(3)
デニスはすっ、と目を反らし、それまでの楽しそうな様子を一変させ、今度は困惑した様子で小さく答えた。
「お変わりありません」
「……そうか、いや、気にするな」
「申し訳ありません」
別に彼女に落ち度はない。ただ、嬉しさと苦悩に揺れているようだ。このところ、デニスはいつもそんな風なのだが、理由くらい簡単に察せられる。
つまり、ロレーヌと趣味が合って嬉しいが、そのせいで部屋から出なくなってしまったのではないかと悔やんでいるのだろう。
「いや、退屈しないで済んでいるようで良かったよ」
本当は、そろそろ外出させたいと思っていることは隠して言う。
「でしたらよろしいのですが」
「ああ、仕事の邪魔をした」
デニスは「いいえ」と答えつつ、それでも申し訳なさそうにしながら、茶器を片づけに厨房の方へと向かった。私はその背を見送り、さて、と呟いて扉を見た。閉じられたたった一枚の板の向こうが、なぜか遠い気がした。
私は頭を振り、気のせいだと言い聞かせて扉を開けた。
そして、しばらく悩んだ。
どう声を掛けたらいいのだろう。もう開けてしまった以上、何も言わないのは不自然なのだが、ロレーヌは何かを書いていた。
手紙だろうかと思ったが、どうも違うらしい。
まごついていると、向こうが先にこっちに気づいた。
「ジェレミア、戻って来たんですね」
「あ、ああ。……それは、何をしているんだ?」
「これですか? ちょっと、手記の足りないところを書き足したり、直したりしているんです。大事なものですから」
えへへ、と笑った顔は籠っていることの辛さなど微塵も感じさせない、幸せそうなもので、思わずこちらの気持ちもほころんだ。
本当を言うと、触れたい気持ちになったが、邪魔をしたくなくてこらえ、気を反らすために手元に視線を移す。
小さ目の、ロレーヌらしい文字で綴られた文章を追ううち、私はふとあることを思いついた。
「それが書きあがったら、本にしてみないか?」
「えっ?」
驚いた声を上げ、丸い目でこちらを見るロレーヌ。
「出版、とまではいかなくとも本にすることは出来る。頼んでみようか?」
「でも、そんなに大したものじゃないですし、わたしが読めればそれで」
「君の仲間たちは喜ぶと思うが。それに、恐らく資料としても重要性があると思うんだ。記憶持ちという存在について、私たちは知らないことが多いから」
私は畳みかけるように言った。
なんとなくの思いつきだったが、とても良いことのように思えてきたのだ。私にとって、記憶持ちを知ることはロレーヌを知ることでもある。
もっともっと、知らないことなどないくらいに、知りたい。
それに、やることが増えればさらに退屈を紛らわせられるだろうと思ったのだ。いくらロレーヌが自分で決めてこうしているといっても、辛い思いはして欲しくない。そんな思いで、返事を待つ。
ロレーヌは手記をじっと見つめ、やがて少し恥ずかしそうに小声で言った。
「……あの、でもまだ始めたばかりですし……」
「考えておいてくれないか?」
「はぃ」
少し不安そうに、困ったように頷く姿がなぜか愛らしく思え、そんな反応を見られたことに喜びを覚える。
ロレーヌはいたたまれなくなったように顔を反らし、手元の紙に集中しようと口を引き結んで、文字を睨み付けた。これ以上は邪魔だと思った私は、ふと積まれた本の山に足を向けた。
そのことに気づいたロレーヌが「あっ」と声を上げたが、構わず一冊手にしてすぐに山に戻した。
後ろから声にならない声がした気がしたので、私は当たり障りのない本を見つけて手にすると、近くの椅子に掛けた。
ここで、食事時を待とうと思ったのだ。
その様子を見ていたロレーヌは、安堵したようにまた作業に戻る。時々こちらを見るものの、以前のような緊張は見られない。
私がいることに、慣れてきているとわかった。
望むことがない訳ではないが、性急に事を運ぶつもりはない。ゆっくり、少しずつでいい、ロレーヌの中の遠慮と怯えが消えるのを待つつもりだ。
静かな時間が流れる。
私とロレーヌは、日が落ちて来てデニスとドーラが蝋燭を手にやって来るまで、ずっとそうして過ごしたのだった。
◆
翌日はパオラが気を利かせたのか、ハビエル祭用の衣裳作りをするために仕立屋を呼んでいた。私も同席しようとしたが、パオラが当日のお楽しみよと言って部屋から追い出されてしまい、珍しく暇になった。
「さて、どうしたものか……」
暇つぶしなどいつもは簡単だ。出掛ければ色々と楽しめるものはある。クラブへ行ってもいいし、厩へ行き、このところ鈍っていた体を動かすのもいい。
だが、ロレーヌにあの状況を強いている身としては、外出しての暇つぶしは気が引けた。かといって、思いつくのは読書くらいだ。
私は嘆息して、邸内をのんびり歩いた。
特に目的はないが、このところ忙しかったから気を休めるのもいい。
外は相変わらずの単調な色彩だ。雪こそかなり無くなったが、まだ花の頃には遠い。庭を散策すれば、あるいは可憐な小花を見つけることが出来るのだろうが、外套を取りに行かねばならない。
面倒だなと思いながら歩いていると、前方から「げっ」という品のない声がした。思わず足を止めれば、何かの材料を手にしたマルクが引きつった顔で私を見ているのに気づく。彼はしばし何か言いたそうにしていたが、やがて「失礼いたしました」と告げて去ろうとした。
しかし、私は呼び止めた。
「待て」
「……何か、ご用でしょうか?」
マルクは不審そうな様子でそう返してきた。
「何か、言いたいことがあるようだが?」
私が問えば、マルクはさも嫌そうに顔をしかめて、しばらく沈黙してから、目を反らして言った。
「はい、あります。ですが……」
「言ってみたらどうだ?」
すると、マルクはとんでもない変人を見つけたような顔をした。私は苦笑して、彼と顔を合わせたら言おうと思っていたことを率直に言った。