白い結婚を強いた夫へ、私からの断罪は一枚の白紙です ——愛人の嫡子に、家名は継がせません
襟元の真珠が、一粒だけ糸を緩めていた。
「替えましょう。当主のお召し物に、落ちそうな飾りは似合いません」
針を持つ侍女へ、私は首を横に振った。
「糸を締めれば使えます。落ちていないものまで捨てる必要はありません」
今日、夫は愛人とその子を連れてくる。その子を私の家の嫡子にするために。
名を与えられるのは当主だけで、私はまだ承諾していない。夫のロランだけが、最後には私が折れ、その子の名に侯爵家の家名を継がせると思っている。
廊下で、木枠の角が扉へ当たる音がした。
「ロラン様のお申し付けで、若君の揺り籠をお運びしております」
若い従僕が頭を下げる。白く塗られた揺り籠には新しい布が掛かり、角には金糸の房飾りまでついていた。
「まだ、この家に若君はいません」
従僕の腕が固まった。
「申し訳ございません。では、どちらへ」
「小広間へ。窓から離して置きなさい」
「当主席のお隣でよろしいでしょうか」
「向かいへ」
従僕は一度だけ私を見て、揺り籠を運び去った。
命名式に選んだのは、銀糸を織り込んだ濃紺のドレスだった。祝いの席にしては色が深いと、若い侍女は口に出さず、淡い色のショールを三枚も運んできた。
どれも要らない。今日は誰かの母に見えるためではなく、この家の当主として席に着く。
それでも銀糸は残した。親類の目は私の顔より先に仕立てを見る。侯爵家の窮状は、たいてい夫人の袖口から噂になるものだった。
菓子は蜂蜜と胡桃のものを小広間へ。ひびのあるものは使用人へ回し、客には形のよいものだけを出させた。春摘みの茶葉も開封させてある。家がどうなる日にせよ、客に出す皿まで落ちぶれさせるつもりはなかった。
糸を締めた真珠を確かめ、私は手袋をはめた。左手の薬指にある指輪は磨かれている。夫婦の寝室の扉より、よほど頻繁に手入れされてきた金だった。
小広間では、老家令が席札を整えていた。当主席の右脇へ置かれかけた一脚の椅子を、私は親類の列へ戻させる。
「座りたければ、あちらに空きがあります」
当主席の隣には、命名帳を置く小卓だけが残った。
家令が革張りの箱を抱えて入ってきた。錠を外し、古い命名帳を卓上へ置く。
厚い表紙を開くと、羊皮紙と乾いた糊の匂いが立った。母の名、その母の名、若くして家を継いだ女の名、遠縁から迎えられた配偶者たちの名が、代々の当主の筆で連なっている。
後ろから数枚目に、私の筆跡があった。
ロラン。
その名を記した日のインクは、今では黒というより褐色に近い。
そこから二頁前には、一本の線で消された配偶者の名がある。母の代に家産を私物へ流そうとし、一族の立会いのもとで家籍を解かれた男だった。
名を迎える権限と同じく、家を侵す者から名を取り戻す権限も当主にある。ただし、配偶者の名を取り戻すには一族の立会いが要る。
今日、その一族を招いたのはロランだった。
あの日のロランは、肩の合わない礼服を着て命名帳の前に膝をついた。袖は少し短く、磨いた靴だけが立派だった。
「名を呼ばれて、はじめてこの家の者になる」
私はそう告げてから、彼の名を呼んだ。帳面へ記し、当主の印を置き、立つよう命じた。
ロランは私の手を取った。手袋越しに触れただけで、口づけはしなかった。
白い結婚は二人の取り決めだった。
「跡継ぎは要らない」
二人分の寝台が整えられた部屋の前で、彼は言った。
「君が当主で、僕はその夫だ。それで十分だろう。子のために暮らし方まで変える必要はない」
「家は、私の代で閉じるかもしれない」
「古い家はいずれ閉じる。君の責任じゃない」
その言葉だけは、夫婦ではなくても同じ家を守る者の誓いだと思っていた。
翌朝、私は片方の寝台から上掛けを外させた。ロランには別の部屋と衣裳と銀器を整え、家名を使って夜会へ出る資格も、私の代理として客を迎える立場も与えた。名を与えたのなら、半端な扱いは家の側の瑕になる。
それで足りる年月は、ずいぶん長かった。
その子の存在を知った日、ロランは私の書斎へ一枚の紙を持ってきた。謝罪の手紙ではない。命名式に都合のよい日を三つ並べた予定表だった。
「もう生まれているの」
私が尋ねると、彼は一番早い日付を爪で叩いた。
「母子ともに健やかだ。親類の都合を考えれば、この日がいい」
「私に最初に頼むことが、日程の決定なのね」
「ほかに何がある。家にとって必要なことだろう」
紙の端には席数まで書かれていた。主要な商会へは「本日命名予定」と知らせ、式の翌日から自分を取引の窓口にするよう求めたとも、後で聞いた。
北隣のヴァレリー伯爵だけは、その通知を受けても窓口を変えなかった。共同水路も種籾も、判断を仰ぐ書状は以前と同じく私の名で届いた。何年もそうしてきた人だった。
私は命名帳の白い次頁へ薄紙を挟み、帳面を閉じた。
「式の時刻まで書斎に置いて。誰に言われても先に開かないで」
「かしこまりました」
家令の眉が、ほんの少し持ち上がった。長く仕える者には、それで十分だった。
親類たちは昼前から到着した。小広間に祝いの言葉が重なる。
「待ち望んだお子ですな」
「これで家も安泰でしょう」
「お顔を見るのが楽しみですこと」
誰が待ち望んだのかは、ひとまず菓子と一緒に飲み込んでもらった。私は当主席に座り、一人ずつ挨拶を受ける。濃紺の袖の真珠は落ちず、銀糸も曇天なりに役目を果たしていた。
母方の叔母だけは、祝辞の代わりに私の袖口を見た。
「姉様の銀ね。よく似合っていること」
姉様——私の母、先代当主のことだ。叔母は先代の帳簿を検めてきた人で、祝いの席で真っ先に当主へ礼をした、唯一の客でもあった。隣に座った母方の従妹が、揺り籠と当主席の距離を目で測り、小さく首を傾げる。
年嵩の伯父は逆だった。ロランと猟場を共にする仲で、席に着くなり「これで家にも男手が入る」と機嫌よく頷いた。誰の家の話かは、尋ねないでおいた。
ロランが来たのは、客が揃ってからだった。
彼は先に扉をくぐり、後ろへ手を差し出した。その手を取ったセシルが、淡い桃色のドレスで入ってくる。腰には真新しい絹の帯。喪にはとうてい回せない、祝いの日だけの色である。
その子はセシルに抱かれ、白い布の中で小さな拳を胸元に置いていた。部屋の空気が変わっても、声を上げなかった。
「皆、今日はよく来てくれた」
ロランは当主席の脇に立った。私の椅子の背へ手を置きかけ、その手を自分の上着へ戻す。
「我が家にとって、ようやく喜ばしい日だ。アデルが一人で背負ってきたものを、これからは私も父として支えたい」
伯父が大きく頷いた。叔母は扇を開いたまま、動かさなかった。
「鼻はセシル似だが、目元は私だろう。我が家の肖像にも、同じ目をした者がいる」
壁にあるのは、私の母方の一族の肖像である。従妹が壁を見上げ、それから気の毒そうにロランを見た。
セシルは揺り籠を見つけると、私の前を横切った。
「とても素敵にご用意くださったのですね。もっと当主席の近くでもよろしかったのに」
「そこは風が当たりません」
「ええ。奥様はお気遣いが細やかでいらっしゃるから」
彼女は私の許しを待たず、その子を揺り籠へ下ろし、房飾りを指で揃えた。
「これで奥様も肩の荷が下りますね」
「何の荷かしら」
「跡継ぎのことでございます。これからはその子と、ロラン様と、わたくしもおりますもの」
「あなたも?」
「母親ですから」
従妹が扇の陰で叔母に何かささやいた。叔母は答えず、ロランを見ていた。
給仕が新しい湯を注ぎ、春摘みの香りが広がる。ロランは胡桃菓子を一つ取り、糖衣の薄いところを親指で確かめて口へ入れた。
「相変わらず、こういうことには手を抜かないな」
「祝いの日ですから」
彼の指へ白い砂糖がつき、上着の内側で拭われた。
そして式の時刻を待つ間に、ロランは親類へ聞かせる声で言った。
「この機会に伝えておく。今後、家の実務は私が引き受ける。当主印も、収入も、使用人の差配も私が預かる。アデルには、重要な書類に署名してもらえばいい」
三つまとめて、言い切った。長年胸に詰めてきたものは、出すときには簡潔になるらしい。
茶碗が受け皿へ戻る音が、二つ、三つ重なった。
「……署名だけ、とは」
親類の誰かが小声で言い、伯父が咳払いで打ち消した。
「アデルの負担を軽くするだけだ。当主の名誉は何も変わらない」
「その印と収入と使用人は、誰のものかしら」
私は尋ねた。
「家のものだ」
「その家の当主は誰」
ロランが答えを探すより早く、セシルが微笑んだ。
「奥様は別邸で静かにお暮らしになるのですから、書類はそちらでお受け取りになれますわ」
小広間が、一拍分だけ静かになった。
「……本邸から、出すのか」
誰かがつぶやいた。今度は、咳払いは聞こえなかった。
「セシル」
ロランの顎がわずかに動く。
「あら。季節ごとに戻っていらしてよいと、おっしゃったではありませんか」
扉が二度、控えめに叩かれた。私付きの侍女が入り、腕のものを掲げる。私の衣装箱から外された、革の荷札だった。
「奥様。寝室の衣装箱を運び出すよう、ロラン様から命じられた者が参りました。別邸行きの馬車も、裏庭へ回っております」
親類の扇が、いくつか止まった。
「式の前から、もう荷を」
「当主を、追い出す気か」
「それは、いくらなんでも」
声はどれも小さく、どれも打ち消されなかった。叔母の扇が、音を立てて閉じた。
ロランは顎を上げた。
「式のあとで慌ただしくする必要はない。君が使わない物から先に移すだけだ」
「箱は元へ戻しなさい」
私は侍女へ命じた。
「別邸行きの馬車には、命じた者の荷を積むよう伝えて」
ロランの口が止まった。
「アデル。勝手なことを」
「私の衣装箱を運ばせた人の台詞とは思えないわね」
侍女は一礼して退室した。廊下の足音が、来たときより速く遠ざかる。
伯父が身を乗り出した。
「しかしだ、アデル。その子を退ければ後継が途絶える。家のためには、多少の役目の移し替えも」
「家を続けるためなら、当主を家から退けてもよいと?」
私は革の荷札を卓上へ置いた。私の名が、ロランの筆で書かれている。
「私の荷を運ぶ馬車が、すでに裏庭にあります」
伯父は荷札とロランを見比べ、式が済んでからの話だ、と目を逸らした。
「役目の移し替えと、当主の追い出しは、別の話ですよ」
叔母が扇の先で荷札を示し、静かに言った。それに答える者はいなかった。
式の時刻になると、家令が扉を閉めた。給仕は壁際へ下がり、親類も口を閉じる。
揺り籠だけが、卓の向こうにあった。
家令は書斎から命名帳を運び、私の左の小卓へ置いた。ロランが「始めてくれ」と命じても動かず、私が頷いてから、表紙を開いた。
紙の擦れる音がした。古い名の連なりが現れ、最後に白い頁が卓上の光を受けた。
ロランは上着の内側から銀の軸の筆を取り出した。
「今日のために用意した。君の手にも合うはずだ」
飾りの銀はよく磨かれていたが、穂先は糊で固められたままだった。
「アデル、堅苦しくする必要はない。その子が私の子で、家を継ぐ。皆、承知している」
「誰の家を?」
「我が家だ」
ロランは当主席の背へ目を落とした。座るよう勧める者はいない。
「跡継ぎを産めなかった責任も、これで消える。君にとっても悪い話ではないだろう」
「産まなくてよいと言ったのは、あなたです」
彼の親指が銀の筆を擦った。
「事情が変わったんだ」
「ええ。あなたにはその子ができ、私には署名だけを残すことにした。私を別邸へ送り、印と書斎と収入を取り上げて」
「家のためだ」
「では、正しい呼び方をしましょう」
私は白い頁を見た。
「これは継承ではありません。簒奪です」
言葉にすれば、四文字で足りることだった。
親類の誰も、否定の声を挟まなかった。
「言い方の問題だ」
ロランは白い頁を掌で示した。
「帳面など形式だ。家名を呼び、署名すればいい」
「形式であなたはこの家へ入ったのよ」
「何を言っている」
「同じ形式で、出ていった者もいます」
ロランの指が、白い頁から離れた。親類の視線が、二頁前にある抹消の線へ移る。従妹が叔母の袖へ触れ、叔母は小さく頷いた。
「先に式次第を」
私が言うと、ロランは息を吐いた。
「子を抱き、名を聞き、家名を与える。それだけだ」
「では、抱きましょう」
セシルの腕が揺り籠へ伸びた。私は先に立ち上がる。
「わたくしが、お渡しします」
「置いておきなさい」
私は揺り籠の前に立ち、布ごとその子を抱き上げた。
予想より少し重かった。布の内側に、きちんと食べて眠ってきた身体が収まっている。
その子は目を開け、私の胸元の銀糸へ手を伸ばした。小さな指が手袋の端に触れる。
私は右手の手袋を外し、親指を差し出した。
その子は握った。爪は薄く、指の節には丸いくぼみがある。力は弱いのに、離す都合はこちらへ任せてくれない。
空いた指で頬へ触れた。外気に当たっていない皮膚は、茶碗よりやわらかく温かい。頬の下で、小さな顎が一度動く。
この指へ家名を渡せば、白い頁は埋まる。肖像の列も、当主席も、私の死後に残る。
代わりに私は家の外へ移され、その子は母の腕から、ロランが欲しがった席へ置かれる。
その子の指は、そんな取引を知らない。
セシルが椅子から腰を浮かせた。
「その子は眠りが浅くて。あまり長く抱かれますと」
「起きています」
「奥様のお衣裳を汚してしまうかもしれません」
私はその子を抱いたまま、セシルの前へ戻った。彼女は両腕を差し出し、受け取る前に私の袖口を見た。
真珠は落ちていない。その子の指にも銀糸は絡んでいなかった。
「よく育っていますね」
「ええ。ロラン様も、そうおっしゃってくださいます」
セシルがその子を胸へ抱き寄せる。私の指から小さな指が外れ、空いたところへ冷たい空気が入った。
「その子に罪はありません」
「でしたら」
「だからこそ、あなたたちの都合で他人の家名を着せてはいけない」
「他人ではございません。その子はロラン様の」
「あなたの子として、丈夫に育てなさい」
私は手袋を戻した。親指の付け根だけ、布がうまく沿わなかった。
ロランは筆の穂先を水でほぐし、その子の個人名を口にした。
短い名だった。親類は静かに聞き、誰も繰り返さない。
「ここへその名を書き、家名を呼べば、その子は正式に我が嫡子となる」
私は当主席へ戻り、命名帳を正面へ引き寄せた。
白い頁は広かった。その子の名を一つ書いても、まだ何人分もの余白が残る。
ロランは祝いの席にふさわしい笑みを浮かべ、銀の筆を差し出した。
「アデル。この子を嫡子に」
皆が待っている、と彼は笑った。
私は口を開いた。
家名を呼ばなかった。
暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が網の内側で散った。
その子はセシルの胸で指を開いた。ほどけた拳が桃色の布を掴み、また離す。
胸の内でだけ、最後に一度、ロランを「あなた」と呼んだ。
彼の笑みが、呼ばれる順番を待ったまま止まった。
「アデル?」
私は命名帳へ目を落とした。白い頁には、まだ何もない。
「聞こえなかったのか。その子の名は」
彼は同じ個人名をもう一度告げた。
私は続く家名を呼ばない。
セシルがその子を抱き直し、私から半歩下がった。
「奥様、式の途中でございます」
「ええ」
「でしたら、家名を」
私は白い頁の端へ指を置いた。紙はその子の頬より冷たく、わずかに毛羽立っている。
「名を呼ばれて、はじめてこの家の者になる」
彼の手から銀の筆が下がった。
「知っている。だから今、君が呼ぶんだ」
私は呼ばなかった。
暖炉の火が薪を一段沈め、家令の持つ布が、銀の筆から落ちた雫を一つ吸った。
親類の誰も、代わりに口を開かなかった。祝いの言葉をいくつも持ってきた者たちが、茶碗の縁や閉じた扇へ目を落とす。やがて従妹の小さな声が落ちた。
「……呼ばれない」
「そういう、ことか」
「二頁前を、ご覧なさいな」
最後のは、叔母の声だった。誰かが息を吐いた。閉じた扇と、二頁前の線とを、順に思い出す顔がいくつも並ぶ。
「これは冗談では済まないぞ」
彼は卓へ片手をつき、白い頁を指で示した。
「その子は私の血を引いている。私の嫡子だ。君が何を言おうと変わらない」
「あなたの子です」
「ならば」
「この家の者ではありません」
彼の指が紙から離れた。
「君には子がいない。このままでは家が終わる」
「そうね」
「それでいいのか」
「その子を迎えれば家は続くでしょう。私を追い出し、私の名と印を使う者たちの家として」
「家の形を整えるだけだ」
「白い結婚を求めたのはあなたです。家が閉じても私の責任ではないと言い、私はその言葉ごと、あなたを家へ迎えました」
「私は次期当主の父だ」
「その子は次期当主ではありません。そしてあなたはもう、その父を名乗ってこの家に立つこともできません」
私は頁を戻した。白い次頁が閉じ、古い名の列が現れる。
夫だった人の名は、その末尾にあった。
「待て」
私は銀の筆を取り、黒いインクへ浸した。
夫だった人が一歩近づく。家令も一歩動き、彼と卓の間へ身体を入れた。
「どけ。これは夫婦の話だ」
「当主の御前でございます」
「私はその夫だ!」
その子が腕の中で身じろぎし、セシルが背を撫でた。
「配偶者の家籍を解くには、一族の立会いが要る」
私は親類の列を見た。
「あなたが今日、揃えてくれました」
夫だった人の顔から、祝いの席の笑みが消えた。
「こんなことで立会いになるものか。今日はその子の命名式だ」
叔母が閉じた扇を膝から上げた。
「当主の宣告を聞き、当人の弁明も聞きました」
伯父が革の荷札へ目をやり、低く言った。
「……荷を運ぶ馬車まで、先に整えたこともだ」
「誤解だ。家のためにした」
「当主を家から移すことが、家のためですか」
叔母の声は平らだった。
私は筆先を、名の最初の文字へ置いた。
「あなたは、私に名を与えられてこの家へ入った」
筆先を動かす。
夫だった人の名を、一筋の線が横切った。
厚い紙がインクを吸い、黒い線の端だけがわずかに滲む。二本目は要らなかった。
「……母君の代と、同じ線だ」
親類の誰かが低く言った。
夫だった人は家令の肩越しに手を伸ばした。届かないと分かると、指を握り込む。
「そんな線一本で、結婚が消えると思うのか」
「線だけではございません」
家令が私へ向き直る。
「当主のご意思による配偶者籍の抹消と承ってよろしゅうございますか」
「ええ」
「お立会いの皆様に、確認を願います」
叔母が席を立った。閉じた扇を両手で持ち、乾きかけた線を見る。
「一族の立会人として、抹消を見届けました」
従妹が真っ先に続き、親類たちも迷いの浅い者から順に席を立った。最後に伯父が立ち、夫だった人ではなく私へ、深く一礼した。
叔母は席へ戻る前に、当主席の脇で足を止めた。
「姉様も、同じ顔で線を引いたわ」
それだけ言って、扇を開いた。
家令は夫だった人へ向き直る。
「ただいまをもって、あなたは侯爵家の家名、印章および家産の管理権を使用できません。当家の配偶者として出した命令も、以後は効力を持ちません」
「私は何年ここで暮らしたと思っている」
私は筆を置いた。銀の軸が小卓へ触れ、乾いた音を立てる。
「あなたはもう、この家の配偶者ではありません」
「君一人で決められることではない」
「いま、一族が見届けました」
私は家令を見た。
「客人のお帰りです」
「かしこまりました」
家令が扉を開ける。廊下には従僕が二人待っていた。
夫だった人の声が細くなった。
「今すぐ出ていけと言うのか」
「日が落ちる前に」
「服も書類もある。支度が要る」
「すでに始めております、元旦那様。本日ご用意なさった別邸行きの馬車が、裏庭でお待ちしております」
家令の返事に、夫だった人は口を閉じた。親類を見回したが、一人ずつ視線を外されると、立っている場所までなくなった。
セシルはその子を抱いたまま、揺り籠と扉を見比べた。
「わたくしたちのお部屋は?」
「ありません」
「でも、その子はこの方の」
「その方と帰りなさい」
彼女の手が桃色の帯を掴み、新しい絹に皺が寄った。
「奥様は、別邸へ移られるのでは」
「ここは私の家です」
「では、わたくしたちはどこで暮らせばよろしいのですか。当主印も収入も、お持ちになると伺いましたのに」
「その方へ尋ねなさい」
「お話が違います」
「今は黙っていろ」
その子はセシルの胸元へ頬を押しつけた。彼女は背を庇うように腕を回し、唇を結ぶ。
夫だった人は、最初から最後まで空かなかった私の椅子を見て、上着の裾を直した。
「後悔するぞ」
銀の筆には彼の指の跡が残っていた。私は布を取り、軸を一度拭った。
「馬車を回しなさい」
夫だった人は扉を出た。セシルもその子を抱き、桃色の裾を引いて続く。
その子の頬が、彼女の肩越しに半分だけ見えた。小さな指が布の外へ出て、宙を一度掴む。
私は手を伸ばさなかった。
その子に罪はない。けれど、罪がないことと、この家が養うことは別の話だ。名を与えなかったのと同じ理由で、財布も開かない。
足を止めたセシルへ、私は言った。
「その子の面倒は、その子の親がご覧なさい。実の父も、母のあなたも、そこにおいでなのですから」
「わたくしたちに、何が残るというのです」
「腕の中に、お一人。今日ご自分たちで選んだものです。大切になさい」
セシルの口が閉じた。
夫だった人も、何も言わなかった。父として子を養うだけの財は、今日、その手から離れていく。セシルはその子を抱く腕へ力を込め、今度こそ廊下へ出た。
◇
三日後、二人は本邸の玄関へ戻ってきた。
宿屋から侯爵家払いを断られ、馬車代も衣裳代も、すべて本人名義で請求されたらしい。ロランの上着には三日前の皺が残り、セシルの桃色の帯は外されていた。
「一度だけ話をさせてくれ」
扉の内側で家令が告げた言葉に、私は首を横に振った。
セシルの声が扉越しに届く。
「侯爵家の財産も後継も、この方には何もないと、宿屋で聞かされました。わたくしには、本邸で暮らせる、子は侯爵になると」
「なるはずだった」
「奥様が必ず折れるとも」
「黙れ」
「この子に残るものは何ですか」
「あなたと、ロランです」
私は扉の内側から答えた。
「産んだ二人が育てる。それだけのことでしょう。この家からは、名も、金も、後見も出しません。母方を頼るのなら、どうぞそちらへ。侯爵家に、その子の親代わりを務める義理はございません」
ロランは答えなかった。
やがてセシルは、自分の母親を頼ると言い、その子を抱いて先に門を出た。揺り籠を載せる馬車はなく、ロランが手を貸そうとしても振り返らなかった。
私の名も、家も、印もなければ、彼の計画には自分で支払った宿代さえ残らなかった。
「お帰りいただいて」
私が命じると、家令は扉を開けずに一礼した。
◇
午後、北隣からヴァレリー伯爵レオンが訪れた。
共同水路の更新契約と、春蒔き用の種籾の一覧を自分で抱えている。供もいたはずだが、書類を他人に持たせる気はないらしい。
「窓口が変わらなくて助かりました」
私が言うと、彼は向かいの椅子へ座った。
「変える理由がありません。水量を読み、納期を決め、凶作年の返済猶予まで判断していたのは、ずっとあなたでしょう」
「元夫からは、次期当主の父を通すよう通知があったはずです」
「父親であることと、堰を開ける時期が分かることは別です」
給仕の肩が小さく揺れた。私も茶碗で口元を隠した。
契約を確かめ、互いの印を別々に置く。レオンは私の印へ手を伸ばさず、自分の印もこちらへ預けなかった。
それだけのことが、妙に目についた。
「もう一件、申し入れがあります」
彼が取り出したのは契約書ではなく、封をした一通だった。
「同盟のお話なら、家令も同席させます」
「領地同士の同盟であり、私個人からの求婚でもあります」
茶碗を置く位置が、受け皿の中央から少しずれた。
「ずいぶん率直ですね」
「遠回しにして、あなたの書斎を奪う男と同類に見られたくありません」
「結婚すれば、どちらの家へ入るおつもりですか」
「どちらにも入りません。私は私の家を守り、あなたはあなたの家を守る。共同の仕事には二人で署名し、書斎も印も二つのままです」
「跡継ぎは?」
「必要なら二人で決める。必要でないなら、それも二人で決める。あなた一人の責任にはしません」
レオンは封書を私の前へ置いたが、白い頁を指したロランのように、返事の場所を叩かなかった。
「急いではおりません。まずは私を、あなたが選べる者の列へ加えていただきたい」
「列には、まだ誰もいません」
「では、先頭ですね」
私の袖口で、締め直した真珠が小さく光った。
若い侍女が菓子皿を運んでくる。形のよい胡桃菓子が二つ並んでいた。
レオンは皿を私の側へ押した。
「あなたは胡桃のものを選ぶと、以前の収穫祭で伺いました」
「よく覚えていますね」
「あなたについては、仕事以外のことも覚えたいので」
今度こそ侍女が顔を伏せた。
私は胡桃菓子を一つ取り、もう一つを彼の前へ戻した。
「お茶が冷めるまでは、お話を伺います」
「次は?」
「次のお茶は、あなたが用意してください」
レオンは笑い、菓子を受け取った。
命名帳の白い頁は、書斎で静かに待っている。
そこへ誰の名を記すのか。あるいは誰の名も記さないのか。
今度は、私が決める。
私の椅子を奪わず、自分の椅子を持って隣へ来る人を、私自身の意志で選べる。
春摘みの香りの向こうで、レオンが次の訪問日を尋ねた。
私は予定帳を開き、一番近い空白へ彼の名を書いた。
【お知らせ】2026年7月20日、日間ランキングで 異世界〔恋愛〕短編100位・総合短編157位 に入りました。読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
お読みいただき、ありがとうございます。
与えた名は、当主の手で取り戻せます。呼ばないという静かなやり方で、すっと胸がすいていただけたなら何よりです。
面白かった、この結末が好き——そんなときは、★や感想でそっと教えていただけると、創作活動の励みになります。
ほかの短編や連載も、作者ページからのぞいてみてください。またどこかの夜に。




