(81) 何だか幸せ
「大丈夫か?」
耳に心地よく響く声がし、わたしはのろのろとまぶたを開けた。
そこには想像通り、心配げな美麗顔があった。しばらくぼうっと眺めてから、気づいた。
わたしは今、部屋のソファにぐったりと横になっていたのだ。体には毛布が掛けられており、どうやら本気で寝ていたらしい。
起きないと。そう思って体を起こそうとすると、美麗顔の持ち主、ジェレミアがすぐさま手で制する。
「そのままでいい。それより、何かあったのか? 具合は? 医者はもう呼んだのか?」
「ああ、イエ、そこまでして頂くほどじゃないんです。ただちょっと疲れてしまって」
そう呟いて遠い目をする。
ジェレミアは少し間を置いてから、近くの椅子を持ってやって来るとそこに掛けて言った。
「何があったんだ? 辛くない程度に教えてくれないか?」
彼の問いに、わたしは少し迷った。
確かにとんでもなく疲れたが、別に大したことではない。それでも、ジェレミアの真摯な目と、少し前に言われた言葉を思い出して、言ってみることにした。
「あの、もうご存知だと思いますけど……」
わたしは元パオロ、つまりマルクがここへ来たことから話し出す。案の定知っていたようで、不快げに眉をひそめたが何も言わずに先をうながす。
時々、話の邪魔にならない程度に相槌をうつが、それ以上何も言わない。おかげで、面倒な話もスムーズに進む。
あのあと、ルチアの話はもう少しつづいた。だが、マルクについての感情とエミーリオに対する感情の違いについて話されてもひたすら困る。何より、エミーリオという男に対する認識を改めさせたいと思うのだが、奴への思いが彼女の失恋と裏切られた心の痛みを癒してくれていることもわかっているので、何も言えない。
そんな感じてストレスを感じつつ、今度は恋と愛の差についての自説披露が始まってしまった。
終いには「わかりますよね?」という同意まで求められたが、さっぱりわからなかったので曖昧に濁すしかなく、やっぱりストレスが溜まった。
それでも終わらなかったので、精神的に疲労して頷き人形と化しつつあったわたしに気づいたパオラが話題を変えるために、ハビエル祭用に用意するドレスの話を切り出してくれた。
どうやらルチアがパオラを探していたのもそのことについて話をしたかったかららしく、すぐに話題が変わってほっとしたのもつかの間、案の定わたしも巻き込まれ、やれドレスはどれがいいだの、この季節らしい装いはどうだの、色はこれじゃなきゃだめだの、とけなされたり褒められたりしつつ、何とか及第点をもらうことは出来た。
まあ、疲労感もたっぷりもらった訳だが。
とはいえ、パオラが満足そうだったしルチアも楽しそうだったので、意味はあったといえる。
それでも疲れた。
本気で疲れた。
しかも途中でマルクがこっそり新しい使用人服を見せつけに来るものだから余計だ。
パオラとルチア気づかれたらと思うと胃が痛かった。
「というようなことがあったんです。ね、下らないでしょ?」
「いや、大変だったな」
掛けられた労いの言葉に、わたしは目を瞬いた。
「こうやって話を聞く度に、私が側にいられれば良いといつも思うんだが、そうはいかないことも多い。だから辛い時は無理せず、休んで欲しい」
「でも、この程度のことで……」
「いや、板挟みは疲れるものだ。私だってそうなんだから、君だって疲れて当然だろう?」
「それはそうですけど。わたし、もっと強くなりたいんです。だからこんなことじゃだめで……なのに、うまく行かなくて、弱いままじゃ、また何か諦めなきゃならないのに……」
そこまで呟いてやめる。
これだと完全な愚痴だ。
こんなことを言ったって意味なんかない。
確かに色々とストレスは溜まっていたわけだが、そんなの言い訳だと思う。この話だってあまりに下らないので、ジェレミアにはするまいと思っていたのだ。が、帰って来た彼に心配され、つい色々と言ってしまった。
声があまりに優しくて、目に浮かぶ光が穏やかで。
心配かけたくなかったのに。
――心配してもらえて嬉しいなんて……。
ちょっと自己嫌悪に陥っていると、ジェレミアはなぜか嬉しそうな顔で近くに来た。
戸惑っていると、つと手が伸びて来て頬を軽くつねられる。
少し痛くてくすぐったくて、思わず不満を漏らす。
「もう、何するんですか?」
「嬉しいから」
何だそれは。どういうことだ。嬉しいとどうして頬をつねられるのだ。わけがわからずジェレミアを見ると、嬉しくてたまらないような、とても大切なものを見るときのような顔をしている。
瞬間、心臓に多大なるダメージが来た。
大分慣れてきたと思っていたのに、横になってて良かった。もし椅子に座っていたら落ちていそうだ。
そんなわたしに、ジェレミアはそっと言う。
「ようやく、ちゃんと弱音を言ったな」
「え?」
とんでもなく嬉しそうな彼の口から出た言葉に、わたしは困惑した。弱音、今まで言ったことなかったっけ。言っていたような気がするんですけど……。記憶を探ってみるが、なぜか怒られた記憶ばかりぞろぞろ出てくる。
ここしばらくわたしがジェレミアに言ってたのって、もしかしたら謝罪ばかりだろうかと思うといたたまれないが、それは置いておいて、ちゃんと弱音も吐いていたと思うのだが。
「そんなはずないです」
自信がないまま答えると、ジェレミアは首を横に振った。
「いいや、君は確かに相談はしてくれたし、頼ってもくれた。それでも嬉しかったが、少し心配していたんだ。いつも努力しているのが私のためだということはわかっているが、ほどほどにしてくれ」
「で、でも……」
それでは、いつまで経っても彼にふさわしい人間になれない。容姿にも、社交術にも、その他何か輝く部分がないわたしが出来ることは、努力するしかないではないか。
ほどほどにしていたら、ジェレミアは遠いままだ。
そんなのは、悲しい。
「大丈夫。私は側にいるから……そのために婚約したんだ。そんなに頑張らなくてもいい。無理してまで私のために何かしてくれる必要はない」
優しい言葉だ。
思わず泣いてしまいそうになるが、こらえる。泣いたら、止まらなくなりそうだったから。




