、ひどく満足そうな笑みを向けられる。今までに見たことがない、してやったりという笑顔だ。
飛び交う祝福の言葉と、乾杯の音の中、ゆったりと円舞曲が奏でられはじめる。
ジェレミアはその笑顔のままに、わたしから一旦離れて言った。
「私と踊っていただけますか?」
何だか罠にはめられたような気がするが、彼の誘いを断ることなど出来ない。
いつまでだって、この顔を見つめていたいくらい、その声をずっと聞いていたいほど、彼のことが好きなのだから。わたしはふっと笑って、応えた。
「喜んで」
そのやり取りを目にしていた人々は、中央に出て行くわたしたちに道を開ける。まだ誰も踊っていない。わたしたちがその皮切りになるようだった。
注目の中、そろそろとステップを踏む。
まだそれほどうまく踊れないけれど、何とか必死で覚えた最新のダンスだ。
しばらくはわたしたちだけが踊る。
心臓は今にも爆発しそうだ。それでも、しっかりとリードしてくれる力強い腕に身を任せていれば、自然と動くことが楽しくなってきた。
曲が進むと、他の組も踊りはじめる。
タチアナがこちらに片目をつぶって、おめでとうと言ったのが見えたので、わたしは恥ずかしくなりながらうなずいた。
ドロテアとグリマーニ卿も加わる。他にも、カスタルディ家に滞在している間に仲良くなった男女や、仲の良い友人同士、地元の名士や政治家らの息子とその娘たちも加わってきた。
舞踏会はこうして幕を開けた。
わたしたちは何曲か踊ってから、輪を離れる。
用意されていた軽食をとり、飲み物でのどをうるおして体の熱が引くのを待っていると、ジェレミアがやや言いづらそうに話しかけてきた。
「その、君に話しておきたいことがあるんだが……少し外に出ないか?」
わたしは飲むのをやめ、そういえば自分にも言いたいことがあったのだと思いだした。緊張続きで忘れていたのだ。これは良い機会かもしれない。
「はい、あの……実はわたしも言いたいことがあるんです」
「そうか。それなら、庭に行こうか」
ジェレミアは一瞬戸惑ったような顔を見せてから、ホールの南側にある扉を示した。そちらから出るのが一番近い。大扉は常に解放されて、疲れた客や、喧騒から離れて話をしたい者たちが良く出入りしている。
わたしは、ジェレミアの差し出した腕に手を置いて、歩きはじめた。
こちらを見る目はあったが、おおよそふたりきりになりたいのだろうと思われているのか、誰にも声は掛けられなかった。
廊下に出ると、図書室や食堂を通り過ぎ、庭へとつづくテラスへと出る。
そこから、屋敷の外に広がる自然庭園が良く見えた。と言っても、今は夜。月が出ているものの、それほど良くは見えない。
ジェレミアはテラスを通り過ぎ、誰かが立ち聞き出来ないような場所へと向かう。
やがて、庭園の中を流れる小川に掛けられた石橋のところまで来ると、彼はようやく立ち止まった。まだ春の初めで、夜の風は冷たい。
わたしが小さく震えると、ジェレミアはすぐに気がついて、上着を脱ぐと肩に掛けてくれた。その自然な動作に、胸が締め付けられる。
「済まない、外套を持ってくれば良かったな。だが、建物の中では誰かに聞かれるかもしれないと思って……」
「いいえ、わたしなら平気です。ありがとうございます」
そう答えると、ジェレミアは少し安堵したような顔をしてから、咳払いをした。
「そうか、では手短に済ませよう。ただその前に、私は君に謝っておかねばならない」
「謝る? どうしてですか」
「先ほどの発表のことを含めた、これから話す全てについてだ」
彼の言いたいことが全く見えてこないので、わたしはただ首を傾げた。同時に、心を不安が覆っていくのを感じる。
もしや、婚約は間違いだったとでも言うのだろうか。
それとも、婚約や結婚に対して、何か条件のようなものがつきつけられるのだろうか。
ジェレミアはばつが悪そうな顔で、語りはじめた。
「私は、ずっと君を騙していたんだ。こうでもしなければ、君が素直に私との婚約に応じてくれると思えなかった……だが、早く手を打たなければ、カルデラーラ卿の弟のように、君の魅力に気づいてしまう者が現れるかもしれない。何とかしなければ、と思っていたところ、君の方からこの屋敷へやってきた。いくらでも近づく口実が出来た。
しかし、いきなり思いを告げたところで、君が信じるとは思えなくてね、だから、まずは他の者をけん制することから始めることにした」
遠くを見ながら、淡々と語る彼の言葉が、まるで愛の告白のように思えて、わたしは思わず目をそらした。期待と不安が入り混じり、どうしようもなく気持ちが乱れるのを感じる。
「正直、後であの言い方はまずかったと思った。なのに、君は私の申し出を受け入れてくれた。驚いたが、この機会を決して無駄にするまいと必死だったよ。
君は私の外見は好きだと言ってくれたが、私自身については何も言わなかった。それでも、外見を利用すれば、君の気持も揺らぐかもしれないと考えた。
だと言うのに、あの手この手で誘惑しても、贈り物をしても効果がない。けど、それが劣等感から来るものだとわかってからは、何としてでもその思い込みを捨てさせたいと思った」
風が微かに動き、ジェレミアがわたしに向き直ったのがわかる。
それから、両手を握られた。けれど、わたしは顔を上げられず、揺れる胸の内を抑え込むので精いっぱいだった。
「ようやく、君はその思い込みを捨ててくれたね……嬉しかったよ」
おかしい、これではまるで愛の告白ではないか。彼が穏やかに語っているのは、わたし(ロレーヌ)を丸めこむ苦労話だ。どういう意味なのか、わたしはついに我慢できなくなって聞いた。
「……あの、待ってください。それじゃあ何だか、わたしが好きだと言っているように聞こえます」
すると、彼は驚いた様子でわたしを見ると言った。