母と娘で恐怖体験
そっと扉を開けると、客間に置かれた椅子に掛けていたおばと目が合った。暗がりに浮かび上がる白いふたつの目。わたしはぎょっとして、一瞬その場に立ちつくした。あの、もの凄く怖いんですけど。
しばらくして闇に目が慣れると、おばのふっくらした輪郭が浮かび上がり、わたしはホラー状態から解放される。
やっと見渡せるようになった室内を眺めると、テーブルには燭台があった。だが、ろうそくに火はついていない。
その手前には空の食器が置かれたままになっている。パン屑の散った台に、スープ皿と果実酒の瓶とグラスがふたつ。どうやらお酒を飲んだらしい。それを眺めているとおばが声を掛けてきた。
「戻ってきたのね。仲が良くていいことだわ……わたしの口添え効果も効いたみたいだし」
声は小さめだったが、わたしは思わず赤面した。さっきのやりとりが完全に聞こえていたようだ。うーわー、恥ーずーかーしーいー。まさに穴があったら入りたいという心境だ。
「……っ、……はい、口添え、ありがとうございます。えーと、それで、ドロテアは?」
「もう休んだわ。少しお酒を入れてね、それで、不届きものの様子は?」
どうやらそれを聞くためだけに待っていたようだ。ろうそくに火がついていないのは、ドロテアの眠りを邪魔しないためだと思われる。わたしはおばの側の椅子に歩み寄ると、そこへ腰を下ろして、さてどうしたものかと思いつつ切り出した。
「彼は、何だか思い詰めているようでした。もし騙すつもりなら、そんな風に落ち込まないと思うんです。気になったので呼びとめて、少し話をしました……彼は、それは自分ではないと、そのことをドロテアに伝えてほしいと言っていました」
「そう、でもそれが手管だったらどうするの?」
おばの拒絶に満ちた言葉に、わたしは考えた。今のおばには何を言っても無駄だろう。だが、このままお終いには出来ない。アウレリオの肩を持つ訳ではないが、それでも時間が欲しかった。
「そうですね、あの、おばさん、わたし、おばさんの助言を受けて、彼とドロテアのことをジェレミア様に相談したんです。そうしたら、彼の事を調べてくれると約束してくれました。今、ジェレミア様が色々と手を尽くして下さっていることを無駄にしたくありません。
ですから、少しだけ待って下さいませんか?
調べが済めば、彼がどういう人物なのかも良くわかりますから、結論も出しやすいですし」
懇願するように言う。ジェレミアをだしにするのは気が引けたが、今は他に手を思いつけない。おばはしばらく考えこむ様子を見せてから、ため息交じりに言った。
「わかったわ、ジェレミア卿が調べて下さるというのなら待ちましょう。まあ、結果は見えているような気がしますけどね、その間も、ドロテアはその男には近づけさせないようにしないとね」
「もちろんです」
「ふう、とにかく話が聞けて良かったわ。それじゃあ、また明日来るわね」
「はい、おやすみなさい」
おばは疲れたように立ち上がると、部屋を出て行った。
わたしはドーラを呼んで着替えると、すぐに寝室へ向かった。やっと休める。何だかここ数日忙しすぎやしないだろうか。ジェレミアと会ってからというもの、毎日がめまぐるしすぎる。
良く投げだしたくならないものだ、と自分を褒めてやりつつ、寝台へ横になる。
「く、あぁ~……ふ」
思わず大きな欠伸がもれた。
明日こそは少しでいいからぼーっとする時間を持てますように。わたしはそう願ったが、どうせ運命の神様は斜め上の方向に裏切るんだろうなと変な確信を抱きつつ、眠りについたのだった。
◆
翌日、隣の寝室に顔を出したわたしは、ドロテアの顔を見てまたしてもぎょっとした。
思わず「ひいっ」と声を上げかけて何とかとどまる。大丈夫、彼女はちゃんと生きている。
しかし、そのまぶたは腫れあがり、紫色に染まって、見るも無残な有り様だ。顔色は青白く、さながら幽霊のようで、髪からはツヤが完全に消え去り、着ている服が白いものだから、余計そう見える。
あまりに幽霊っぽいので、寝台に腰かけた彼女が振り返る際、ジェレミアに感じるのとは全く違う意味で心臓がひっくり返りそうになってしまった。
「……っ、ど、ドロテア、顔が凄いことになってるわよ」
「わかってる、さっき鏡見て自分で自分が怖かったもの。だからロレーヌ、今日は一日部屋にいることにするわ。そのことをお母様に伝えて来て欲しいの……それと、何か本を見つけてきて欲しいんだけどいいかしら」
「別に構わないけど、どういうものがいいの?」
「そうね、小説がいいわ、それも軽いもの、でも恋愛もの、それも悲劇だけは絶対にやめて。あと詩集も嫌、気分が悪くなりそうだから」
「う、うん……わかった、でもちょっと待ってて、支度しないと」
眠るための服装のまま来たので、何も支度出来ていない。
わたしはドーラを呼んだ。
彼女はすっかり目ざめていて、支度を始めながらも、今日来るかもしれないドレスについて楽しげに喋りはじめた。
「レディ・アストルガのお話をうかがう限り、きっと今までお召しになったことのない感じだと思うんですよ。ですから、今流行の、王女殿下が始めたという髪型にしたいんですよね。こう、ふわふわと、束ねているのにそう見えない感じの……」
「そんなのわたしには似合わないわよ」
「いいえ! 絶対に似合います」
ドーラは断言した。
ちなみに、彼女の言葉の中にあったレディ・アストルガというのは、パオラのことだ。彼女が嫁いだ公爵家の名前こそ、アストルガ。広大な領地と絶大な権力を有する大貴族だ。王家に令嬢を嫁がせたこともあるという名家である。
「ドレス、そうだ……ねえロレーヌ、もし届いたらドレスはここで広げたり試着したりするのよね?」
「うん、そうだけど」
「わあ、それは楽しみね、わたしにも見せてくれるでしょう」
「え、うん、ただ、試着したら最初に見せて欲しいとジェレミア様に言われてて」
そう言うと、ドロテアは微かな笑い声を上げた。
「そう、それなら彼に断ってからにするわね。それにしても、本当に羨ましいわね、ねえ、どうやって彼を落としたの? 令嬢たちの間では、氷の貴公子とかあだ名されていて、結婚相手としてとても理想的なのに、最も難攻不落な人物だと言われていたのよ。彼は爵位を継ぐまで結婚しないだろうとまで言われていたのに」
「そ、そうなんだ」
よもや虫よけ役を一生つづけて欲しい宣言されたとも言えず、わたしは考えあぐねた。そのせいで意識が他に行っていたらしく、ドーラが何やら勝手に髪型を変えていたことに気づかなかった。
彼女に「出来ましたよ」と言われ、鏡を見たわたしは思わず叫びを上げてしまった。
「ちょっ、イヤーっ! ドーラっ、何するのよーっ」
「ぼんやりしてらっしゃるからですよ、いいじゃないですか、可愛らしいですよ」
「あら本当、綺麗よロレーヌ」
ドロテアが鏡に映ったわたしを見て言うが、それどころじゃない。こんな目立つ姿で出て行ったら忍べなくなってしまう。忍ぶつもりがなくとも忍べるからこそ、令嬢たちの悪意が込められまくりな殺人光線から身を隠せていたのに。
こんなに目立っては実力行使されかねないではないか。
そう思いながら鏡の中を見やる。
困った、直してもらわなければ、と思っていたら、扉がノックされた。
「ロレーヌ、ちょっと話したいことがあるのだけど、入ってもいいかしら?」
扉の向こうから聞こえた意外な声に、わたしは驚いた。