(76) 残された言葉
「あの、そんなに見ないで欲しいんですが」
「えっ、気になるんですか?」
女性にじっ、と見られることなど日常茶飯のような男にそう言われ、わたしは思わず目を丸くした。
「当たり前でしょう。気になる女性にそう見られたら男は勘違いします……それとも勘違いしていいんですか?」
「困ります。ただ眺めているのが好きなだけなので」
あっさり告げれば、エミーリオはうめき声のような音を出し、恨めしげに顔をしかめる。
「そういえば、あのルチアというご令嬢に、貴女の趣味について聞きましたよ。個人的に、もうやめた方がいいと忠告します」
「え、でも……別に誰にも迷惑は掛けてませんし」
そーっとこっそり見るだけなのに、なぜいけないのだろう。ジェレミアだって、知っているけどやめろとは言わなかった。
もっとも、最近では彼ばかり眺めているので、他に目を向けることは非常に少ない。何より他では物足りないのだ。
だから、それほど問題はないと思うのだが……。
エミーリオがそう言う理由がわからなくなり、わたしは首を傾げてつぶやいた。
「そういう問題じゃなくて、貴女はもう婚約しているんですよね?」
「そうですね」
「だからだめなんですよ。俺みたいに勘違いする男がきっといる」
「そんなひといませんよ」
「います」
真剣な顔できっぱりはっきり言われ、わたしは驚いた。
「とにかく、覚えておいてくださいよ」
「はあ、まあ、わかりました」
全く納得できないが、ここは大人しく聞いておいた方が得策だと思ったわたしは素直に頷く。
それでもやっぱりそんなはずはない、と思っていたのだが。
やがて、入り口に差し掛かるとエミーリオは立ち止まった。
「ここでいいですよ。寒いし、早く戻った方がいい」
「そうですね。それじゃあ、今日は本当にありがとうございました」
「いえ、仕事ですし。ああ、そうだ、一つ言い忘れてました」
手に持っていた外套をはおりながらエミーリオはつい今しがた思い出したように言った。
「詳しくは言えないですけど、近々、きっといいことがあると思いますよ」
「いいこと、ですか?」
「そう、いいことです。それじゃあ、失礼します」
さっさと身支度を終えたエミーリオは、そう言うとわたしが質問する間も与えずに出て行ってしまった。
その背に声を掛ければまだ届く。
けれどなんとなく声を掛けにくい。丸められた背中が、声を掛けるなと言っているようで、わたしは開けかけた口を閉じた。
――いいこと、ってどんなことだろ……。
エミーリオは何のヒントもくれなかったので、想像すらできない。わたしは小さくため息をついて、きびすを返した。
急がないと、パオラが待っている。
最初は早足で。けれどパオラが待っていると思えば、それすらもどかしくて終いには走り出す。
それでも結局、パオラにお小言をもらう羽目になってしまった。
◆
その夜。
戻って来たジェレミアに、昼間会ったことを伝えると彼は即座に顔をしかめた。
「大丈夫だったのか?」
「うん、全然平気でした。それより、これを見て下さい」
わたしはあの手記を見せて、これがどれほど役に立ってくれたのかを話した。ジェレミアには知っていて欲しいと思ったのだ。
その話を聞いたジェレミアは静かに頷いて言った。
「そうか、良かったな」
「はい。ずっと心配だったんです」
「知っている。いつも何か言いたそうな顔をしていたから、恐らく彼らのことを気にかけているのだろうと思っていたよ。それでも、私たちのためにこらえていることもわかっていた」
二人掛けのソファの開いていた部分に座り、ジェレミアはわたしの顔を見ながら微笑んだ。それから、そっと手記を持つ手に、手に重ねてきた。
それだけのことで、わたしの心臓は激しく跳ねた。
「それでも、私は君にここにいて欲しかったから、見て見ないふりをしていたんだ。だから、君の心配ごとが解決して、私も嬉しいよ」
「そっ、そうですか」
思わず声が上ずってしまう。
わたしはバクバクいう心臓をなだめつつ、伸びてきたジェレミアの手が手記を取るのを見つめた。
「見てもいいか?」
「ど、どうぞ」
手が離れると、少しは落ち着く。だというのに、手紙以外の自分の書いたものを読まれるのがなんとも気恥ずかしい。落ち着かない気分のままじっとしていると、ジェレミアが不意に言った。
「なるほど、良くわかった」
「な、何がですか?」
先ほどからどもりまくっているのがいたたまれないが、耐えられなくてつい問うてしまう。
「君が、彼らのことを心から大切に思っていることが良く伝わってくる。正直、少し妬けてしまうくらいに」
妬けるも何も、彼らとは友だちというか、仲間である。それ以上でも以下でもない。感覚を共有できるという意味でもとても大切な存在だけれど、そんな風に思うなんておかしい。
そう困惑気味にジェレミアを見ていると、彼はわたしの様子に気づいて苦笑した。
「冗談だ。わかったのは、やはり君は素晴らしい女性だということだな。こうして側にいられることが嬉しいよ」
「っ!」
なんという波状攻撃だ。そんなに褒められたらもうこの先褒めるべきところが消え去ってしまうではないか。
しかも、よりによってわたしの一番好きな穏やかな笑みを浮かべているものだからますます性質が悪い。
困り果てたわたしは、逆になんとなく腹が立ってきて言った。
「そんなこと言いますけど、素晴らしいのはジェレミアの方でしょう。こんなに優しいひと、前世でもここでもわたしは貴方しか知りません。側にいられて嬉しいのはわたしの方なんですから!」
言われたことをそのまま返すと、ジェレミアは少し面食らったような顔をしてから、不服そうな顔になった。
おかしい。褒めたのになんでだ。
「あの、わたし変なこと言いましたか?」
問うても返事は無い。どうしたものかと思っていると、突然手が伸びて来て抱き寄せられ、わたしの思考が止まった。




