(80) 心配だ
マルクが戻ってきたことは素直に嬉しい。
あの王子殿下に対しても、全力で感謝を伝えられそうなくらいだ。
それに、みんなの能力がきちんと評価されていることも、やっぱり嬉しい。実際にはどうであっても、そう思う。
それはマルクにおいても同じことが言える。
けれど、それとこれとは話が違う。
ルチアにとっては、あまり会いたくないだろう人物と、側にいて学びたい人物が同じ邸にいるという状況になってしまっているのだ。
彼女のことを思うと心配で仕方ない。
なんでこんなにうまくいかないんだろうとわたしは思った。
「まあ、そんな訳だから。これからは本当の名前で呼んでよ」
「う、うん」
そんなわたしの内心を知ってか知らずか、マルクはどこか安堵した様子だ。
「ああ、やっと本当のことが言えたよ。ずっと偽名で呼ばれるのって何か落ち着かなくてさ」
「そうなんだ」
「そうそう、最初の頃はこの名前にも慣れなくて、向こうでの名前を憶えてたからさ」
「わたしは忘れちゃってたから、そういうのは無かったよ」
マルクは「そうかあ」とぼやくように言ってから、不意ににやりと笑った。
「こっそりでいいから、ロレーヌの向こうでの名前とか教えてほしいな。その様子だと思い出してるんだろ?」
「そうだけど……」
そんなの知ってどうするのだ、からかうつもりじゃないだろうなと警戒していると、耐えきれなくなったパオラが文句を言いたそうな顔になった時だった。
控えめに扉がノックされた。
「あのぅ、ここにレディ・アストルガがいらっしゃると聞いたんですけど……」
外から聞こえてきた遠慮気味な声に、わたしの顔が凄い速さで引きつる。よりによってなぜ、と思わずにはいられない。
声の主は、ルチアだった。
わたしはパオラを見やる。彼女はそれまでの文句を言いたそうな顔から一変、何かを案じているような表情を浮かべている。
「どうしましょう?」
「……黙っていてもいつかはわかってしまうことよ」
パオラはいつもの彼女らしい、きっぱりとした口調でそう断じると、わたしの返事を待たずに扉の向こうに声を掛けた。
「入っていらっしゃい」
すると、そっと扉が開き、おずおずとした様子でルチアが部屋へと入って来た。わたしはその瞬間、そっとマルクを見やる。彼はどこなく気まずそうな顔をしていたが、特に動じている風でもない。もしかしなくても、最初からこうなったときのことを考えていたのだろう。そうとしか思えないほど、彼は落ち着き払っていた。
「あの、ごめんなさい。お客様がいらしていると聞いたんですけど、どうしてもお話ししたくて」
ルチアはそこまで言って、ようやく「客人」に目を向ける。途端、何か汚いものを見つけような顔になった。
わたしは何か言わねば、と思って口を開く。しかし、ルチアは嫌悪感にじみまくりの表情を一瞬で消し、優雅に微笑んでみせたではないか。
思わず何が起こったのかと何度も瞬いてしまったくらい、それは見事な変化だった。
「ああ、お客様と言っても新しい使用人でしたのね。それで、もうお話はお済みになりましたか?」
「ええ、もう終わったわ」
パオラはようやくこれで厄介払いできるという本音を微塵も隠すことなく大輪の薔薇よろしく笑んだ。それを聞いたルチアもまた、咲き染めの薔薇のごとくはにかんだ笑みを隠さない。
わたしは何も言えなかった。
マルクの方も言葉を発することはない。というか、この状態では無理だと思う。いくら心臓に毛が生えていそうな彼であっても、無理だ。
「では、早速仕事場に行きなさい。あなたの部屋などの細かいことはメイド長に聞くと良いでしょう。知っている者たちばかりだから、気兼ねはいらないわね?」
「はい、かしこまりました」
マルクは気圧されたように返事をし、ちょっと残念そうな顔をわたしに向けると、おとなしく退室していく。
ルチアはと言えば、扉が閉まると同時に笑顔のままそちらを見る。笑顔なのに、わたしには何だか睨みつけているような気がした。
しばらくして、その気配が遠ざかるのを確認してから、わたしは恐る恐る訊ねてみた。
「あの、ルチア、大丈夫?」
「大丈夫って何がですか?」
「いや、だって……会いたくなかっただろうし」
恋して、その上裏切られた相手である。
気分が良かろうはずはない。わたしだってそんなことされたら二度と顔など見たくない。
が、ルチアは笑顔のまま言った。
「確かに見たくなかった顔ですけど、もうどうでもいいです」
わたしはその言葉に目を瞠った。
ルチアの可愛らしい顔をまじまじと凝視する。少しでも未練のようなものがあればわかるほどに。
だが、そういった暗い感情を、彼女からは全く感じ取れない。
心底どうでもいいのだとわかった。
「だって、あれは気のせいだったんですから。だってわたし、わかったんです」
「な、何が?」
「本当に人を想うということがどういうことか、ですよ。わたし、それがようやく理解できました。だからわかるんです。あれは恋じゃなかった」
きらきらとした目で遠くを見て語るルチアに、わたしは閉口するより他なかった。
少し苦しげに、でも幸せそうに笑う彼女の周辺に、なぜか光を浴びて輝く花々が見える気がする。その光景はとても絵になっており、わたしが画家だったらなんとしてでも絵に閉じ込めたいと願うだろう。
しかし、わたしは絵はへたくそだし、ここには写真機やその機能を持つものはない。
それよりなにより、これまでルチアがしてきたことが脳裏をとんでもない速さでよぎっていてそれどころじゃなかった。
思い返せば、ルチアはマルクを尾行したり、仲良さげなわたしに全力で嫉妬して不当になじってくれたりしたのだが、あれが恋じゃなかったら何が恋なのだろう。
ついでに、ルチアが言っている本当に想う人が誰だかすぐに想像がつくだけに、いたたまれなさしか感じない。
「だから、どうでもいいんです」
そんなわたしの内心を知らず、ルチアはとっても綺麗な笑顔でそう言ったのだった。




