(69) 平和で、不安で
わたしにとっては久々にのんびりと眼福だったが、慣れない事態に、パオラはしばし黙り込んでから言った。
「と、とにかく、ロレーヌにはしばらく謹慎してもらうわ。いいわね、それじゃあまた来るから」
言うなり彼女は逃げるように部屋を出て行ってしまった。
残ったわたしは、ほぉーっとため息をついて、それから改めて帰って来たのだなあと思った。
それと同時に、やっぱり自分は幸せなんだとも感じる。
パオラの去った方を見ながら、そんなことを考えていると、ジェレミアが動いた。
彼はあっという間に先ほどパオラが座っていた場所に腰を下ろし、まだ頬に触れたままのわたしの手に自分の手を重ねてきた。
「痛かったか?」
「えっ、や……平気です」
あまりの近さにのけぞりかけ、何とか思いとどまる。ジェレミアは心配してくれているのだ。逃げたりしたら悪いではないか。
そう思うが、これだけ近いとかなり心臓に悪い。
「姉さんはここしばらく除け者にされていたから、悔しいんだと思う。外は危険だからと、公爵に出歩かないで欲しいと懇願されて動けなかったから……」
「それで良かったと思いますけど」
わたしだって、誰にも危険な目に合ってなど欲しくはないのだ。それでも、危険を承知でジェレミアは動き回ってくれたのだろう。
「……あの、ごめんなさい。迷惑を掛けました」
「いや、無事で良かった。それに、私が出来たことなどほとんどない。あの場所を見つけたのも、襲撃の手筈を整えたのも全て殿下だったからな。私はただ一緒に連れて行って欲しいと頼んだだけだ。そこに君がいるかもしれないと思ったから」
どこか悔しさの滲む声で、それまでのことを語るジェレミアに、わたしは言った。
「十分ですよ……あの時、ジェレミアの姿が見えたとき、凄く驚いて、それ以上に嬉しかったんです」
呆れられて切り捨てられるのではという、いつもだったらまず考えなかったことを、あの時は真剣に考えてしまっていた。
貴族社会では体裁はとても大切で、そのための嘘や偽装が日常になっている場合すらある。例え本人同士がどう思っていても、周囲の圧力に負けることだってあるのだ。
だけど、探してくれた。
探して、こんなところまで来てくれたんだ。
そのことが実感できてくると心が一気に温かくなって、申し訳なくなって、どうしようもなく嬉しくてたまらなかったのだ。
「そうか、なら頑張った意味はあったのか」
「もちろんです!」
そこはちゃんと強調しておく。
すると、ジェレミアはさらに体を近づけて来た。わたしは気づくと抱きしめられていた。
「もう会えなかったらどうしようかと思った」
耳元で囁くその声は穏やかなのに、どこかしら憂いを帯びていて、わたしは一瞬言葉に詰まってしまう。
「……ごめんなさい」
結局、型通りの謝罪の言葉しか出て来ない。それでも、彼の気持ちが少しでも落ち着くなら、何万回でも言おうと思った。
わたしに出来ることはそれくらいだ。
ジェレミアの背に手を回し、次の言葉を待つ。
しばらく、そのまま時が過ぎていく。
しかし、彼は何も発しないままじっとしているばかりだ。こんなに長くこうしていたことなどない。
心臓の音がすごくうるさい。
――な、何か言って欲しいんですけど。
そう思っても、ジェレミアはたまに手の位置を変えるくらいで中々口を開かない。
ならばわたしが何か言えばいいんじゃないか、と思ったものの、何を言えばいいんだ、何か言って欲しい、とかもう離して欲しいとかしか思いつかないんですけど。
脳みそが沸騰しそうななか、わたしはふとあることに思い至る。
もしかしたら、ジェレミアはただこうしていたいだけかもしれない。だとしたらそうお願いするのも悪い気がしてしまう。なにせ、彼には絶大な迷惑を掛けたのだ。このくらいは耐えないと。
そうしている間にも鼓動の音がどんどん大きくなる。
全身が心臓になったんじゃないかと思うくらいだ。何だか意識が遠くなってきた。このままじゃヤバい。そう感じたわたしは恐る恐る口を開いた。
「あ、ああ、あのジェレミア?」
「ん?」
声を掛けると、彼は少し体を離して顔が見られるようにしてくれた。それでも近すぎるので動悸は中々収まらない。
何だか、あまりジェレミアの顔を眺められていない気がする。全て心臓のせいだけど、何てもったいないことをしているのだろう。
せっかくこうして一緒にいられるのに。
そう思いつつ、わたしはあえて真っ直ぐ彼の顔を見て言った。
「えーと、あの、本当にごめんなさい。すごく迷惑を掛けたお詫びに、わたしに出来ることなら何でもします」
ジェレミアが驚いた顔をする。
わたしはよし、ちゃんと言えたぞと内心自分を褒めた。心臓はドキドキしているけれど、これで謝罪の気持ちは伝わったはずだ。
すると、ジェレミアは「ほう」と言ってわたしを見てきた。それまでの驚いた表情ではなく、口元が笑んでいる。
あれ、何かおかしなことを言っただろうか。何だか嫌な予感がするんだけど……。
「何でも、ね。覚えておこう。だが今日はやめておく。君はもう少し休んだ方がいいだろうから」
「良く眠ったので、もう疲れていませんけど」
「それでも、休むんだ。私も一日ずっと側にいるから」
ジェレミアは頑として譲らず、わたしはそんなに疲れてないんだけどなあと思いながらも頷いておくことにした。
今さっき、何でもすると言ったばかりだ。
「わかりました。そうします」
「よし。なら食事にしようか、運ばせよう」
「はい」
頷くと、ようやくジェレミアが離れてくれる。彼の重みと体温が消え去り、わたしはちょっと寂しさを覚えた。
それでも、すぐ近くにいることに違いはない。
失ったかもしれない、と思っていた時に比べればなんてことはない。それに、わたしより多くを失った彼らを思えば、今の状況がどれほど恵まれていることか。
わたしは、少しだけ記憶持ちの仲間たちのことを考えた。ちゃんとした扱いをされていてくれればいいが、やはり心配だった。
すぐには無理だろうけれど、彼らのことを知りたい。
使用人を呼ぶジェレミアの姿を眺めながら、わたしはそう思った。




