(77) 歩み寄る
真っ白になった頭で、抱きしめられたまま身じろぎもせずにいると、ジェレミアはやはり不満そうな口調で告げた。
「私を有頂天にさせてどうする。大体、君はそう言わないとすぐに距離をとろうとするだろう?」
「へ?」
そんなことをした覚えはない。わたしはすぐに反論した。
「そんなことしてません」
「ああ、そうしようとしてくれているのは知っている。だが、恐らく無意識なんだろうな、側にいろと言わないと離れているから、油断できないんだ。身体の距離だけじゃない、気持ちもだ。私は、もっと近くにいたい」
――こんなに近いですけどっ!
そう内心悲鳴を上げるが届くわけもなく、わたしは黙り込んだ。
「もっと、本音を聞きたい」
耳のすぐ側で発された声。それを聞いてわたしはようやくジェレミアの言いたいことがわかってきた。けれど、それがすぐにできるようになるとは思えなかった。
ジェレミアのことは信頼している。
でも、難しいと思った。
それを察したのか、ジェレミアは少し体を離して静かに言った。
「急がなくていい。だが、覚えておいて欲しいんだ」
「……わかりました」
そう返事しつつも、わたしは自分がどうしてそんなことになっているのか、原因があるとしたらそれは何なのか考えた。
けれど、自分でも気づかなかったようなことだ。すぐに答えが出るはずもない。
「いや、私こそ突然済まない。それより、今日も姉さんに呼ばれたんだって?」
「あ、そうなんですよ。これから必要になるからって、でも、ちょっと多くて、何だか申し訳ないなあ、と」
「気にしなくていい。むしろ好きにさせた方が彼女も喜ぶ」
ジェレミアはそう言ってから、ちょっと口の端を持ち上げて笑う。
「私としてもその方がいい」
「どうしてです?」
「今日みたいなことがあったとき、彼女が側にいてくれれば安心だからな。私がいつもついていられればいいが、そうはいかないから」
それから低い声で「何事もなくて良かった」と言われ、わたしは胸の辺りがじんわりと温かくなったような気がした。
気づかわれることが嬉しくて、自然と顔もほころんでしまう。
それだけじゃない。
さっきジェレミアは、わざと話題を変えてくれた。わたしが困っていることに気づいていたのだ。ひとつひとつが嬉しかった。
わしは素直に「はい」と頷く。
ジェレミアは満足そうな顔をして、また違う話題を口にした。そうして、わたしたちは使用人が呼びに来るまで、しばらく話をした。
◆
エミーリオの訪問があってからさらに五日経った日の午後。
春らしい空気が強くなり、花の香りも漂い始めていたので、わたしは部屋にこもるのをやめて少し外を歩いていた。
何しろ、ろくに運動していなかったのだ。
このままではデブまっしぐら。せっかくレディ・アストルガが色々用意してくれた素敵なドレスが入らなくなったらこんな悲しいことはない、お願いだから少し動いて下さい、というドーラの強い勧めというか懇願もあり、公爵邸の庭をぶらつくことにした。
が、庭と言っても、ちょっとした邸宅の庭程度のものではない。
かなり広い敷地を持つ公爵邸は、公園くらいの広さがあり、馬を駆けさせることすら可能である。
そんな庭を、わたしはデニスをお供に散策する。庭師によって整備された小道には春の花がごくわずかながら咲いており、なんとなく気分も浮き立つ。
とはいえ、まだ風は冷たいので短時間で済ませるつもりだった。
庭を歩きながら、ふと思う。まさかこれほどの長期滞在になるとは、人生わからないものだと。
まあ、パオラの強い要望があったからだけど、こんなにバルクール領を離れたのは生まれて初めてだ。
そんなことを思いつつ壮麗な邸を見て、来たばかりの頃を思い出す。あの時と一番違うのは季節だけではない。一番違うのはルチアではないだろうか。
わたしは遠い目をして、今も邸でパオラに助言をもらいに言っているであろう美少女を思う。
あれ以来、イケメン観賞はすっぱりやめ、淑女としての振る舞いを学ぶことに血道をあげはじめたルチアは、なんというか、とんでもなく魅力を増していた。
服も、わたしの真似をした妙で地味で時代遅れなものではなく、それほどお金をかけなくても洗練された装いになるよう、パオラの助言通りに工夫している。
わたしには到底不可能なことをさらりとこなしている姿が、少し羨ましくもあるが、そこはそれ、持っている能力は違うのだから仕方がない。
それにしても、もし今のルチアであれば、パオロもぐらっと来たのではないだろうか。そう思うほどルチアは違ってきていた。
まあ、会うことは二度とないと思うが。
そんなルチアの側には、心を入れ替えたミセス・モレナが付き添い、すでにどこに出しても恥ずかしくない貴族令嬢が完成しつつある。わたしも日々目にするたび「おぉ!」と感嘆の声を上げてじろじろと眺めてしまうくらいだった。
「うん、なんて言うか、色々あったわね」
「そうですね」
頷くデニスは変わり映えしないが、そもそもここに来なければ彼女と出会ってあんなハードボイルドな体験をすることもなかったのだ。
風に揺れる小花を眺めつつ、わたしは呟いた。
「寒くなって来たし、一旦戻るわ」
「はい、では戻りましたらお茶のご用意を致しましょう」
そんなデニスによろしく答えて、わたしは邸へ足を向ける。やがて入口に着くと、先客がいるのに気がついた。
誰だろうと思いつつ、なんだか見覚えがある気がする。
赤い髪に、すらりと伸びた手足の若い男性だ。背が高くて、後ろ姿だけでも様になっている。
服装は貴族や上流階級のものではないから、新しい使用人なのだろうか、などと思って見ていると、その人物がこちらを振り向いた。
わたしはその顔を見てぎょっとし、思わず立ち止まる。
「……ど、どうして」
呻くような声が喉から勝手に飛び出す。
それほど衝撃的な人物が、そこには立っていた。




