胃が痛い朝
「あ、少し待って下さい。わたしが出ますから」
声を張り上げて言うと、「わかったわ」という返事が返ってきた。わたしは鏡の中を覗き込んでため息をつくと、諦めてスツールから立ち上がる。
仕方がない、結い直してもらうのは後回しだ。
「じゃあ、朝食を摂りに行ってくるわね。後、おばさんにも伝えておくから」
「うん、お願いね」
「じゃあドーラ、ドロテアのことお願いね」
「はい、お任せ下さい」
ドーラの返事に頷き返すと、扉を開けて外に出る。そこにいたのは、タチアナとその夫のグリマーニ卿だった。珍しい訪問者だと思いつつ、今日も麗しい美貌を誇るふたりに、わたしはやっぱり見惚れてしまった。すると、タチアナは不思議そうに問うてきた。
「別に部屋の中でも良かったのではない?」
「あの、わたしの部屋はいとこと共用しているんです。彼女、今日は具合が悪くて、誰にも顔を見せたくないそうなので……」
「ああ、そういうこと」
言いながらタチアナとグリマーニ卿はゆっくりと歩き出す。一瞬顔を見合わせたふたりの雰囲気が妙に固い。そういえば、話があると言っていた。なのに、中々切り出そうとしない。何か言いにくいことなのだろうか……。
「あのね、実は……そのあなたのいとこのことで話があるのよ」
「ドロテアをご存知なのですか?」
「まあ、直接たくさん話をした訳じゃないけど、彼女とカルデラーラ子爵のことはもうこの館に滞在している人たち皆が知っているわ。それくらい熱々なの、わたしたちも遠くから見てちょっと恥ずかしくなったくらいだもの」
そう言って「ね」とお互いほほ笑み交わすおふたりさん。
個人的に言わせて頂けば、ドロテアとカルデラーラ卿も、あなたたちにだけは言われたくないと思う。四六時中べったりランキングがあれば絶対に一位なのはこのふたりだ。
「まあ、あなたとジェレミアには負けるけど。凄いわよね、あのジェレミアのあんなやにさがった顔なんて初めて見たわ。余程なのね……しかもずっと一緒、絶対に離したくないって言うのが如実に伝わってくるのよね」
やにさがった顔……だと?
そんな馬鹿な。もしかしたら、いつも冷たい笑顔ばかり見せていたジェレミアが、感情のある表情を見せるようになったことを示しているのだろうか。
そうでなければ理解不能だ。と言うか、彼がでれでれしている顔が想像出来ない。想像の範囲から超越して圏外だ。
だが、ずっと一緒にいるのは、絶対に離したくないと周りに思わせるためだと思う。なので、完全に成功したと言えるだろう。だが、正直ちょっと側にい過ぎじゃないかと思うことも多々ある。
何しろ、ジェレミアがわたしの近くにいる確率の高さと言ったらこっちがぎょっとするほどなのだ。気づくといる。ほとんどストーカーもいいところだと思うくらいいる。いくら恋人らしく見せるためでもちょっと大げさだよと突っ込みたくなるくらい……いる。
おや、いないなーと思って安心していたら、視界の隅に……いた。
あの時は流石にあの人遊んでんなーと思ったものだ。
などと思い返して生温かい気分になっていると、タチアナが慌てて話を軌道修正した。
「あら話がそれた、その話がしたかったんじゃないわ……話というのはね、カルデラーラ卿のことよ」
「彼がどうしたんですか?」
タチアナは言いにくそうにグリマーニ卿を見た。すると、彼がタチアナの言葉のつづきを引き取るように教えてくれた。
「実はね、彼が他のご令嬢と親しくしているのを見てしまったんだ。それだけでなく、恐らく遊びだとは思うが、海軍将校の格好をしていた。大したことではないかもしれないが、一応伝えておこうと思ってね……貴女のいとこが彼にどれほど心酔しているかは見ていればわかる。だが……」
「そう、このまま行ったら不味いかもしれないってこと、知っておいて欲しくて、ううん、もう知っているのよね? 具合が悪いということは、そうなんでしょう?」
「……はい」
わたしはうなずいた。嘘をつく理由がなかったことと、心配してくれた相手に偽りを言いたくなかったからだ。彼らには言っても大丈夫だと思ったが、ドロテアが嫌がるかもしれないと思って詳しい説明は避けることにした。
「良くある話、と言ってしまうのは簡単だけど、やはり傷つくものよ。何かわたしたちに協力できることがあれば言ってね」
「ありがとうございます、きっとドロテアも喜びます」
心からそう思った。ドロテアの顔が回復したら、彼らに紹介しよう、わたしはそう決めて、ふたりと会話しつつ、おばにドロテアの顔のことを告げてから食堂へと向かった。おばは心配しつつも、ドロテアは元気だと聞くと安心したようだった。
途中、髪型に気づいたタチアナにしきりと可愛い可愛いと褒められてしまった。もうこれ以外の髪型に結っちゃだめよと念押しされる始末だ。わたしは途方に暮れつつも、例え何を言われようとも意地でもひっつめに戻してくれるわと謎の決意を燃やしながら彼らとの会話を続けたのだった。
◆
食事が済んだ後はドロテアに頼まれた本を探すことにした。
髪型を変えた結果、何人かの紳士の視線をひきつけてしまったらしい。もちろん、令嬢たちの殺人光線の威力がいつもの倍なのは織り込み済みだ。彼女たちはわたしに殺人光線を浴びせつつ、ジェレミアやその他の若い未婚の紳士に秋波を送るのも忘れていない。
凄いなあと感心しつつも、何だか胃が痛い。
そのせいであまりたくさんは食べられず、泣きたい思いで食事を終えた。
そういえば、ジェレミアの笑顔がいつもよりも迫力があった気がする。あれは笑顔というより、裏の感情を隠すための笑顔だ。何だか怖い。どこを見ても胃にダメージが来るので、わたしはさっさと退散することにした。
何より、このままだと食後に令嬢たちにとっ捕まりそうだ。わたしはそそくさと席を立ち、図書室へ向かった。どんな場合も逃げるが勝ち、だ。わたしの座右の銘でもある。
図書室へつくと、すぐに本探しに着手する。何やらごちゃごちゃ注文をつけられたので、探すのが苦労だ。カスタルディ家の当主たちは代々知識欲が強かったのか、屋敷にある図書室は充実していた。棚は天井まで届き、様々な分野の書物が納められている。
脚立を使って本を探しつつ、息抜きに窓べりに行って外を見やる。外はやや曇りで、今日はちょっと肌寒い。これは散策出来そうにないなと視線を下へ移動した時だった。
アウレリオに似た姿が視界に入ったのは。
「カルデラーラ卿? でも、服装が違うわ」
あれがタチアナとグリマーニ卿が見たと言うアウレリオらしい。
彼は何やら若い令嬢たちと談笑している。ここから見た限りではあまりはっきりしない。とにかく楽しそうで、胃がむかむかしてきた。
ドロテアはあんなに苦しんでいるのに……。
けれど、なぜ服装がいつもと違うのだろう、そう思っていると、図書室に誰かが入ってきた。驚いて振り向くと、ジェレミアとパオラがいた。彼らはわたしを見ると顔を輝かせて歩み寄ってきた。すぐにパオラに袖を引かれる。
「ここにいたのね! 部屋に行ってもいないから探していたのよ。さあ来て、すぐ来て!」
「え? え? え?」
困惑しながらジェレミアを見やれば、楽しそうな笑顔が返されて、心臓が一回転して華麗に着地しそこねて転んだような衝撃に襲われる。朝食の席でちょっと会釈し合っただけだったから、今日は忙しいのだなと思って油断していた。
やはりこの顔面は凶器だと思う。
「舞踏会用のドレスが出来あがったそうだ。他の物はまだだが、そのドレスだけでもサイズを細かく合わせたいということで、マダムが来ていると伝えに来たんだ、それから……」
ジェレミアは言葉を紡ぎながら、わたしに手をのばして、わざと残しておいたおくれ毛に触れると、やや危険な色みを帯びた目で言った。
「この髪型、良く似合っているな」
向けられた挑むような目に、わたしは凍りついた。