(62) それぞれの選択
「でもも何もない。そのおじさんだけじゃないわよ、あんたに救われたのは。わたしだってそうだもの」
「……っ! な、何で」
声のした方に目を向け、わたしは驚いた。
それこそ、天地がひっくり返りそうなくらい驚いた。なぜなら、声の主を筆頭に、何人もの仲間たちがそこに勢ぞろいしていたからだ。
全員、話をしたことのあるひとたちで、後ろの方にはパオロの姿も見える。目が合うと、彼は少しバツが悪そうに顔を背けた。
わたしは呆然とその光景を見つめる。
これほど多くのひとが、わたしの、わたしなんかのために動いてくれるなんてことが起こるなど、夢に思うどころか、考えすらしなかった。
だって、わたしがしたことは、あまりにもささやかなことでしかないではないか。
言葉が出て来ない。
本当の絶句とはこういうことなのかもしれない。わたしは考えるともなくそんなことを思ってしまった。
「何で、と言われてもね。わたしだって自分のしていることに驚いているのよ。だって、こうして出てくれば、捕まるってわかっている訳だし……だけど、それでも良いかって思っちゃったの」
苦笑気味に肩をすくめ、彼女は言った。
みんながみんな、似たような表情をしている。わたしはただひたすら彼らを食い入るように見つめ、心の中ではどうしてを繰り返す。他に、何も浮かんでこないのだから仕方がない。
すると、唐突に拍手の音がした。音はひとりぶんだけだ。わたしはそちらを見た。
「素晴らしい、貴女の言うとおりでしたね。正直に言えば、なぜこのような事態を引き起こしたのか理解に苦しむほどまともそうな方々ばかりに見えますよ」
あの忌々しい笑顔を浮かべたまま、王子はそう言う。
そろそろ名前を思い出しても良さそうなのだが、恭しく様などつけて呼ぶのがアホらしいので、わたしは思い出す気が失せていた。
「では、宣言通りに」
王子は冷たく告げると、後ろでどう動いてよいのかわからず目だけきょろきょろさせていた者たちを見た。
それだけで、彼らは一気に動き始めた。
具体的には何一つ指示していないのに、わたしのためにと出てきたみんなや、応戦していた仲間たちを捕えていく。
それを、呆然と見ているしかない。
――同じだ。
わたしだって、みんなと同じ、何の力もない人間なのだ。
あちらにいたのはわたしだったかもしれない。そう思えば、悔しい気持ちがした。
どうしようもない気持ちでいると、カッシーニが不意に大声を上げた。
「ロレーヌ嬢、自分を責めるんじゃないぞ。今あんたが手にしているものは、ちゃんとあんたが自分の力でつかんだものだ、俺が言うんだから間違いない」
驚いてそちらへ顔を向けると、初めて見る穏やかな顔をしたカッシーニがいた。その近くに、パオロもいる。
どことなく申し訳なさそうな顔をしたパオロは、わたしを見ると悲しそうに笑んで、すぐに顔を背けた。
強い決意が、そこに浮かんでいる。
やがてわたしの近くまで警察と王子がやってきて、腕を掴んでいた男を捕える。ルチアも同時に解放され、王子は最後にわたしを真っ直ぐに見ると、言った。
「ご協力、感謝しますよ。貴女のお陰でこちらの被害はかなり少なく済みました」
「……約束、守ってくれるんですよね?」
取り繕うこともせず、わたしは自分より遥かに高い位置にある美麗な顔を睨みつけた。
その顔の持ち主は、小憎たらしい笑みのまま頷く。
「もちろんです。……ああ、貴女を心配してここまでついて来た彼が来ますよ。それでは、失礼します」
軽く片手をあげ、王子はこちらへ早足で歩いて来た「彼」と入れ違うように去っていく。
その背を睨んでから、わたしは目の前に立つ「彼」を見ようとした。けれど、出来なかった。
「ロレーヌ」
深い、安堵のため息交じりに名を呼ばれる。
思わず胸の前で握りしめた手が震えてしまった。
感覚の無くなった足は、今にも体を支えられなくなりそうだ。わたしは大きく息を吸う。冷えた空気を吸い込んでみれば、少しは落ちつけるかと思ったのだ。でも、ちっとも落ちつけそうにない。
だって、どんな顔をしたら良いのだろう。素直に喜ぶのも、なんだか違う。まずは、全力で謝らなければならないのだ。
わたしは自分のせいでこうなったのだから。
だったら、早く顔を上げて謝ってしまえばいいのに、わたしはそれも出来ない。
怖くて怖くてたまらなかった。
微妙な沈黙のまま、わたしは年月の経過ですっかり劣化した足元の石敷きを見つめる。
不意に、そこに落ちた影が揺らいだ。
そして、気づいたときには抱きしめられていた。
頭の中が真っ白になり、息をするのも忘れて体を固くする。
「良かった、無事で」
頭の上から、ずっと聞きたかった声が降った。その声に滲んだ、心からの安堵に、わたしはようやく息をつくことが出来た。
途端、彼の、ジェレミアの香りが鼻腔を満たし、突然に恥ずかしくなる。そんな気持ちをごまかしたくて、わたしは言わなきゃと思っていたセリフをようやくの思いで言った。
「ご、ごめんなさい」
「全くだ。いつもはこんなことをしないのに、突然とんでもない行動を取るな、君は……」
いつもよりかなり強い力で抱え込まれ、背中が痛い。
もう一度謝ろうと思うのに、これじゃ出来ないじゃないか、と思っていると、ジェレミアはさらに続けた。
「さっきも驚いたよ。まさか、殿下に食って掛かるとは思わなかった。あの方は口調や物腰は穏やかだが、怖い方だからな」
「そ、そうなんだ……」
ムカつきはしたが、全く怖いとは思わなかった。
ようするに、甘く見られた訳だ。それはそうだろう。向こうからすれば、子どもが威嚇してきたようなものだと思うし。
「ああ。私なら無理だな」
ジェレミアは少し笑った。
わたしはそこでようやく顔を上げることが出来た。
視界に、長らく見たくて見たくてたまらなかった顔が映る。その顔は、ちょっと疲れてはいたけれど、変わらず美麗で、そして優しく笑んでいた。
わたしは、凍りついて強ばっていた心が、ゆっくりと融けていくような心地がした。




