(79) パオロの秘密
あのパオラが、どんなときでも悠然とした態度を崩さない彼女が苛立ちを隠せないでいる。
あまり見られない表情なので、わたしはつい見入った。
すると、パオラはため息をついて言った。
「どういうことか説明してちょうだい」
低い声で問われ、パオロではなく、わたしの方がびくっと震えてしまう。一方質問されたパオロは特に怯えるでもなく、肩をすくめてみせる。
「どういうことも何も、そこに書かれている通りです。しばらくの間、またこちらで働かせていただくことになりました。職場は違いますが、決して奥様にご迷惑はお掛けしません」
それだけ言うと、パオロは立ち上がって頭を下げる。
「よろしくお願い致します」
そんなパオロと手に持った紙を交互に眺め、パオラは首を横に振って、額に手を当てる。信じられない、とでも言いたげな仕草だ。
わたしは、その紙に何が書かれているのか気になったが、なんとなく口を挟めず事態を見守る。
「それで、なぜあなたがトマスの許可を得られたのかしら。あの人がわたしに相談もなくこんなことを決めるとは思えないわ。どんな手を使ったの?」
鋭いパオラの声に、わたしはもしやと思った。
彼女がこれほど苛立っているのは、アストルガ公爵がこのことを独断で決めてしまったからではないのだろうか。
まだ確信が持てないが、そんな気がした。
「恐らく、殿下に腕を振るう機会を頂けましたから、それが理由でしょう。いきなり王宮勤めには出来ないから、しばらくアストルガ公爵に預かってもらうよう取り計らって下さいました。元々いた場所の方が受け入れられやすいだろうと」
「……そう」
パオラは今にも紙を引き裂きそうな様子だ。
声を掛けにくいにも程がある。どうしようかと思っていると、パオラはどこか諦め交じりのため息をついて、ぽつりと言った。
「こうなった以上、わたしが何を言っても無駄だもの。それなら、殿下が評価したと言うあなたの腕を利用することにするわ。
マルク・キュフナー、これから、週に一度は新作の料理を作りなさい。デザートでもいいわ。その料理でわたしを満足させられたら、あなたを料理人として認めてあげましょう」
「光栄です」
何やらふたりの間に火花が散っているような気がするんですが、気のせいですかね。
などと内心思いつつ、わたしはパオラが言ったことが気になっていた。しかし、到底口を挟めるような状況でもないので、とりあえず、
ひとり言のように疑問を口にしてみる。
「マルク・キュフナー?」
そう、パオラは確かにそう言った。
しかも、パオロに向けてだ。どう考えても、それは人の名前だと思うのだが……。
「ああ、それ。俺の本当の名前」
「……は?」
すると、パオロがあっさりとそう言った。いや、今彼の言ったことを反映させるなら、マルクだろうか。
なんだか頭が混乱する。
訳が分からない。
そんなわたしに向け、彼は笑顔で告げた。
「パオロ・ヒュブナーは偽名。それだけじゃない、俺、本当は隣の国の生まれなんだ」
さらなる秘密をなんてことないような様子で教えられ、わたしは言葉を失った。困惑極まってパオラを見れば、どうも本当らしい。もしも嘘だったら、今頃パオラは呆れた顔をしているはずだろう。
わたしの思いをくみ取ってくれたのか、パオラはにこにこと楽しそうにしているパオロ、いやマルクを一瞥してから言う。
「本当みたいよ。殿下の部下が調べたみたい」
手元の紙に目を落とし、パオラは至極どうでもよさげだ。まあ、そうだろう。パオロ、じゃなくてマルクの情報など彼女にとっては何の意味もないだろうし。
「しかも、隣国ではそこそこ有名だったようよ。公爵家に勤めていたようだけど、良く王宮の料理人に招かれていたと書かれているわ。実際はどうだかわからないけれど……でも、赤毛で容姿端麗で、面白い料理を作る男がいるってうわさなら聞いたことがあるわね」
思い出したように言ってから、パオラは小声になった。
「どうせならそのままお隣でもてはやされていれば良かったのに」
わたしは微妙な気分でそれを聞かなかったことにした。
一方のマルクは相変わらず楽しそうだ。
「それはそれで楽しかったんですけどね、でも、知り合いの記憶持ちの紹介でカッシーニさんと知り合って、この国には変わった記憶持ちがいるって聞いたから、思い切って来てみることにしたんですよ。だけど、長く滞在するには色々と面倒で……フロースランド人を装った方がいいって言われましたから、ならそうしようと」
爽やかな笑顔で、さらりと言う内容じゃないだろ、と心の中で思っているとマルクはこちらを見て、続きを話し出す。
「そこで、名前も変えた方がいいということになってさ、でも、どうしたらいいか迷ったんだ。色々考えたんだけど、面倒になってきた時に奥様の名前を見て、これでいいやって。けど、良く呼ばれる姓は似たようなのを探したよ」
「……そういえば、似てるね」
なんとなく疲れを感じながら呟く。
言われるまでそれほど感じてはいなかったが、確かにパオラと似ているような気はしていた。基本的にどうでもいいことなので、気にもとめていなかったが、理由があったとは。
それでも、どうでもいいんだけど、という感想を抱きつつパオラを見れば、とても不愉快そうな顔をしている。
彼女の気持ちはわからなくもない。
わたしは小さくため息をついて、慣れるまで面倒そうだなと思いつつ、すでに浮かんでいたもっと面倒そうなことを考えた。
それはもちろん、ルチアのことだ。
ルチアはわたしと同じときに帰る予定のはずなのだが、本人はもう少しパオラに学びたい様子を見せている。
けれど、こうなった以上、早めにここを出て行った方が良いのではないだろうか。
マルクがここで働くということは、当然住み込みということになる。中には敷地内に家をもらったりしている使用人もいるにはいるが、とても少ない。
通いで来る者もいるにはいるが、やはりこちらも少数だ。ということは、必然的に顔を合わせることになる。もしルチアが残ると考えると、わたしは頭が痛くなってきた。




