疲れているのに……
行きの馬車では毒舌爆撃を食らい、仕立屋では失笑されたあげく、着飾らせても無駄だと悟らせるはずが、逆に完璧に丸めこまれ、帰りの馬車では徹底的にからかわれて心臓が危篤状態に陥った結果、館に帰りつく頃には疲労困憊だった。
また、あの会話後もジェレミアは謎の「可愛いのに」攻撃を続けてくれたので、わたしは己に向け、勘違いすんじゃねえええー(野太い声)と言い聞かせ続けなければならなかったから余計である。
ようやくへろへろ状態で部屋へ辿りつき、小間使いのドーラの努力のおかげで何とか着替えを済ませたわたしは、ややよろけつつ晩餐に出かけられる体勢を整えた。
疲れたけれどお腹も空いた。
きっと今日の疲れは素晴らしい料理人の料理が癒してくれることだろう。そう思えばちょっとだけ疲れが吹き飛んで、気力が戻った気がした。
同室のドロテアにも声を掛けたのだが、食欲がないと言う。
彼女を気づかう余裕がなかったわたしは「そう、じゃあまた後でね」と言って部屋を出た。
その途端、迎えに来ていたらしいフィオレンザおばとはち合わせてしまった。彼女は意味ありげにわたしの横に並ぶと、小声で本日の成果を報告しはじめた。
うわあ、疲れているのに勘弁して下さいという訴えは誰にも届くことなく、かくしておばは縦板に水のごとくしゃべりはじめた。
「ねえ、聞いてちょうだいな、ようやく今日、カスタルディ卿にお会いすることが出来てね、貴方の息子とわたしの姪はとても気があうようなのとほのめかしたのよ。
そうしたら、それは喜ばしいって言われたの!
貴女の姪ならば家柄も格式も申し分ないし、息子にその気があれば問題ないだろう。ただ、あまり性急に事を運ばずとも、社交の季節を待って、そこでもう少し様子を見てからにしようですって。全く、わかっていないわね、若いうちはそんなに待っていられないというのにねぇ?」
わたしは目を白黒させながらも何とかきちんと話を聞いた。
だが、展開が早すぎてついていけない。とにかく、急ぐなと言ってくれたカスタルディ卿には感謝しなくてはなるまい。
どういう人物なのかは詳しく知らないが、きっときちんとした方なのだろうと確信した。
「そんな、ですが認めて下さったことは嬉しいです。おばさんもありがとう、大変だったでしょう?」
「ほほほ、姪の結婚がかかっているのだもの、何てことはないわ。
それより、ドロテアはどうしたの? 晩餐なのに、まだ着替えているの?」
「え、ああ……声は掛けたんですが、食欲がないと言うので……」
「あら珍しい。ちょっと見てくるわ、ドロテア、ドロテア、どうしたの?」
おばは部屋の戸を開けるとずんずん寝室まで入って行く。
気になったわたしも後につづいた。すると、寝台に横たわるドロテアの姿が目に入る。何だか顔が青白く、苦しそうに見えた。
「まあ、どうしたの? 辛いのならお医者様を呼びましょうか。どこか痛むの?」
「ううん、いいの。ちょっと頭が痛いだけだから……ふたりは食事してきて」
弱々しい声がした。
いつも張りがあるドロテアの声からすれば、信じられないほどか細い声だった。流石に心配になり、わたしも引き返して近寄ると、言った。
「ねえ、とても顔色が悪いわ。具合が悪いのなら、やはりお医者様を呼ぶべきよ」
「お医者様は呼ばないで……でも、晩餐の後でいいから、ロレーヌに側にいて欲しいわ。話をしていれば、気分が落ち着くと思うの」
ドロテアが懇願するようにわたしを見た。その様子から、おばには話したくない事を抱えているのは明白だった。
「もちろんよ、いいえ、晩餐に行かないわ。だから今夜はここでわたしと一緒に食べましょう」
「だめよ、ふたりはちゃんと行ってきて。わたしは平気だから、お母様も、お願い」
「でも」
「お願いだから」
重ねて強く言うドロテアの声に、わたしはおばと目を合わせた。おばは首を横に振った。こうなったドロテアを説得するのが難しいことはわたしも知っている。
わたしとおばは渋々ながら、晩餐に向かうことを決めた。
「なるべく早く戻ってくるわね」
わたしはそう言い置いて部屋を後にした。
廊下に出ると、おばが「何か悩み事があるみたいね」とぼやいた。彼女も気づいたのだ。あれは流感や一時的な不調などではなく、気の病だということに。
「ロレーヌ、申し訳ないのだけど、あの子の話を聞いて、後でわたしにも教えてちょうだいね。親には話しにくいこともあるのでしょうから」
「ええ、お約束します」
わたしは心から請け合って、食堂へと急いだのだった。
◆
晩餐はやはり素晴らしかったが、いつものように気楽に味わうことは難しかった。早く戻ってドロテアの話を聞かなくては、と思えば思うほど、時間はのろのろと進んだ。
そのせいか、若い令嬢たちとその母親が向ける冷たい突き刺さすような視線は全く気にならなかった。最後のデザートが終わればお終いだ。全て済み、それぞれが好きな時間を過ごすために立ちあがり始めるのを見計らって、わたしは席を立ち、おばと目配せを交わす。すると、お願いねと言いたげなうなずきが返ってきたので、こちらもうなずき返した。
彼女はしばらくしてから部屋へ戻るのだろう。今夜はのんびりと何かを楽しめる気分ではないはずだ。早めに結果を伝えないと、とわたしは急ぎ足で食堂を後にした。
その直前、パオラやタチアナ、グリマーニ卿がゲームに誘ってくれたが、疲れたからと丁重に辞退した。彼らの残念そうなため息を耳にして、少し心が痛んだものの、今はとにかくドロテアのことが心配だった。
すると、後ろからついてくる気配がした。
早めに部屋に戻るひとが他にもいるのだろうと気にも留めなかったが、人気のない廊下にさしかかったところで、突然腕を引かれた。バランスを崩したわたしはそのまま後ろへ倒れる。尻もちをつくかと思ったのだが、その前に抱きとめられた。
顔を上げると、今日は嫌と言うほど見た顔が、外から差し込む淡い月光に照らされていた。
どっきりにまんまと引っ掛かった気分だ。
心臓が早鐘を打っている。
わたしは思わず怒った。
「な、何するんですか! 危ないじゃありませんか!」
「だからちゃんと受け止めただろう。ちょっと話をしたかったんだ、なのに君はさっさと行ってしまうから、こうして引き止めたという訳だ」
「他に方法があったはずでしょうに……わたしを早死にさせる気ですか」
「それは悪いことをした」
絶対にそうは思っていない口調でジェレミアは言った。わたしは後ろから抱え込まれた形なので、見上げていると首が反る。話しにくいので体勢を変えようとしたが、がっちりと抱え込まれていて動けない。
しかも、なぜこんな風にされているか理解できない。これは何かの遊びなのだろうか。
それとも、そんなにわたしをからかうのがツボに入ったのだろうか。
だとしたら迷惑だ。迷惑極まりない。
「離して下さい、急いでいるんです」
「何か用事があるのか?」
「そうですよ、いとこが寝込んでいるので、側にいてあげたいんです。ですから、離して下さい」
わたしが言うと、彼は名残惜しそうに離してくれた。
「それなら仕方ないな。話は明日にしよう……だが、その前にちゃんと言っておきたかったんだ」
今度はちゃんとき合うような形で、ジェレミアはまろやかな笑みを浮かべた。またしても初めて見る表情だった。わたしの呼吸は主の意思に素早く逆らって、一瞬止まってしまった。