猫鳴町殺人事件
1
最初は興味本位からであった。その興味本位の延長から、寺田は今の仕事に就く。
出版社のライターになってからもう五年の月日が経とうとしていた。そこは主にホラー系の雑誌を電子上で出版し、受注が入った場合のみ各書店に紙媒体で出版している。大手の出版社とは違い、零細出版で働いている寺田の給料は人並みの生活すら許されない賃金であった。それでも寺田は今の生活に満足している。
2
最初の始まりは小学校の林間学校であった。アスレチックを楽しみ、夜はキャンプファイヤー。その前に行われる夜道を歩くだけの肝試し。それでは味気ないと思った教師たちが、木や岩に隠れて生徒たちを待つ。
「こんなの怖くないよ」
「あ!あそこに隠れてるよ!絶対」
男子生徒たちは怖がっていないそぶりを見せたかったのか、声を大にしてアピールした。その後ろで女子生徒たちは少し震える。そんな生徒たちを影から様子を窺っていた教師たちは、ここぞとばかりに大声で前に現れた。その瞬間、夜道に生徒たちの叫び声が木霊していく。寺田もそのときは叫び声をあげた。それと同時に、全身に鳥肌が駆け巡った。
学校に戻ると、教師は聞く。
「林間学校で一番思い出に残るもの。楽しかったのは何だ?」
生徒たちに人気があったのはアスレチック。次点で飯盒炊飯、キャンプファイヤーであった。その中で寺田だけは、肝試しに手を挙げる。
「えー一番はないだろう」
「怖がって叫んでたくせに」
他の生徒たちは馬鹿にするか、寺田に対して引いていた。それでも寺田は本心からそう思ったのだ。あのときの鳥肌は人生観を変える、たまらない特別なものだったから。
3
中学、高校に進んでから、寺田はあのときの快感をもう一度味わうためにホラー関連のテレビや雑誌を見続けた。確かに恐怖で戦慄することは多々あったが、それでもあのときの感覚を得ることはできなかった。
大学に入るとホラー関連のサークルがあり、興味はあったものの入ることはなかった。名前を書けば誰しもが入れるような大学に進んだ寺田は、両親からの仕送りを貰えることはなく、夜はバイトせざるを得なかったから。昼は講義を受け、夜はバイトの生活サイクルが確立されていくと、必然的にホラーから遠ざかっていった。
お世辞にも中学、高校で友達が多いとは言えなかった寺田であったが、大学では講義を一緒に受ける友達も増え、バイト先で知り合った同じ歳の彼女もできた。
「寺田くんって満たされてるよね」
不意に、当時の彼女はそう言った。寺田はコーヒーに映る自分の顔を見た。作り笑顔という名の仮面を浮かべている、何とも不気味な自分がいる。
「そうかな?」
「うん、そうだよ」
寺田はコーヒーにミルクを入れると、スプーンで黒と白をゆっくりと混ぜる。不気味な自分をその渦の中に消えさせると、一気にそれを飲み干した。
傍から見たら、満たされているのかもしれない。それでも寺田はどこか満たされない自分がいた。その理由が何なのか。寺田自身はその答えを知っていたが、それを解決する時間を持ち合わせていない。しかし、それを解決する方法は意外と身近に存在していた。
4
偶然見つけた不動産屋のWEB広告。そこに掲載されているアパートの一室だけ、他より格段に安価であった。部屋の広さは今とさほど変わりはないが、それ以外は好条件である。駅から近く、周囲には商店街やコンビニもあり、家賃は十分の一。
なぜこうも安いのか、寺田には何となく予想することができた。おそらく事故物件であろう。誰かしらがこの部屋で亡くなっているに違いない。寺田は想像した瞬間、若干の鳥肌が腕に生じる。それを見た瞬間、気がつけばそこの不動産屋に電話をしていた。
「やぁやぁやぁ。どうぞこちらに」
寺田が約束の時間に不動産屋へ訪れると、中からオーナーである椎平が笑顔で出迎えた。寺田はその笑顔を見て、ついこの間の自分と同じ仮面をしていることに気がつく。誘導されるがままソファーに腰を下ろすと、そのまま対面に椎平が座った。
「今日はご足労いただき、ありがとうございます」
椎平は名刺を差し出すと、寺田は受け取りながら軽く周囲を見回した。土曜日の昼前というのに、他に客はいない。それどころか、椎平以外の従業員も確認できない。その様子に気がついた椎平は、テーブルに書類を置きながら言った。
「今ちょうど出払ってまして」
「あ、いえ…そうなんですね…」
寺田は気不味さゆえに、置かれた書類に視線を向ける。そこにはWEB広告で見かけた、例の物件名が記載されたファイルがあった。寺田がそのファイルに神経を向けていると、椎平の笑みは増していく。
「その様子を見ますと、寺田さまはすでにお気づきかもしれませんが…」
寺田は椎平から発せられる次の言葉を待ち望んだ。僅か一秒にも満たぬ時間であったが、その間にも寺田の脳裏には当時ドキュメンタリー映像でしか見たことのない事故物件の映像が流れていた。
「事故物件なんですよ」
その言葉に、寺田の全身を鳥肌が駆け巡る。あの林間学校ほどではないにしろ、これは久々の感覚であった。寺田の脳裏にはある情景が無意識に走る。暗闇の部屋に仮面が落ちた。乾いた音を響かせると、カタカタと小刻みにバウンドし、やがて静かになった。その瞬間、寺田の表情は素顔を覗かした。
「そもそも事故物件の告知義務ってあやふやなんですよ。告知期間は三年ってガイドラインで制定されているんですが、入居者が亡くなった後に別の方が一度入居された物件であれば告知しないケースもあるんです。それに自然死や不慮の事故、同建物内の別部屋で起こった死や、入居者の使用頻度が低い共有部分で起こった死などは告知する必要もないんです。ただ入居者から事前に教えていなかったことによるクレームなどもありますので、自主的に告知するのもいいのかなと。まぁ最終的にはオーナーと不動産屋の判断ですね」
椎平はジェスチャーを加え、軽快に事故物件の告知について説明してきた。寺田は時折相づちを挟みながら、早くファイルの中身を見せてくれと心の中で発していた。
「まぁ弊社としましては、もし寺田さまがこの物件を契約していただきましたら、入居者が亡くなってから初となります。それを踏まえたうえで、これから説明させていただきますね」
映画の本編が始まる前の宣伝、心霊スポットに向かう前の出演者による雑談。それらどれもが、始まる前の前菜に過ぎない。それを踏まえて楽しむのが作品の在り方だと思っていた寺田は、それを今否定した。
心の声が通じたのか、椎平は口角を上げてファイルを開く。
「お待たせいたしました。この物件の詳細ですが…」
寺田が案内された物件は、ファイルに書かれている通りだった。駅からは近く、徒歩圏内に商店街やコンビニが配置されている。そして今とさほど変わりない部屋の広さであったが、その中心には大きなシミが描かれていた。
「このシミですか…?」
「はい。事務所で説明させていただきました通り、前入居者の血痕になります」
前入居者はこの部屋で亡くなった。死因は出血死である。その理由は不明だが、ここで自身の首を刃物で刺している。そのときに発生した血の跡が、今でも残っていた。
「床の張替えをするにしても費用が増しますし、次の入居者さまには告知の義務がありますので、三年間は張り替える予定がないそうです」
椎平は表情を変えず、淡々と説明をした。まだ内部見学を始めてから僅か数分しか経過していなかったが、すでに寺田は興味を惹かれている。
「ここにします」
まだ収納スペースや、トイレ、洗面所の確認を終えていないにもかかわらず、寺田は無意識にそう言った。椎平はそのことに驚くこともせず、書類を取り出す。
「ありがとうございます。では、契約書になります」
5
バイト代のほとんどが家賃へと消えていった寺田であったが、事故物件に引っ越したおかげで、その費用は抑えられることができた。その分を何かに充てることもなく、バイトの時間を減らすことにした。そうすることで、ホラーから遠ざかっていた時間を取り戻そうとしたのである。
余裕ができた時間を大学にあるホラー関連のサークルに使うことも考えたが、せっかくの事故物件に住むことになった寺田は、この貴重な時間を部屋で過ごすことに決めた。
誰かの話を聞いたり、見たりするのではなく、自身がこの場所で体験できるのだ。わざわざ心霊スポットに出向く必要もなく、この部屋がそのものであった。期待を膨らませる寺田であったが、実際に何かを体験することはなかった。
部屋で過ごす時間が多くなった寺田の生活環境は一変していく。バイトの掛け持ちも一つに絞り、最低限の生活ができる費用しか働かなくなった。
大学三年になると必要単位をほとんど取得したことで、自然と大学に向かう回数は減っていく。今まで講義を一緒に受けていた友達とも出かけることはなくなり、連絡のやり取りもすることはなくなった。それは彼女も例外ではない。
それは、ある日のバイト中であった。飲食業で裏方をしていた寺田は、注文がない時間は皿洗いをし、それさえ済めば基本的に暇な時間を過ごさなければならない。
寺田はその時間を潰すときは、疲れた体を癒すために小さな脚立を椅子がわりにして仮眠を取っていた。それも以前の話であり、今はそれほど疲れを覚えていないため、スマートフォンの遠隔アプリを使い、自身の部屋の様子をただ眺めていた。もし、自分がいなかったら、どのような怪奇現象が起こるのか。その好奇心からペット用の録音機能のある遠隔カメラを購入し、外出時の時間がある際には確認を怠らなかった。
同じシフトであった彼女は、スマートフォンを眺めている寺田に近づく。
「最近、反応悪くない?何で」
前のように出かけることや、連絡の頻度が下がった寺田に対して、彼女は不機嫌さを露わにした。
寺田は家から一番近いという理由で唯一続けたバイト先は彼女と同じ場所であったため、シフトが被れば彼女と遭遇する。寺田自身も彼女のことを嫌いになってはいなかったが、興味が他に移ってしまっただけ。そのせいか、目の前にいる不機嫌な彼女を相手にするのも面倒であった。
寺田は適当な相づちをするだけで彼女に視線を向けることはなかった。彼女の不機嫌さが収まることはなく、勝手に寺田のスマートフォンを覗き込んだ。
「何それ?」
「ん、別に」
「誰の部屋?」
「俺の部屋」
「何それ?」
意味もない質問に寺田は最終的に返答をやめた。それに構うことなく彼女は続ける。
「そんな模様あったっけ?」
彼女は寺田が引っ越したことを知らなかった。
「引っ越したからね」
「何それ?聞いてないけど」
「言ってないからね」
寺田の態度に、彼女の怒りは増していく一方だった。
「は?何で?」
無視する寺田の手を彼女が叩くと、床にスマートフォンが落ちた。寺田は溜め息を吐き、何事もなかったように拾い上げ、ポケットにしまう。寺田は脚立を畳み、元の場所に戻していると、彼女は言った。
「さっきから何なの?その態度」
寺田はようやく彼女の方を向いた。
「血痕。人が死んでるの」
その言葉に、彼女の眉間に皺が寄る。
「は?」
寺田は淡々と言った。
「今事故物件に住んでんの」
「は?」
「もう君に興味ないの」
料理の注文が入ると、厨房のモニターに料理名が反映される。寺田は外していた帽子を被り、その中に髪を押し込んだ。キッチンに向かう際に彼女の横を通り過ぎると、彼女は呟いた。
「…気持ち悪い」
6
寺田と彼女が別れるのは、自然なことであった。大学の友達とも疎遠になり、寺田の心の拠り所は部屋となっていた。それでも永遠に住めるわけではない。当初の契約は一年となっており、次回の更新の際は通常の家賃に戻ることが契約段階で決められていた。
そんな金銭に余裕のない寺田が、この部屋の契約延長をするのは無理な話である。そこで寺田は椎平にある依頼をした。
「他に事故物件はありますか?」
椎平は口角を上げ、笑みを浮かべるが目の奥は黒く濁っていた。
「ありますよ。ホームページに掲載されていない物件も」
家賃が安いことに越したことはない。それに寺田は心霊体験という非日常も欲していた。今の部屋で何か特別な出来事が身に起きたわけでもない。しかし、このまま事故物件に住み続けることで、何かが起こりうるかもしれない。
「是非…お願いします」
寺田の事故物件生活は、こうして始まった。
7
寺田は自身の体験を文字に起こすことにした。いわゆる、事故物件ブログである。
体験といっても、ただ事故物件に住んでいるだけの文章では、読み手の好奇心を引き出すことは不可能である。
これまで読み手としていくつものホラー関連の記事を読み漁った寺田は、読者が何を求めているのか把握していた。それは緊張からの驚きである。
緊張はどうにでも表現できた。実際の私生活を臨場感のあるように書き起こせばよかったのだ。重要なのはオチとなる驚きである。そこは虚偽だとしても、演出を加える必要があった。実際に体験はしていなくても、誰かが夜な夜な部屋を駆け回り、朝目が覚めると床には無数の足跡があったなど。
寺田は文章を書き起こし、実際の部屋の様子が分かるように写真も掲載した。もちろんオーナーには許可を得ていたわけではなかったため、どこの物件なのか不明確のままとなる写真を厳選した。本物の血痕の周りに、似たようなペンキで足跡を演出すると、すぐにそれを拭う。
寺田は一定の間隔で更新していき、椎平から紹介された新たな事故物件に引っ越しては、またブログを更新していく。そして文章力と表現力を向上させるためにも、他の記事を読んでみては、良いところを搾取していた。
そのかいもあって着実と読者数が増えていったが、その分批判的なコメントも増していった。基本的には記事の虚偽を指摘する内容であったが、それでもコメントの半数は楽しみにしている読者もおり、中には物件の詳細を知りたい者もいれば、特定しようとする者もいた。
そのような生活を続けている寺田であったが、文章の世界では様々な怪奇現象を体験しているものの、実際の世界ではそのような体験は皆無であった。自身の思い描いていた生活とは何か違うといった感覚を覚えつつも、事故物件に住むこと自体は好奇心を刺激された。
事故物件の更新はオーナーによって異なっていた。それでも椎平はまた違う物件を用意してくれる。
「ここは前入居者が首を吊りまして…」
「お風呂場で手首を切って…」
「息子さんが包丁で…」
様々な要因で事故物件となった部屋を転々としていくと、気がつけば大学を卒業していた。入学当初とは打って変わって、寺田の孤独な大学生活は幕を閉じたのである。
事故物件に夢中になっていた寺田は就職活動を失念しており、どこかの企業から内定をもらっているわけではない。それでも今の生活なら、バイト代だけで生きていけると楽観視していた。
寺田はこの日も血痕の横で寝そべりながら、スマートフォンを片手にホラー関連の雑誌を読んでいた。そして最後のページの片隅に、ライター募集の記載を見つける。
『未経験者大歓迎!ホラー好き!文章を書きたい方、大募集!』
その横にはURLがリンク付されており、寺田は考えもせずにタッチした。すると募集ページに画面が飛び、寺田は必須項目を入力していく。最後に応募ボタンを押すだけとなったとき、寺田は一瞬だけ手を止める。
特に何かをしたいわけではない。この生活をして尚且つ収入を得られるなら。寺田の止まっていた手再び動き出し、応募ボタンをタッチした。
8
それから五年。寺田は今でも事故物件を転々とし、記事を書いている。ただ書く場所がブログから雑誌に変わり、最も変わったのは環境であった。
社長兼編集長の村上を始めとし、チーフの梅野、小藤田といった四人体制で『隔月 ゾウ』というホラー雑誌を出版していた。正確には寺田が勤めている会社は、四人しかいない。
村上は編集長というのは名ばかりで、好き勝手コラムを書いては梅野が校閲をしている。梅野は寺田や小藤田の校閲もしており、修正箇所を指示していた。記事の内容として、梅野は都市伝説関連を扱っており、小藤田は心霊スポット関連を扱っている。
この会社には最低限の福利厚生しかなく、家賃手当はもちろんのこと、交通費さえも自己負担を強いられていた。寺田自身は好きで事故物件に住んでおり、斡旋してくれる椎平という存在がいたため、物件の確保に苦労はしていない。その反面、小藤田は遠方でも心霊スポットに出向く必要があったため、交通費や必要に応じて宿泊費が自身の生活を苦しめていた。
「それでも好きなことをして、お金がもらえるなら…嫌なことしてお金もらうよりは幸せだよ」
小藤田は今にも消えそうな笑みを浮かべながら寺田に言った。
9
この会社に残業代は存在しない。仕事場所も基本的には問わない。ただ直接やり取りを必要としている場合、事務所に足を運ぶ必要があった。
勤怠は村上が管理しており、全員分の勤務時間を九時から十八時と毎日入力していた。時間外労働は自由であり、個人の采配に任せている。とはいうものの、寺田、梅野、小藤田は期日を間に合わせるためにそれ以上の時間を費やすしか方法はなかった。
無事に校了を終えると、恒例の飲み会が開催された。村上は体育会系色が強く、参加は半ば強制的である。
「お疲れい」
勝手に注文されたビールジョッキを各々が片手で持ち上げると、それを軽くぶつける。村上は喉を軽快に鳴らし、ジョッキの半分を空にした。
「今回も素晴らしいコラムでしたね。社長」
梅野が分かりやすく持ち上げると、村上は上機嫌に口を動かした。
「さすが。分かってるねぇ。寺田も小藤田も知りたいだろ?ん?」
梅野は校閲を任されている関係で雑誌の内容を把握していたが、寺田と小藤田は出版された雑誌を自費で購入するまではその中身を知らない。この質問は毎回の決まりであり、寺田は定型文の回答をする。
「はい!早く知りたいです」
普段の性格とは違う自分を演じるこの時間だけは、苦痛で仕方がなかった。寺田の発言に、村上は満足そうに頷く。
「まぁ待て待て。ちゃんと購入して、その目で確かめな」
残りのビールを飲み干すと、梅野は店員に追加のビールを全員分注文する。次のビールが運ばれてくる前に、残りのビールを飲み干さなければならない。梅野はアルコールに強いため事なきを得たが、飲みなれていない寺田と小藤田には苦行であった。
寺田は入社してから今日まで、これを乗り越えるしかなかった。特に学もなく、好きなことをして対価がもらえるなら、仕方のないことである。転職したところで、興味もない肉体労働しか残っていないからだ。
寺田のスマートフォンが振動すると、ポケットから取り出し、テーブルの下で確認した。村上は焼き鳥を頬張り、寺田に聞いた。
「どうした?」
寺田はすぐにスマートフォンをポケットに戻し、村上の方に視線を向ける。
「いえ、あの同窓会の誘いでして」
本来なら二十五歳の節目に開かれる予定だった同窓会も、コロナウィルス蔓延による自粛要請によって三年越しの開催である。その知らせが、寺田のもとに届いた。
村上はもう一串手に取り、下から一気に口の中へと放り込んだ。それを流し込むかのようにビールを飲み干すと、梅田は再度お代わりを注文する。
「よし。お前のネタはマンネリ気味だからな。参加して、刺激をもらってこい。いいネタがあったら、それを記事にしろ」
寺田は急いで残りのビールを飲み干し、グラスを置いた。
「え、同窓会にですか?」
「それ以外、話の流れ的にないだろ。いいな?」
村上は新たに運ばれてきたビールに口を付ける。
二十歳の節目の際は参加することなく、部屋に引きこもっていた寺田であったが、村上の指示によって参加せざるを得なかった。当時の同級生に会ったところで、何を話せばいいのかと、複雑な心情を抱いた。
飲み会も三時間程度を我慢すれば解放される。梅田は中間ポジションに位置していることもあり、村上を引き取ってくれる。
「お前たちは帰っていいから。お疲れ」
村上が席を外すと、決まってそう言う。寺田と小藤田はその言葉に感謝するしかなかった。会計も済まし、店の前で解散すると、アルコールの気持ち悪さが加速する。緊張の糸が切れるとはこのことであった。
寺田は最寄り駅まで小藤田と帰っていると、小藤田は路地裏に駆け込み嘔吐した。
小藤田は半年前に中途入社した新人であり、歓迎会を含めた飲み会を合わせ、まだ四回目の参加であった。寺田はこの光景を見るのも、四回目となる。戻ってきた小藤田に寺田は言った。
「大丈夫?」
慌てふためくわけでもなく、背中を擦るわけでもなく、水を用意したわけでもない。ただそう発しただけである。それでも、小藤田は作り笑いを浮かべて感謝した。
「ありがとう。大丈夫」
寺田はこの小藤田のことをよく知らなかった。というよりは、別に興味を示していない。この仕事はほとんど個人作業であり、途中で梅野の指摘が入る程度であった。そのため、小藤田と会話するのは飲み会の帰り道しかない。それでも会話はほとんどなく、基本的には無言で駅を目指すだけである。しかし、この日は小藤田から話題を振ってきた。
「同窓会って言ってましたけど、寺田さんっておいくつですか?」
寺田は同窓会に参加するのを思い出し、憂鬱になる。そして愛想なく答えた。
「二十八ですけど…小藤田さんは?」
社交辞令として、寺田は同じ質問を返した。
「三十です。思い描いていた三十とは、違ったなぁ…」
急な無音に気まずくなった寺田は、自ら違う質問を投げ掛けた。
「…辞めたくはならないんですか?」
小藤田は今にも消えそうな笑みを浮かべながら寺田に言う。
「それでも好きなことをして、お金がもらえるなら…嫌なことしてお金もらうよりは幸せだよ」
10
少しのリアルさと、ほとんどの嘘で固めた文章を書く日々。事故物件も新鮮なのは最初のうちで、住んで一カ月ほどしたら特別な感情は消え失せてしまう。
洗面所に残る血痕、壁に残る傷、人型に腐敗している畳だって、寺田にとっては一種の模様にしか思えなかった。
毎日嘘の文章を書くためにキーボードを打ち続けて、何の意味があるのか自分自身に問い掛ける。あの頃のような好奇心はどこに消えてしまったのだろうか。寺田は袖を捲り、自身の腕を見つめた。いつからだろうか。寺田の腕に鳥肌が立つことは久しくなかった。
寺田は時刻を確認すると、溜息を吐き、打つ手を止めた。椅子から立ち上がり、クローゼットからクリーニングのタグが付いたスーツを手に取った。再び溜息を吐くと、それに着替え、同窓会へと向かうことにした。
受付をしていたのは、顔も名前も覚えていない同級生。名前を告げると、白紙のネームプレートを差し出される。
「ペンは後ろに置いてあるから、そこに当時のあだ名を書いて、胸に付けてね」
言われるがまま後ろに移動すると、当時のあだ名を思い出した。それは今も変わらず名字で呼ばれていたため、そのまま苗字を記入して会場へと移動する。
会場に入ると、すでにテーブルの周りには他の同級生たちが着席していた。テーブルの座席は指定されており、寺田は自身の名前が置かれている席を探す。
「おー!もしかして、寺田?」
一番端のテーブルから、寺田を呼ぶ声が聞こえた。その方に視線を向けると、紺色のジャケットを着た男が大きく手を振っていた。寺田はそのテーブルに近づくと、男のネームプレートには、よっちんと書かれいる。寺田は当時のことを思い出し、その男が吉村であることが分かった。
寺田は自身の席に座ると、吉村の他に座っている同級生たちのネームプレートを確認した。ほっしい(星田)、こばしゅん(小林)、あこ(三森)。そして当時密かに恋心を抱いていた、はる(東雲)であった。
吉村と星田はサッカー少年であり、運動神経や見た目も良く、クラスのカーストは上位に位置していた。吉村は今も爽やかであり、当時と変わらず人気者であることが予想できる。反対に吉村は髪が少し後退しており、体格も弛んでいたことから当時の面影は残っていない。
小林は見た目も運動神経も人並みであったが、勉強だけは他よりも優れていた記憶があった。きっといい大学に進み、大手企業に勤めたのだろうと掛けている黒縁眼鏡を見て寺田は思った。
東雲と三森は当時の言葉で言うニコイチであり、基本的には一緒に行動していた。二人とも美人であり、三森は運動神経が良く、東雲は英語が得意であった。そんな高嶺の花に恋い焦がれていた寺田は、ひたすらに妄想世界で疑似恋愛をするしか方法はなかった。
時間が経過していくと、周りのアルコール摂取も増していく。それに比例して、同窓会の盛り上がりも増していった。最初は職業に関する話ばかりであったが、それは次第に拡大していき給料や貯金、最近の性事情まで赤裸々に公表されていく。
席も関係なくなり、自由に移動してはそのまま立ち飲み食いしながら会話する者もいれば、適当な空いてる席に座る者もいた。カウンターにドリンクを取りに行っている間に、寺田の席は他の誰かが座っている。行き場を失った寺田は辺りを見回し、仕方なく近くの壁に寄りかかった。
「飲んでる?」
顔を真っ赤にさせながら吉村は寺田に話しかけた。寺田はグラスをそっと前に出して頷いた。
「そこそこだけど」
吉村はポケットに片手を収めながら、陽気にビールを一口飲んだ。
「まさか好きなことを仕事にしてるなんて、羨ましいわー」
この雰囲気に馴染めていなかった寺田は、吉村の扱いに困惑した。特別に仲が良かったわけでもないため、何を話せばいいのかと考える。吉村は身体を揺らしながら、さらに一口ビールを含む。
「ライターってことは、何か記事書いてるの?」
寺田は仕事を聞かれた際に、自身の職業を答えていた。そのときは何を書いているかまでは、誰も触れていない。
「まぁ…ホラー系の」
「ホラー系?へぇー、どんな?」
社交辞令なのか、興味を持っているのか分からなかった。寺田はあのときのことを思い出す。自分だけが、肝試しに手を挙げたことを。寺田は吉村を一瞥し、酔いが回っていることを確認した。
「事故物件について」
「事故物件?」
「そう、事故物件」
意外にも吉村は食いついてきた。
「それって、家賃が安いって本当?実際に寺田は住んでんの?」
引かれて終わると思った寺田は、予想外の反応に少し驚いていた。
「かなり安く住ませてもらってるよ」
「へぇー」
吉村は勢いよくビールを飲み干す。
「ちょっと待ってて!お代わりして来る」
空いたグラスを片手にビールをもらいに行こうとしたが、吉村は足を止めて振り返る。
「寺田は?」
気を遣われることに慣れていない寺田は、少し言葉がどもる。
「あ、え、大丈夫」
吉村は笑顔を向けた後、ビールを取りに行った。
吉村は星田と楽しそうに談笑しながら戻ってくる。
「事故物件って、どうなの?」
来て早々に質問をしてくる星田。寺田は星田の顔を確認すると、吉村に負けないぐらい顔が真っ赤であった。
「どうって?」
「部屋の感じとかだよ」
寺田は少し考え、グラスに映る自分の顔を見た。
「血痕とかはあるよ。それに…」
吉村と星田は顔を頷かせ、前のめりになって続きを欲している。
「何か嫌な雰囲気はあるよ。普段とは違う…不気味な視線とか」
もちろん、そんな雰囲気や視線を感じたことはない。それでも寺田は二人が欲していることを想像し、少しの脚色を加えてみせた。案の定、吉村と星田は反応を見せる。
「うおーこえぇ。今度行ってもいい?」
吉村の提案に、星田も同調する。
「うんうん。いいだろ?」
家に誰かを招いたのは、大学の頃に付き合っていた彼女だけであった。それも事故物件に住んでからは皆無である。寺田自身も複数人が空間に存在したら、どのような現象が起こるのか興味はあった。それでも誰かを呼ぶということは、しばらく人との関係に距離を置いている寺田にとって、難しいことである。
「いや、でも」
断ろうとすると、会場に着席のアナウンスが入る。時間を確認すると、同窓会の終了時間になろうとしていた。助け舟が出たと安堵する寺田であったが、吉村と星田は席に戻っても、その話を続けた。
「なぁ、いいだろ?今度でいいから」
吉村の言葉に、三森が反応した。
「何が?」
寺田は事故物件に住んでいることを、東雲には隠したかった。今でも恋心を抱いているわけでもないが、それを聞いて引かれるのを恐れていた。
何とか誤魔化そうと考えたが、寺田にそのすべはなかった。星田は率先して言う。
「いや、寺田が事故物件に住んでてよ。一度行ってみたいんだ」
小林はおしぼりを摘まみ、擦るように指を拭いた。
「事故物件って。別に何もないだろ」
小林の言う通り、事故物件に住んだからといって、何かあるわけでもない。それでも否定的な発言に、寺田の感情は少しだけ苛立ちを覚えた。
三森は意外にも興味を示していたが、東雲の顔は引きつっている。東雲は寺田の方を向き、心配そうに言う。
「怖くないの?」
当時より美人になった東雲の顔を、寺田は直視することができなかった。
「まぁ…仕事、だから」
「仕事?」
なぜか吉村が説明を加える。
「寺田はホラーライターで、事故物件の記事書いてんの」
星田は急に両手を叩いた。その音で寺田たちの視線が集中する。
「今度、みんなで寺田ん家に行こう!」
吉村は寺田を指差し、笑顔で同調した。
「いいねー!しかもこのメンバーって、林間学校の肝試しメンバーじゃん」
それを聞いた寺田は、あのときのことを思い出した。夜道に叫び声が木霊し、全身に駆け巡る鳥肌。そうだ、このメンバーだったと。
乗り気な三森は東雲の腕を掴み、その提案に賛成した。
「いいよー!面白そう!ねっ、はる?」
怖いものが嫌いな東雲は内心拒否をしたかったが、空気を察して作り笑顔を浮かべるしかできない。
「え、そうだね」
しかし、小林だけは違う反応をする。溜息を吐くと、淡々と言った。
「いや、行ってどうすんの?行ったところで何かあるわけでもないし、予定だって合うかも分からないし」
一人冷静な小林に、吉村も溜息を吐いた。
「いやだねぇ。浪漫がないよ」
星田も頷く。
「うんうん。リアリストだ」
小林は応戦しようとしたが、三森の言葉に同調を余儀なくされる。
「もしかして、こばしゅん怖いの?」
「信じてないだけ。いいよ、ただの部屋に行ってやるよ」
寺田が許可したわけでもなく、寺田の家に訪れることが決定した。それに気づいた東雲は、寺田に確認する。
「寺田くんはいいの?」
「えっと、その…」
困惑する寺田を見て、吉村は両手を合わせて前に出した。
「頼む!寺田の都合のいい日で」
寺田は軽くみんなの表情を一瞥してから、頭を縦に振るしかなかった。
「じゃあ、今度…」
それに覆いかぶせて星田は言う。
「近々で頼むよ!」
「う、うん…」
時間が経てば、忘れてしまう。このときの勢いだけの約束と、寺田は思っていた。しかし、この一週間後。吉村から連絡が入った。
11
同窓会の幹事から寺田の連絡先を聞いた吉村は、寺田を喫茶店へと呼び出した。
その理由は同窓会での約束に関してだろうと、寺田はそう思った。予定がある。風邪を引いている。そんな断り文句を考えたが、違う日に呼び出されるだけと判断した寺田は、仕方なく喫茶店へと出向いた。
寺田が店内に入ると、奥のテーブルから手を振ってくる吉村の姿に気がついた。駆け寄ってくる店員に吉村の方へ指を差すと、そのまま寺田は奥のテーブルへと向かう。
「悪いな。急に」
吉村の前にはアイスコーヒーとカツサンドが置かれていた。それを一瞥し、寺田が椅子に腰を下ろすと、店員は注文の確認をしに来る。寺田はメニューを見ないまま、アイスコーヒーを注文した。
「いや、大丈夫だけど。あの件?部屋に来るっていう」
吉村は頭と指が連動したかのように、上下に動かせてみせる。
「そうそう!それそれ!」
ご機嫌な吉村はカツサンドを頬張り、アイスコーヒーを勢いよく口に含んだ。
「いつが都合いい?」
寺田はこの吉村のマイペースさが苦手であった。勢いよく、相手の懐に入ってこようとする感覚に、寺田は対処の仕方を知らない。
「忙しいからなぁ…みんなの都合が合う日ってあるの?」
「いつでもいいって!寺田に合わせるから」
それを聞いた寺田はスマートフォンを取り出す、確認する素振りをしてみせた。そして、無理を想定して言う。
「いや、本当。今日の二十時なら来ても大丈夫だけど…」
その言葉に、吉村の反応は予想と違った。カツサンドを口に押し込み、手を豪快に払うと、鞄からスマートフォンを取り出す。口にまだカツサンドが入っており、何を言っているのか寺田には聞き取ることができない。
しばらく画面を見ては、指を動かしている吉村。残り僅かなアイスコーヒーを飲み干すと、寺田に視線を向ける。
「とりあえずみんな来れそうだけど…」
その言葉に寺田は驚くと同時に、自身の部屋を思い出した。基本的に無駄なものを置いていない寺田は、急いで何かを片付ける必要はない。ただあの狭いスペースに、六人も収まることができるのかと不安になった。
吉村の視線はスマートフォンに戻り、左手だけで謝る仕草を見せた。
「ちょっ、ごめん。こばしゅんだけ反応悪いから、電話するわ」
そう言うと、吉村はその場で小林に電話を掛ける。無理に誘う必要もないと思った寺田であったが、すでに吉村の電話は小林と繋がっていた。
「もしもし。おう。暇だろ?来いよ」
通話をしている吉村の態度が、寺田から見て高圧的に思えた。
「うん。今日の夜。そう。あこも来るってよ。うん」
通話を終えると、吉村は鞄にスマートフォンを戻した。
「おけ。みんな来れるってよ」
「あこって、三森のこと?」
その質問の意図を読み取った吉村は、淡々と言う。
「ん?ああ。小林はあこに気があるからな」
寺田は少し驚きながら聞く。
「え?そうなんだ。小学校のときから?」
「そうそう。だから、同窓会にも来たんじゃない?」
吉村は腕時計を確認すると、慌ただしく席から立ち上がった。
「すまん。この後予定あるから、先行くわ。また二十時に」
そう言うと、吉村は小走りで店から出ていった。寺田は去っていく吉村の背中を見ながら、夜に迎え入れなければならないという事実に落胆する。
残っているアイスコーヒーを飲んでいると、寺田は置かれている伝票に気づく。まさかと思いながらも確認すると、吉村が注文した未会計の伝票であり、寺田は深い溜め息を吐いた。
12
一番乗り気ではなく、会場を提供する寺田は時間が近づくにつれて憂鬱であった。人数分の座布団を用意する気にはなれないものの、それでも最低限の準備はしようと動いていた。
簡単な軽食と飲み物を近所のスーパーで購入し、自宅に帰ろうとしたとき、道路沿いにあるレンタルビデオショップに目が行く。
寺田は自身が地蔵のように黙り込み、吉村たちが盛り上がっているのを眺め、終わる時間を待つという地獄は避けたい。その地獄を避けるために、ホラー関連のDVDを一つ借りることにした。
それは、今月発売の隔月 ゾウで村上がコラムにしていた『パラサイト・リゼントメント』。地獄を避けられ、村上の機嫌を取ることのできる最高のB級ホラー映画であった。
事故物件で初めての複数人ホラー映画鑑賞は、どのような変化が起こるのか。その点については、寺田も好奇心が沸いていた。
吉村たちが訪ねてくるまで、寺田は中央にあるテーブルを端へと移動させた後、適当に紙コップと軽食、飲み物を並べる。
まだ時間が少しあると思った寺田は、一人先に借りてきたパラサイト・リゼントメントをDVDデッキに挿し込み、部屋の電気を消した。部屋は薄暗くなり、テレビの明かりだけが室内を照らし、その目の前にある人型の血痕が不気味さを演出する。
寺田は遠隔カメラが起動されていることを確認していると、部屋に呼び鈴の音が響く。その音に過剰な反応をした後、すぐに寺田は停止ボタンを押し、テレビの電源を切った。部屋の電気のスイッチを入れ、小走りに玄関へと向かう。
憂鬱な気持ちも、自身の演出でどのような叫び声が聞けるのか、寺田は好奇心が勝り始めていた。
玄関の扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべる吉村と星田がいた。吉村は手土産を寺田に渡しながら、構わず入り込んだ。
「ほい。これ」
続いて、星田も手土産を渡してきた。
「サンキューな」
吉村と星田は靴を脱ぎ、そのままリビングへと向かっていった。呆然と見つめる寺田の後ろから、小林が声を掛けた。
「どんまい」
その言葉が何を意味するのか、寺田には分からなかった。渡された袋を二つ抱えたまま、最後に三森と東雲が一言声を掛けてからリビングへと向かう。
リビングからは吉村と星田の興奮気味な声が漏れていた。その声を聞きながら、寺田は玄関の施錠をした。そのままリビングに向かわずに、寺田は渡された袋の中身を玄関で確認する。
吉村が渡してきた中身には筆記用具や手帳、カレンダーが入っており、その袋を確認すると支店名までプリントされていた。寺田はそれを見て、得意先の配布物であることが容易に読み取れた。
星田の手土産も期待できないであろうと思い、寺田は続けて確認することはなく、洗面所の近くに置いてからリビングへと向かった。
リビングのドアを開けると、血痕の横で寝そべりながらビールを飲む星田と、それを見て、笑いながら写真を撮る吉村がいた。寺田はそれを見て、自身の部屋にも関わらず、そそくさとテーブルへと移動する。
小林、三森は勝手に用意してあったドリンクを開け、紙コップに注いでいた。東雲だけは遠慮して、ただ座っているだけである。
テーブルにやってきた寺田を見て、小林は紙コップを渡した。
「どれにする?」
その言葉に違和感を抱きながらも、寺田は手前の炭酸ドリンクを選んだ。小林は寺田の紙コップにドリンクを注いでいると、吉村に話しかけられる。
「ほら、こばしゅんも来いよ!」
小林は一瞬表情を強張らせ、首を振った。
「いや、いいよ。変な病気でも付いたら嫌だし」
星田は立ち上がり、片手に持ったビールを勢いよく飲み干した。
「ああ?ビビってんだろ?」
飲み終えた空き缶をテーブル台の上に置き、床に置いてある袋から新しいビールを取り出す。アルコールが入ると部屋を荒らされると思っていた寺田は、あえてアルコール類は用意しなかった。それにも関わらず、持参してきてアルコールを飲み始めていた吉村と星田に、嫌悪感を抱くしかない。
すでに飲んでから来ていたのか、小林に近づく星田の足はおぼつかないでいた。星田は小林の前に立つと、軽く頭を叩く。
「ほら。来いって」
小林の表情が再び強張ると、それを見ていた吉村は星田の肩に手を掛ける。
「おい。飲みすぎだって。悪いな、こばしゅん」
「いや、大丈夫」
吉村は頷き、笑顔で言った。
「だよな。俺らは対等だもんな」
「う、うん。だよな」
不機嫌に何かを呟いている星田を、吉村はソファーへと移動させた。寺田は小林の身体が微かに震えているのに気がついたが、それに対して触れることはなかった。
空気を呼んだのか、同窓会のときから事故物件に興味を持っていた三森は、小林に声を掛ける。
「せっかくだし、ちょっと見ようよ」
三森は寺田の方を見て、確認する。
「クリーニングした後に、落ちなかった汚れでしょ?病気とか心配ないでしょ?」
それに関しては問題ない。寺田が頷くと、三森は小林の手を引っ張った。
寺田は抵抗しない小林を見て、吉村が言っていた通り、小林は三森に好意を寄せていることが分かった。
テーブルに残された寺田は、ここでようやく東雲にドリンクを勧める。
「あっ…何か飲まれます…る?」
緊張もあり、敬語が混ざってしまうと東雲は微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、これもらおうかな」
東雲がオレンジジュースを選ぶと、寺田は注ぐべきか悩んだ。少しの間を空けてペットボトルに手を伸ばすと、同じタイミングで東雲も手を出し、互いが同じタイミングで手を引っ込める。
それをソファーから見ていた吉村は、横から口を挟んだ。
「なになになに?我が校のアイドルと寺田っち、何かいい感じじゃん?」
寺田は人生で初めて寺田っちと言われ、少し困惑した。それを聞いていた三森も口を挟む。
「え?そうなの?はる、聞いてないんだけど」
東雲は両手のひらを前に出し、振りながらそれを否定する。
「そんなことないよ。本当、偶々…」
星田は意味もなくビールを高く上げて叫んだ。
「よく分かんないけど、かんぱーい!」
吉村と三森も無駄にテンションを上げ、袋からビールを取り出した。
青春を切り抜いたら、こんな一ページが存在するのだろうかと寺田は思った。楽しそうに笑い、意味もなくアルコールを摂取し、理由もなく雰囲気で共感し合う。そんな時間を過ごしてこなかった寺田は、負け惜しみでもなく、気持ち悪いと感じていた。
じゃあ、なぜ東雲に対して緊張していたのだろうか。寺田はその違和感の理由を考えた。当時、恋心を抱いており、それが今でも思い出補正として感情を狂わせているのか。そもそも、なぜ恋心を抱いていたのか。美人であることは確かだが、妄想に駆られるほど、自身が人に興味を持つ人間なのか。寺田の頭の中に出現したもやは、数時間後には言葉として現れる。
「どうしたの?寺田っち?」
その呼び方は、三森にも伝染していた。星田もビールを勢いよく飲み、盛大に噯気を放ちながら言う。
「うふぅ。寺田っちも飲め、飲め」
三森が袋からビールを取り出し吉村に渡すと、吉村は寺田に向かって投げた。寺田は思わず受け取ってしまい、星田が手拍子をする。
「飲ーめ、飲ーめ」
そのリズムに吉村と三森も一緒になって手拍子をする。小林は冷めた目を向け、東雲は心配そうに寺田を見ていた。寺田は空気を読み、仕方がなく一口含むと、テーブルにビールを置く。あらかじめ用意していたDVDを、さも思い出したかのように言った。
「そーいえば、うちの編集長おすすめのDVDがあるけど、みんなで見る?」
特に何をやる予定でもなく、床にある血痕にも興味を示さなくなった吉村は、その提案に賛成する。
「いいねー!」
星田はうまく回らない舌を動かし、笑いながら何かを言っていた。寺田はそれを聞き取ることができなかったが、吉村は軽く星田の頭を叩く。
「ホラーに決まってんだろ」
小林は緊張が走ったかのように身体を硬直させていたが、三森が小林の背中を叩くと少し嬉しそうな表情を浮かべる。
「見よ見よ!ね!はる」
東雲は苦笑いを浮かべた。
「う、うん」
寺田はテレビの電源を入れ、DVDの再生スイッチを押すと、部屋の電気を消す。薄暗くなると、吉村の気分は高まっていた。
「いいねー!」
映画が始まると、寺田は静かに元の位置に戻っていった。
13
パラサイト・リゼントメントの内容はこうだ。事故物件に住む主人公がその部屋を調査していく、そこで亡くなった浮幽霊が自分の家だと主張し、主人公を呪い殺すという話。ありきたりな内容であったものの、実際に見ている場所が事故物件ということもあり、恐怖は増していた。
終盤のシーンで、主人公は壁の端が捲れていることに気がついた。それをよく見ると、クリーム色の壁は上から貼られているだけで、その下にある何かを隠している。
主人公は恐れながらも、その捲れている部分を摘まみ、ゆっくりと剥がしていく。すると、隠されていた人型の血痕が壁に現れた。
「何だ…これ…」
画面には息を荒くさせながら、薄暗い部屋で呆然とする主人公の顔が大きく映し出されていた。先ほどまで茶化すように見ていた吉村と星田も、このシーンでは固唾を飲んでいる。
寺田だけは吉村たちが画面を凝視している姿を見て、胸を高鳴らせていた。この緊張から驚きに変わるのは、どのホラーでも決まり事である。一体どんな絶叫が聞けるのか、期待を膨らませていると、そのシーンはやってきた。
先ほどまで緊迫し、静寂に包まれていた主人公の顔を、得体の知れない手が掴みかかった。唐突な大音量に、吉村たちの身体は大きく反応する。
「ひっ…」
微かに聞こえた悲鳴に、寺田の腕は小さな鳥肌が生じる。横目で見ると、東雲が身体を震わせていた。
その手は血痕から突如現れ、主人公の首を強く締める。
「うご…がが…」
主人公の唸り声と共に、口や目、耳から血がにじみ出ていく。その手が緩められることはなく、主人公を壁の中へと引きずり込んでいった。
「きゃあっ…」
東雲の悲鳴に、吉村たちは再度身体を大きく反応させた。吉村は東雲の方を振り返り、緊張から解放されたかのような安堵の笑みを浮かべる。
「なんだよー。びっくりさせんなよー」
東雲は全員の視線を浴び、恥ずかしそうに赤面していた。
「ご、ごめん…」
三森も同じように笑みを浮かべていた。
「もうー。はるは昔から怖がりだもんね」
そんなやり取りをしていると、気がつけば映画は終わっていた。その後、主人公がどうなったのか。それは唯一結末を見ていた小林しか分からない。
映画が終わったことに気がつくと、吉村は寺田に言った。
「寺田っち。ほら、電気」
ようやく反応した寺田は適当に相づちを打つと、部屋の電気を点けに立ち上がる。
「あ…うん」
寺田は電気を点け、再び元の位置に戻った。その間に、寺田の視線は東雲の顔を外さない。安堵している様子の東雲であったが、先ほどまで恐怖に怯えながら身体を震わせ、悲鳴を漏らしていた姿は、あのときの興奮を彷彿とさせた。
腰を下ろし、寺田は自身の腕を確認した。収まらない鳥肌を見て、身震いが起きる。寺田はこのとき思った。自分が求めていたのはホラーでも、誰かの叫び声でもなかった。恐怖に染まり、悲鳴を上げる東雲を求めていたのだと。
この日は映画を見終わった後、少しの雑談を挟んで解散となった。吉村は足がおぼつかない星田の腕を肩に掛け、玄関へと向かっていく。その後ろで三森が心配そうに声を掛ける。
「大丈夫?代行呼んでるの?」
小林は寺田に言いたげな表情を浮かべていたが、特に何かを言うわけでもなく玄関へと向かった。東雲だけは片付けをしようとしたが、玄関から三森の呼びかけが飛んでくる。
「はるー?行くよー」
「あ…うん。ちょっと待ってて」
東雲は寺田を見て、申し訳なさそうに軽く頭を下げ、慌てて玄関へと向かった。最後に残っていた東雲が靴を履いて外に出てくるまで、吉村は玄関の扉を押さえる。
「今日は楽しかったよ!サンキュー」
吉村は最後にそう言い残すと、玄関の扉は閉まった。寺田は少しの間を置いてから施錠をすると、リビングに戻った。
リビングの散らかった様子を見て、深い溜め息を吐く。キッチンからゴミ袋を持ってくると、適当に置かれた空き缶を放り込む。
寺田はテレビとソファー周りのゴミを片付け終わると、テーブルに視線を向けた。先ほどまで東雲が座っていた場所を見つめ、再び鳥肌が生じる。結局、複数人であろうと何か特別な現象が起きることはなかった。それでも演出することで、東雲は恐怖し、悲鳴を上げる。
寺田はゴミ袋をその場に置き、東雲が悲鳴を上げたシーンを確認した。主人公が血痕から浮き出てくる手によって殺されるシーンだ。それを見て、寺田は一人狂喜した。作られた恐怖ではなく、リアルな恐怖だとどうなるのか。目の前で人が死んだら、東雲はどう叫ぶのかと。
14
久々の来客や深夜までの片付けもあり、寺田が起きたのは十九時過ぎであった。途中、起きてトイレに行くこともあったが、気づけばこの時間である。寺田は重い腰を上げ、軽く伸びをしてから洗面所に向かう。
寝ぼけ眼で歯を磨いていると、足元にある星田の手土産が視線に入った。
「…忘れてた」
寺田は独り言を呟くと、袋の中身を確認した。取り出すと、寺田のサイズよりは少し大きめのポロシャツが入っていた。表面の胸辺りに星のマークがあり、裏返すと星田組重工と大きく書かれている。寺田はそれを適当に投げ、うがいをした。
それから数十分後に、吉村からの着信があった。何の連絡か見当がつかなかった寺田であったが、このとき喫茶店代を立替えたことを思い出す。
「もしもし」
電話越しから、吉村の申し訳なさそうな声がした。
「あ、寺田?いやー悪いんだけどさ、俺の腕時計見なかった?昨日、忘れてきたかも」
喫茶店で吉村が身に着けていた高そうな腕時計を思い出した。部屋に来たときもそれを身に着けていたかまでは、寺田は思い出せない。
「帰った後に片付けしたけど、それらしきものはなかったけど」
片付けをしないまま帰ったことに対し、吉村からの反応は何もなかった。吉村は悪びれもせず続ける。
「まじかー。今日見に行くことって可能?」
寺田は困惑しながら言った。
「…うちに?」
「そう。すぐ確認して、無かったら諦めるよ」
嫌な予感がした寺田は、咄嗟に嘘を吐いた。
「これから取材に…」
しかし、吉村にそれは効かない。
「悪い。ちょっと電池切れそうだから、今から行くわ」
通話終了の機械音だけが、寺田の耳の中で木霊する。スマートフォンを耳から離し、時間を確認した。夕飯を簡単に済まそうとしていた寺田は、一方的に約束をしてきた吉村の対応に戸惑う。何が正解なのか。居留守をすべきなのか、本当に取材に出掛けようか。そう考えていると、部屋にチャイムの音が響く。再び時間を確認すると、先ほどの電話から二分しか経過していなかった。
「おーい!開けてくれー」
扉越しに吉村の声が聞こえると、寺田に考えをまとめる猶予を与えなかった。動揺したまま、寺田は玄関の扉を開ける。そこには慌てる吉村がいたが、寺田はどことなく演技に感じた。
「わりぃな。急に」
言葉ではそう言うものの、吉村は確認も取らず靴を脱いでリビングへと入っていった。呆気に取られつつも、寺田は遅れてリビングに向かうと、すでに吉村は自身が昨日座っていたソファー周りを確認していた。
吉村は首を傾げながら言う。
「あれー…ないか…」
溜息を吐き、吉村は腕を確認した。
「あっ、ないんだった」
そう言って、今度は鞄からスマートフォンを取り出すと、軽く額を叩いた。
「そうだ。電池もないんだった」
吉村は寺田の方を向き、充電器を催促する。
「悪いけど、貸してくんない?」
すぐ帰ると言っていたが、帰る気はないのだろうかと寺田は思った。仕方なく充電器を貸すと、吉村は自身のスマートフォンをケーブルに繋げる。
「あ、そうそう。取材は何時から?やっぱり深夜とか?」
寺田の思考は一瞬停止し、無理やり言葉を発した。
「え、いや…そう。今から急いで県外に行かないと…」
吉村はわざとらしく驚き、寺田を急かす。
「え?まじか。ボーっとしてないで、早く行って来いよ」
「え、いや…」
「ん?ほら。間に合わないぞ」
寺田は今の状況を理解できないでいた。一向に帰る素振りをみせない吉村に、困惑をするしかない。
「吉村は?」
吉村はスマートフォンに電源が入ると、それを操作しながら平然と言う。
「俺?いやいやいや。さすがに取材はいいよ!俺は腕時計を探してるよ」
このまま話を続けても、らちが明かないと寺田は思った。吉村の狙いは分からないものの、ここで吉村を一人にしたところで何かしらの弊害があるわけでもない。幸い、盗まれて困るような物はなく、このまま吉村を帰るように説得するよりは自身が折れた方が楽だと寺田は思った。
自身の空間に他人を残したまま出掛けるのは、正直嫌いな部類である寺田であったが、そのような経験自体も当時付き合っていた彼女以来であり、事故物件に住んでからは初めてのことであった。
住んでいない人間を一人にしたら、どのような現象が起こるのか。そう実験的な感情に変換し、吉村を一人残していくことに決めた。
「…そうだね。じゃあ行ってくるよ」
寺田はノートパソコンを鞄に入れると、玄関に向かおうとした。振り返る寺田を、吉村は呼び止める。
「ちょ、ちょ。待て待て待て」
「どうした?」
吉村は右手を差し出す。
「鍵だよ。合鍵でもいいから置いてってくんないと、開けっ放しで帰ることになるぞ」
「あー…」
決心した寺田であったが、鍵を渡すのは抵抗がある。とはいえ、出張へと急いでいる設定である寺田は、合鍵を渡すしか術はなかった。
「ごめん。忘れてた。戸締りよろしく」
「うぇい!」
上機嫌な吉村を見て、寺田は玄関の扉を閉めながら不安に感じた。
出張と噓を吐いた寺田は、どこで時間を潰すか考える。それと同時に、ようやく冷静に現状を考えることができた。考えた末に、行く道中で急遽出張が中止となり、部屋に戻ることを決めたが、それでも吉村を一人にして何かが起こるかもしれないという好奇心は残っている。寺田は近くのフランチャイズレストランに行き、そこで部屋の遠隔カメラを確認することにした。
突然の吉村の来訪により、まだ夕飯を済ませていなかった寺田はパスタを注文した。いつもなら簡単に済ませる寺田であったため、この出費は想定外であったとともに、吉村の喫茶店代を立替えていることを再び思い出す。
店員が運んできたパスタを食すと、今の部屋の様子をスマートフォンで確認した。起動するまで水を一口含み、画面に様子が映ると、寺田に衝撃が走る。そこには吉村と三森の交わる姿があった。
「もう疲れたよー」
「いいじゃん。いいじゃん。ほら」
「えー…もう」
「うわ…超いい」
そんな二人の姿を見て、寺田は食べたパスタを戻しそうになる。吉村の目的を理解した寺田であったが、このタイミングに戻ることを躊躇した。
吉村から小林が三森に好意を抱いている話を聞いていたが、自身が三森と付き合っている話までは聞いていなかった。小林がこの事実を知ったら、どのような反応を示すのか。そんなことを想像しようとしたが、興味のない寺田は静かに時間が過ぎるのを待つ。それから二時間ほど、その行為は続いていた。
ようやく三森が部屋を後にするのを確認すると、寺田は会計を済ませた。帰りの道中で、部屋の様子を確認しながら歩いていると、入れ替わりで星田の姿が映る。
「おー!さっそくだな」
寺田は星田の姿を見て、吉村は自身の家と勘違いしているのではないかと苛立ちが増した。
「鉄は熱いうちに打てだな」
「それ合ってんの?使い方」
吉村と星田は愉快そうに笑い、星田が持参したビールを飲み始めた。寺田は歩く速度を落とし、このまま部屋に戻るべきか考える。おそらく二人の雰囲気に圧倒され、言い返せない自分を想像した。少し考えた寺田は一旦帰宅するのをやめ、近くの公園へと避難する。
この時間の公園は人気もなく、昼間とは違う不気味な雰囲気をかもし出していた。寺田は古びたベンチに腰を下ろし、再び画面に視線を向ける。
「そんなに飲んで平気かよ?」
吉村の言う通り、星田の周りに空き缶が七つほど置かれているのが分かった。
「へーきだよー」
カメラで拾った声のため、いつも以上に星田の声は聞き取りづらかった。
「あれはどうなったんだよ?」
「ふん?あれ?」
「車だよ、車」
「あーあへね。うちでしょふんしたから、へへへ」
何の話だろうかと、寺田は耳を澄ませて聞き取った。そして、またしても衝撃な事実を知ることになる。
15
寺田は頃合いをみて、部屋に戻った。部屋に帰ってくる寺田を見て、吉村は特に慌てる素振りをみせない。
「お。お疲れー!どう?一杯」
星田は顔を真っ赤にして、寺田の方を振り返った。目線が安定していなく、泥酔状態であるのが分かる。
「おー、しゅはくのとーじょーだ」
直で聞いても、星田が何を言っているのか寺田には分からなかった。寺田は高鳴る鼓動を抑え、平常心で二人の近くに座る。
「出張が延期になって、帰ってきたよ」
聞かれてもいないことを話した時点で、寺田は自身が平常ではないことに気づいた。しかし、それに勘づくほど吉村と星田は冷静ではない。
「そっかそっか」
吉村は気に留める様子もなく、袋からビールを取り出すと寺田に渡した。飲みたい気分とは程遠い寺田であったが、仕方なく受け取る。
「寺田っちは彼女とかいないの?」
吉村がそう言うと、続いて星田も何か言っていた。寺田は受け取ったからにはと、ビールを一口だけ含む。
「今はいないよ」
「えーいつから?」
吉村は質問を続けた。寺田は吉村と星田の表情を観察し、様子をうかがう。おそらくカメラに気づいていないと予想した寺田であったが、悟られず気分良く帰ってもらうためにも合わせた。
「大学の途中から」
「何で別れたの?」
「何でって…自然消滅」
吉村の質問は止まない。今持っているビールを飲み干すと、新しいビールに手を伸ばす。それをまた勢いよく飲むと、質問は続けられた。
「理由あるだろう」
寺田は思い出そうとしたが、その理由までは分からなかった。
「あるとしたら、興味がなくなったからかな。俺が」
「ふーん。まぁそんなもんだよな」
星田の呂律は機能していなかった。何語かも分からない言葉を発しながら、ビールを前に出す。
「だどあえぶ、ばんばーひ!」
吉村だけはそれを聞き取り、星田のビールに自身のビールをぶつけた。
「かんぱーい!」
それに遅れて、寺田もビールをぶつける。二人が眠りにつくまで、寺田は我慢を強いられた。早くこの時間が去れと祈っていると、吉村と星田は明け方まで飲み続けた。
それから何度も吉村は寺田の家を利用した。その度に三森が来ては、入れ替わりで星田が来るというサイクル。
「今家を空けてるから、厳しい」
寺田がそう断っても、合鍵を受け取っている吉村は構うことなく言う。
「おけ。じゃあ勝手に上がってんね」
寺田は合鍵を返してもらうのを忘れるという痛恨のミスを犯していた。そう言った手前、予定もなく寺田は部屋を後にし、その間に吉村は利用する。
人と関わるのを避けていたわけではないが、興味もなく関わろうとしていなかった寺田は、何かと言いくるめてくる吉村への断り方を知らなかった。
いつしか自身の住んでいるこの部屋は、事故物件ではなくただの吉村の部屋と化していた。そう思った途端、寺田はこの部屋に住む意味を見失い、吉村への怒りが滲みでる。
東雲が座っていた部屋の隅を見て、あれ以来鳥肌は起きてこない。あの表情や悲鳴をもう一度見たい。そして吉村が訪れなくなるような恐怖を演出するしかない。そう思った途端、寺田は椎平に電話を掛けた。
「あ、もしもし…」
16
この日、寺田は椎平のもとへ訪れた。入り口のドアを開けると、相変わらず椎平の他に人はいない。椎平は寺田の姿を確認すると、笑みを浮かべて出迎える。
「やぁやぁやぁ。寺田さま。いかがされました?」
椎平が目の前に立ち止まると、寺田は歯切れ悪く言った。
「いや、あの、その。今住んでいる…」
椎平は何かを察したのか、途中で口を挟んだ。
「まぁまぁまぁ。立ち話も何ですし、どうぞこちらに」
そう言われて、いつものソファーに寺田は腰を下ろした。椎平はお茶を寺田の前に置くと、ようやく対面の席に腰を下ろす。
「さてさてさて。いかがされました?」
寺田は出されたお茶を含み、何かを発しようとしたとき、椎平は右手のひらを前に向けた。
「いえいえ。分かります。分かりますよ。今のところを解約したいのですね」
その言葉に、寺田は驚いた。
「え、ええ。そうなんです。実は…」
またしても椎平は口を挟む。
「解約金ですね。オーナー側も寺田さまが入居してくれたおかげで、次の告知義務は不要になりますし、早い段階で修繕もできるから納得してくださりますよ」
椎平は寺田の頭の中を覗き込んだかのように、的確な答えをしてみせた。そして寺田の表情を観察し、口角をさらに吊り上げた。
「いわゆる習慣化でしょうか?刺激が足りないということでしたら…」
話の途中で椎平は席を立ち、奥の部屋へと姿を消していった。一人残された寺田は再度お茶を一口飲み、緑色に写る自身の顔を確認した。何か顔に書いているのかと思ったが、そんなことはなかった。
椎平は一つのファイルを持参し、テーブルに置くと、開いて見せる。
「これはですねぇ。とっておきですよ」
寺田の目に飛び込んできたのは、新聞紙の切り抜きであった。
『猫鳴町殺人事件』
この殺人事件は寺田も知っていた。今から十年ほど前に起きた殺人事件で、当時住んでいた橋本という男性が死体で見つかっている。早期退職をしていた橋本は独り身でもあり、近隣住民との付き合いも薄かった。
異臭が放たれるまで死体は放置され、殺害されてから発見されるまで一カ月ほどの期間が空いてしまった。当時は家の状況まではニュースに取り上げられなかったが、高校時代の寺田は妄想に掻き立てられた。
鳥肌までとはいかなかったが、寺田の身体は微かに震える。
「これって未解決…まだ犯人捕まっていないですよね、たしか」
椎平は表情を変えず、笑顔で頷いた。
「その通りです」
「もしかして…ここに?」
「はい。ちょうど本日から貸し出されました」
17
寺田の新居は、猫鳴町殺人事件の現場となった一軒家。入り口の扉は建付けが悪く、開けると軋み音が鳴る。小さな庭は荒れ果てており、物干し竿は錆びて使い物にならなかった。
玄関の蜘蛛の糸を適当な木の枝で払い除けると、寺田は受け取ってある鍵を取り出した。賃貸になる前のハウスクリーニングは一切していなく、家の外も中も荒んでいる。
椎平の話によると、当時の現場検証が終えた後、橋本の両親が依頼したハウスクリーニングが一度行われた程度。それも現場証拠が消失されない重要度が低い部分のみ。それ以来は放置され、両親も警察から許可を得たうえで家を貸し出した。
寺田は埃だらけの玄関で靴を脱ぐと、近くの百円均一で購入した簡易スリッパに履き替える。廊下で壁や天井を見回し、そこら中にある埃や蜘蛛の糸を見つめた。事前に受け取っていた用紙をポケットから取り出し、椎平の言葉を思い出す。
「ほとんどないと思いますが、警察による現場検証依頼が来た場合は可能な限り協力してください。また専門業者によるハウスクリーニングや、一階の掃除をする際にはここの箇所に注意してください」
用紙には一階の間取り図がコピーされており、赤い印と注意書きが記されていた。
『リビング 床 血痕有 消不可』
『リビング クローゼット 血痕有 消不可』
『キッチン 床 壁 血痕有 消不可』
この他にも壁に付いた傷跡の修復も不可と記されている。この注意書きを頼りに、寺田はマスクを装着すると、キッチンとリビングを確認することにした。
リビングの横には六畳ほどの和室がある。何年も雨戸が締め切りだったせいで、風や光を通していなく、畳は腐っていた。埃も大量に発生し、虫の死骸もある。
寺田は文章に脚色を加えているものの、住処に対しては基本的に既存のままで生活していた。リアルさを演出するために、多少施してから写真に収めては、すぐにそれを取り除く。今までそうし続けていたが、この物件はそうは言ってられない。人間が住める環境ではなく、仮に住み続けても新たな事故が発生してしまう空間がいくつもあった。
寺田は外に出ると、玄関の前でハウスクリーニングサイトを何件か確認する。この現状なら、記載されている額に上乗せされてしまうだろう。もちろん、この掃除は経費で落ちることはない。必要な経費を含めた安月給で遣り繰りするしかなかった。
無駄遣いすることはなく、趣味を仕事にしている寺田に貯金は確かにある。それでも今回のハウスクリーニングは、寺田に大きな金銭的ダメージを与えてきた。
指定した場所以外を除き、ハウスクリーニングは施された。畳の張替えも勧められたが、一人で一軒家に住むと必要としない箇所も存在してくる。寺田はリビング、キッチン、廊下に設置されたトイレと洗面所以外は生活環境から外し、和室と二階は簡単な掃除だけをしてもらい修繕は不要であった。
血痕以外の汚れが取り除かれたリビングに、三箱ほどの段ボールが未開封のまま置かれていた。寺田は荷解きを済ます前に、その段ボールの上に腰を下ろす。
「さて…」
寺田はリビングを眺め、今までとは違う雰囲気を感じた。それが何なのか、寺田には分からない。引っ越したてで気分が上がっているせいなのか、それとも猫鳴町殺人事件の現場だからだろうか。
寺田はゆっくり立ち上がり、鼓動を高めながらクローゼットに近づいた。引き戸に手を掛けようとしたとき、スマートフォンが鳴り響く。
いつもならマナーモードにしているはずのスマートフォンから聞こえてくる着信音。寺田の鼓動は加速していった。引き戸に向かっていた手を引っ込め、ポケットからスマートフォンを取り出す。そこには、村上の名前が表示されていた。
18
梅田からの進捗状況を確認する連絡は度々あったが、村上からの連絡は珍しかった。何かなければ連絡がないと思った寺田は、恐る恐る通話ボタンを押す。
「…お疲れ様です。寺田です」
電話越しから、村上の苛立っていることが伝わった。
「おい。小藤田から何か聞いているか?」
小藤田に何かあったのだろうか。特に話を聞いていない寺田は、困惑しながら言う。
「いえ、特には。何かありましたか?」
「何もなければ、こんな電話しないだろ」
その通りではあるものの、小藤田に対する怒りをこちらに向けられても困ると寺田は思った。
「すみません」
寺田が謝ると、村上は舌打ちをしてから言った。
「小藤田が飛びやがった。さっき、梅田経由で辞めることを聞いたんだけどよ」
飲み会の帰り道に言っていた小藤田の言葉を思い出す。
「理由は何ですか?」
「そんなこと知ってたら、わざわざお前に聞かねぇよ。まぁいい。もし小藤田に会ったら、事務所に来るよう伝えとけ」
村上は怒りをにじませながらそう言うと、通話を切った。寺田はスマートフォンを片手に、ある懸念を抱く。小藤田が担当していた心霊スポットに関する記事は、今後誰が担当するのかと。分かることは、自分の仕事量が確実に増えることであった。穴埋めをするためには、寺田と梅田が動くしかなかったのだ。
荷解きの途中であった段ボールを見つめ、小藤田に連絡をするべきか悩んだ。仮に小藤田が電話に出たところで、退職を撤回することはないだろう。寺田が部屋で立ちすくんでいると、スマートフォンが振動した。村上か、もしくは梅田かと思ったが、スマートフォンには小藤田の名前が表示されていた。
19
寺田は言われた通り、完全個室居酒屋に到着した。店内に入ると、店員が駆け寄ってくる。寺田は小藤田に指定された名前を告げた。
「山波で予約しているんですが」
その名前を聞くと、店員は奥の個室へと案内した。和風をコンセプトにしたその居酒屋は、個室の一つ一つに引き戸が用意されている。寺田が目の前の引き戸を開けると、そこには小藤田の姿があった。
寺田は軽く頭を下げ、目の前の座布団に腰を下ろして言った。
「お疲れ様です」
テーブルには袋に入ったままの箸と、綺麗なままの皿が置いてある。
「何も注文して…」
寺田はテーブルから小藤田に視線を変えると、そこには憔悴しきった小藤田がいた。
「…どうしたんですか?」
普段の寺田だったら、人の心配をすることはない。それでも変わり果てた小藤田の顔を見て、咄嗟に言葉を発していた。先ほどから注文が入っていなかったのか、人数が揃ったからなのか、店員が寺田たちの個室に注文の確認をしに来た。
「お揃いでしたら、注文を受け付けますが」
寺田は小藤田の方を向いたが、微動だにしない。寺田は困惑しながらも、ウーロン茶を二つ注文した。その雰囲気を察したのか、店員はそそくさと去っていく。
寺田は小藤田の反応を待っていると、店員が注文したウーロン茶とお通しをテーブルに置いた。寺田はおしぼりを開け、ジョッキに付いた水滴を拭ってから、ウーロン茶を一口含む。ジョッキをテーブルに戻す音が、やけに耳に残る。寺田はもう一度同じ質問をした。
「何かありました?」
小藤田は置かれたウーロン茶を見つめ、ようやく口を開いた。
「…妹がいたんだ」
「妹…ですか?」
家族構成を知るわけのない寺田であったが、小藤田がなぜ過去形を使ったのか疑問に感じた。しばしの間を空け、小藤田は呟くように言う。
「…死んだんだ」
「…え?」
寺田は聞き間違えたのかと思ったが、それは確かなことであった。それから小藤田は時間を掛け、ゆっくりと話し始めた。
小藤田には二歳離れた妹がいた。両親が離婚し、別々に住んでいても小藤田と妹の仲は良好であった。しかし、ある日を境に妹は小藤田のことを拒絶する。
「ホラーが嫌いなんだって…死ぬほど」
妹が大学三年になったとき、小藤田はそう言われた。
「理由は分からなかったけど…それでも俺は心霊スポットが好きだからね。記事を書いていれば、妹がそのうち読んでくれると思ってたよ」
寺田は村上のことを思い出し、気まずそうに理由を聞いた。
「…辞めた理由って、妹さんが亡くなったからですか?」
小藤田は身体を震わせ、寺田を気にすることなく涙を溢れさせた。
「何もかもが嫌になって…かな。好きだと思ってたホラーも、正直苦しかった。そんな思いまでして、続けるべきだったのかなと…。もっと早く嫌いになってたら、妹と仲を戻せたんじゃないかって…。そしたら、もうすべてがどうでもよくなったよ…」
目の前で泣き始める小藤田であったが、寺田は構わず質問を続けた。
「何でそこまで妹さんはホラーを嫌っていたんですか?」
小藤田は首を横に振る。
「分からない…もう、分からないんだ」
「亡くなったわけは?」
小藤田の震えは先ほどよりも増し、ようやく寺田に視線を向ける。顔には憎悪をにじませ、歯を食いしばりながら言った。
「ひ…轢き逃げだ」
20
寺田は自宅に戻ると、しばらくリビングの床に座り込んだ。目の前にある血痕を指でなぞり、居酒屋のことを振り返る。小藤田は両手を強く握り締め、蒼白だった顔に血管を浮かべていた。
「妹が亡くなってから…司法解剖から返ってきた妹の姿は…それは悲惨だった」
立ち上がり、クローゼットの引き戸を開けた。広がっている血痕を見つめ、事故現場でも同様に広がっていたのだろうかと考える。
「なぜ俺に?」
「…人と関わるのが苦手でね。友達がいないんだ。だた誰かに聞いてほしくて、寺田さんに甘えました…すみません」
寺田は血痕を見つめたまま、溜息を吐いた。とても今の小藤田に、村上の言葉を伝えるのは無理な話である。小藤田から連絡が来た時点で、それとなく伝えるべきだっただろうか。
もう時刻は深夜であった。寺田は小藤田から聞いた轢き逃げ現場を見に行こうかと思い、スマートフォンと財布をポケットに押し込んで、興味本位に出向いた。
現場は街灯の電球が切れていたため、暗闇に染まっていた。この暗さでは道路に広がる血痕を見逃すだろうと、寺田はスマートフォンのライトで辺りを照らす。細かい光が反射しており、おそらく車の破片であることが分かった。
それを辿るように足を進めていくと、道路の端に広がる血痕と、壁に飛び散る血痕が残っていた。この血痕と周囲に飛び散る破片を見て、小藤田の妹と車は激しく衝突したことが読み取れる。
寺田は周囲を見回し、現場風景の写真をスマートフォンに収めようとした。ライトを一旦切り、カメラモードにしてスマートフォンを向ける。乾いた機械音だけが聞こえる中、別の音が寺田の耳に届いた。
寺田はすぐに視線を音の方へと向けた。果てしなく続く闇の中に、その音の正体を見つけることはできない。気のせいとは思えなかった寺田は、しばらく凝視を続けた。
犬や猫の動物の動作音だとしたら、その後も連続音を捉えることができるだろう。あの一瞬しか聞こえなかったとしたら、あの音は人間であると直感していた。それもこちらに気づいて警戒している人間。寺田は興味本位で、ゆっくりと足を進ませた。
犯人は現場に戻るという言葉が、寺田の脳裏に浮かんでいた。仮に寺田がここで犯人と遭遇したところで、警察に連れていく気もなければ術もない。ただその音の正体が何か、本当に犯人なのだろうかという興味本位しかなかった。
寺田が近づいているはずなのに、再び音が聞こえることはなかった。警戒しているのなら、その場から走り去る音がするはずだと思っていた。寺田の左足が何かに触れると、ビニール素材の擦れる音が聞こえた。
寺田は身体を一瞬硬直させた後、音の方にライトを向けた。そこはゴミステーションが設置されており、ゴミネットからはみ出た袋に当たっただけ。それを見た寺田は、先ほどの音も風か虫がこれに触れた音なのだと思い、好奇心は去っていった。
帰りながら、寺田はあの音が本当に犯人だったらと考えていた。変わらず警察に連絡するという選択肢はなく、小藤田に報告するのも面倒であった。何もなかったかのように、通り過ぎるだけであろう。それでも、もし小藤田に報告したら、彼はきっとその犯人を殺すだろう。寺田は憎悪に滲む小藤田の顔を思い出していた。
部屋に戻ると、寺田はリビングで立ったまま動かない。非現実的な急な展開に、寺田の脳は処理に時間を要した。ふと思い出し遠隔カメラで録画した映像を見始める。すると、今度はクローゼットのドアを見つめ、何かを考え始めた。
寺田は精密機器と書かれている段ボールを開け、中からパソコンを取り出す。十畳ほどのリビングに、キーボードを打つ音だけが木霊した。その間も寺田の身に何か特別な現象が起きることはなかったが、この異様な空間に引っ越したことに意味はあった。
21
吉村からの連絡は一日から二日の間隔を挟んで連絡が来る。それは基本的に夜であり、引っ越しをした翌夜も変わらなかった。
「おすー!今から行くわ」
もう来るのが当たり前となっている吉村は、理由もなく向かう事実しか伝えてこない。いつもなら断りを入れつつも、最終的には言いくるめられてしまう寺田であったが、この日は違う。
「いいけど、引っ越したんだよね。俺」
演出はすでに考えていた。あとは演者となる吉村たちが来て、血と恐怖に怯えるだけである。
「え?まじ?どこどこ」
引っ越したばかりで忙しい。そんな断りを入れるわけもなく、寺田は最初の恐怖を与え始めた。
「…猫鳴町殺人事件って知ってる?」
寺田の耳元に静寂が生まれる。吉村の反応に、寺田の口角が上がる。少しの間が空いた後、いつものように意味もなく高揚している吉村の声ではなく、鋭くて低い声に変わっていた。
「…そこに住んでんの?」
「ああ。昨日から…」
寺田は吉村の声を聞き、すでに緊張しているのが分かった。もし恐怖から、ここに来ることさえしなかったら。それでは困ると考え、寺田は先手を打った。
「良かったら、この前のメンバー皆で来ない?前より広いし」
吉村は咄嗟に声を大きくし、一呼吸置いて冷静に言った。
「いや!…いや、さすがに…あことはるには厳しいだろ」
どこか緊張している吉村に、寺田は心の底から胸を高まらせていた。しかし、寺田の思い描く最後に東雲は絶対必要である。
「いや、この前みたいなの楽しかったし…」
何かいい理由はないかと考えた寺田は、吉村たちに東雲のことで茶化されたことを思い出した。
「その、東雲とも仲良くなりたいし…」
本音は仲良くなりたいわけではなかった。ただ興味を示しているのは確かである。この感情が恋愛とは真逆に位置し、歪んでいる感情であるということを、寺田自身は理解していなかった。ただ一心に、恐怖に染め上げて自身の欲求を満たす対象でしかなかったのだ。その欲求を満たすために、このときから寺田の心理状況は平常とはかけ離れていた。
「あー…なるほど。でもなぁ…」
招かれる側の吉村が断り、それを招く側の寺田が必死で説得するという、異常なやり取りが続いた。いつになくしつこく説得を続ける寺田に、吉村は苛立ちを覚え始める。
「しつけぇな!野郎どもだけでいいだろ!」
寺田も思い通りに事が進まずに、苛立ちを覚えた。それでも目的を達成させるために、手段は選ばない。ここで提案をする。
「分かった。今回だけ、東雲と三森を呼ぶ。その代わりに、前回と一緒で合鍵を渡すから、俺がいない日は好きに使って」
一見交渉しているようであったが、前回の部屋と変わりはない。唯一変わったとしたら、吉村から言いくるめられる前に寺田自ら合鍵を渡すという行動だけ。しかし、意外にも吉村からの反応は良かった。
「…分かった。今回だけな。あと…」
吉村が何を付け加えてくるのか。寺田はその続きを待った。
「その部屋で、その何て言うかな。何かあった?」
その言葉の意味を理解できない寺田は、質問で返す。
「何って?心霊現象的な?」
「うん…いや、そーゆうのとか。気になるところとか」
まだ訪れてもいなければ、始まってもいない。電話の向こうで怯えている吉村を感じ、映画を見てもいないのに宣伝広告で怯える人を連想させる。
「今のところは…ただ血痕がすごいね。今までの中で断トツ」
吉村は黙り込み、呟くように言った。
「…そうか」
寺田は吉村の気が変わらないうちに、具体的に話を進めた。
「明日ならちょうど家にいるから都合良いけど。場所は分かる?」
あの事件を知っているのなら場所は知っているだろうと思ったが、古い事件で覚えていないことも予想できた。
「…明日か。確認して連絡する。場所は…いや、一応教えて」
そう言われると寺田は住所を教え、通話を切った。想像よりも恐怖に怯えている様子であった吉村は、寺田の想定外であった。前の部屋では怯える様子もなく、むしろ普通の部屋と変わらない様子であった。それでも事件の舞台となったこの部屋となると、誰しもが怯えるのかもしれない。
感覚が麻痺している寺田には分からない感覚であるものの、たしかにこの部屋は他とは異なる雰囲気があった。
22
『みんな行ける。じゃ、明日』
吉村からのメッセージを確認すると、寺田の簡単な準備は始まった。前回のように飲み物や軽食を買い込んだが、DVDを借りることはなかった。
両手に袋を抱えて帰っていると、その道中でスマートフォンが鳴る。寺田は仕方がなく歩道の端に避け、荷物を適当な場所に置いた。吉村からかと思ったが、スマートフォンを取り出して確認すると、その相手は梅野であった。
「あ、お疲れ様です」
締め切りまでは一カ月以上もあるというのに何事だろうかと思ったが、その理由はすぐに脳裏に浮かんだ。
「おう。お疲れ。社長から聞いてるよね。何か分かった?」
案の定、小藤田の件であった。寺田は聞いているどころか、小藤田本人に会って真相も聞いている。しかし、ここで素直に言うはずもなかった。
「いえ。私も連絡を何回かしているんですが、いずれもダメでした」
留守番電話になる、電源が入っていないなど、下手なことは言わずに抽象的に答える。電話越しで梅野の溜め息が漏れた。
「そうだよな。まぁ出ないよな、普通。うーん」
何か言おうとしたが、寺田は出方をうかがった。梅野は数秒唸ると、深い溜め息を吐いて続けた。
「いやなぁ。社長が小藤田の穴埋めをする間、俺らの記事でページを賄うって」
「え…それって、つまり」
「そう。今の仕事量が倍近く増えるってこと。単純に」
「もちろん、給料は…」
「変わらない。変わるわけがない」
寺田は梅野のやるせない理由が分かった。村上の言うことは絶対であるため、ここでいくら文句を言ったところで現状が変わるわけでもない。寺田は受け入れる他はない。
「分かりました…けど、今回の記事は自信があります」
梅野は乾いた笑い声を発する。
「はは。出来たら送ってよ。あと小藤田のことも。何かあったら」
通話が切れても、寺田はすぐに歩き出そうとはしなかった。先ほど自分が言った言葉を思い出す。そう、たしかに自信があるのだ。そのためにも、始まりとなる今日を失敗するわけにはいかない。避けておいた荷物を手に取ると、再び寺田は歩き出した。
約束の夜を迎えると寺田は用意した物を適当に配置し、今かと待ち望む。あの日、吉村たちを招いてから、たしかに寺田の価値観は変わっていた。
今までは非現実的な心霊現象を求めていたが、その価値観は一変された。非現実は自身が演出を加えてこそ、他者にそれを実感させる人工的な現象だと。その表れが、胸を高まらせながら来訪を待ち構えている寺田そのものであった。
リビングにチャイムの音が響くと、寺田は急いで玄関に向かい、吉村たちを迎え入れた。
「お邪魔するよ」
男性陣は適当に靴を脱ぎ、女性陣だけは靴を揃えていた。いつもなら構わずリビングへと向かう吉村と星田であったが、どことなく表情が強張っており、向かおうとしない。
「そこにあるスリッパ適当に使って」
あらかじめ用意してあるスリッパに足を入れると、寺田はリビングへ誘導する。表情が強張っていたのは二人だけではなく、他三人も同様であった。特に小林の身体は微かに震えており、顔面蒼白で汗を滲ませていた。
吉村は誤魔化そうとしているのか、少し声が裏返りながらも通り過ぎるドアを見て、寺田に聞いた。
「ト…トイレと洗面所?」
寺田はリビングのドアノブに手を掛けたまま言う。
「そう。あと二階に二部屋あるけど、とりあえず放置してる」
「ふ、ふーん」
いつものような余裕さが吉村にはなかった。適当に相づちを打ち、その場を勢いで誤魔化す星田も借りられてきた猫のように大人しい。アノ件が影響しているのかとも思えたが、カメラで過ごすこれまでの雰囲気を見て、今さら気に留める奴ではない。ただこの雰囲気に緊張しているのだと、寺田は思った。
リビングでは小さなテーブルを中央に置き、その周りにリサイクルショップで購入した座布団を人数分用意していた。寺田が座るように促しても、吉村と星田は辺りを見回して座ろうとはしない。
「ちょ…すまん」
後ろから小林の声が聞こえ、寺田が視線を向けるときには姿がなかった。廊下からドアの閉まる音が聞こえると、続けて嗚咽する音が届く。
その光景に怯えた三森は声を上げる。
「何!何!ここ変だよ!」
東雲は自身の腕を強く掴み、身体を震わせる。寺田はそんな東雲を見て、小さく身震いをするものの、違和感を抱いていた。もしかしたら、本当にここには何かがあるんじゃないかと。そう思わせるほど吉村たちは前回とは違い、異常なまでに怯えていた。
吉村は少し声を荒げ、寺田に問い詰める。
「おい!本当に何もないんだよな?」
ここまで余裕をなくしているのは、何かわけがあるのだろうか。寺田には感じ取れない何かが、ここにはあるのかもしれなかった。
「昨日引っ越したばかりだけど…。一応ハウスクリーニングも依頼したけど、今のところは何も…」
「ハウスクリーニング?…その業者たちも何もないって?」
「特には…うん。畳が腐ってるぐらいしか」
「そうか…」
前にはなかった過度な反応を示した吉村を見て、寺田は少しぐらい嘘を吐いた方が良かったのかとも考えた。しかし、人から聞いた心霊体験ほど胡散臭いものはないと、寺田は実体験で思っていた。これまで読み漁ったホラー記事は所詮文章の話で、それが身に起こることは一切なかったから。
吉村は寺田の目を凝視した後、笑みを浮かべて肩を叩いた。後ろを振り返り、星田たちに向かって手を叩く。
「おーい!大丈夫だって。とりあえず座ろうぜ」
「お、おう。そうだな」
星田は作り笑顔を浮かべると、手前の座布団に座り、三森や東雲も続いて座っていった。
「悪かったな。ビビりすぎたわ」
吉村は小声で寺田にそう言ってから、星田と三森の間に座った。まだ小林がトイレから戻ってきておらず、このまま初めていいのかと寺田は悩んだ。
吉村と星田は持参したビールをテーブルに並べると、寺田と小林に構うことなく飲み始める。東雲と三森もビールを渡されたが、とても飲める気分ではなかった。
ようやくトイレから姿を見せる小林であったが、その姿は何とも弱々しく震えていた。小林はリビングの入り口で待っている寺田に向かって言う。
「わ、悪い。気分がすぐれないから。か、帰るよ」
小林自身は正直いなくても、物語は進んでいく。大した影響もないと思い、それを了承した。
「お、おお。気をつけ…」
それを阻むように、吉村が顔を覗かせた。
「おいおいおーい」
吉村は寺田を退かし、小林に近づく。小林の肩に手を回し、腹を手のひらで数回叩いた。
「またビビっちゃったの?」
小林は首を振りながら動揺していた。
「いや…本当に…ここは…」
吉村が戻ってこないことを気にしてか、三森がリビングから顔を出す。
「何やってんのー?早くー」
「ほら。あこもあー言ってんぞ」
吉村は半ば強引に小林を引っ張り、入り口にいる寺田と三森を横目にリビングへと戻っていった。小林が座布団に座ると、星田がビールを渡す。
「ほれっ!」
「あっ…いや…でも」
未だに帰ろうとする小林を見て、吉村は三森に視線を送る。三森は軽く頷き、小林の肩を抑えた。
「ほらー飲みなよー」
星田は無理やり小林にビールを飲ませると、思わずむせてしまい、星田にビールが掛かった。その瞬間、星田は顔を赤くし、声を荒げる。
「てめぇっ!」
思わず寺田と三森、東雲は身体を硬直させたが、吉村は星田の肩に手を乗せた。
「まぁまぁ。今のはほっしいが悪いよ。なっ?こばしゅん」
小林は眼鏡を触り、視線を下に向けた。
「いや…まぁ…」
星田は何か言おうとしたが、吉村は小林の肩にも手を乗せた。
「まぁまぁ。俺たちは対等だろ?なっ?」
星田は深呼吸をし、小林の肩を叩く。
「だったな!わりぃ、わりぃ」
小林は視線を上げることなく、乾いた笑い声を零した。寺田はそのやり取りを見ていて違和感を抱いたが、特に何かを言うわけではない。
「まぁ気分変えてよー!」
吉村は床に付着している血痕を目で追い、そのままクローゼットに手を伸ばした。
「せっかくの事故物件…なんだ…から…」
吉村は思わず声を失った。クローゼットを開くと、そこには茶色くなった血痕がおびただしく付着していたから。寺田はそれを見て、淡々と言う。
「そこで前の入居者が殺されたみたい」
叫び声を上げる者はいなく、あまりにも生々しい光景にただ引いていた。三森は小声で言う。
「何でこんなところに…」
クローゼットの前にいる吉村は何かに気がついた。
「…ん?」
血痕に顔を近付けると、その視線の先に手を伸ばす。
「ペりぺりぺり…」
何かを剥がす音が聞こえ、小林はすぐにそれを止めさせた。
「おい!何やってるんだ」
「いや…何か…封筒?」
吉村は血痕に覆われていた封筒を親指と人差し指でつまみ、寺田たちの方に向けた。
「ちょ!よっしー、おま!神経死んでんのかよ」
それを見た星田は一人だけ興奮気味に笑っていた。吉村は封筒の中身を確認しようとしたが、一度手を止める。
「…中身、見てもいい?」
寺田は少しの間を空けて頷く。
「…ああ、俺も気になる」
三森は不安そうな表情を浮かべながら、それを制止させた。
「やめなよ。どうするの呪われたりしたら」
小林は眼鏡を掛け直し、寺田を一瞥した後、吉村に視線を向けた。
「…馬鹿馬鹿しい。そもそも呪いなんてありえない。そんなのが存在したら、世界中の死因が一変するよ」
「じゃあ大丈夫だな」
まだ周りは何か言っていたが、吉村はそれらを無視して封筒を開ける。
「…紙?」
吉村は周りに見せるのではなく自分だけが確認すると、しばらくして星田が後ろから覗き込んだ。吉村は紙で顔を隠した後、テーブルにそれを置く。
「…見てみろよ」
紙にはこう書かれていた。
『私は殺される。次はお前の番だ』
それを見た瞬間、東雲は悲鳴を上げた。寺田は身体を震わせ、薄っすらと鳥肌を帯びる。吉村は口元に手を抑え、寺田に聞いた。
「これって…何だ?」
すぐに寺田は東雲から置かれている紙に視線を変え、首を傾げる。
「いや…こんなのは初めてだ。遺書…?」
星田だけは笑みを浮かべていた。
「うおっ!それで、それで?」
小林は紙から寺田へと視線を向ける。
「いや…ありえないだろ?こんなの警察が見過ごすはずないだろ。それにこんだけの血が付着してたら、紙も染まってて読め…」
吉村は手のひらを小林に向けた。
「こばしゅんの言いたいことは分かる。けどよ、現に寺田も住んでいて気づかなかったんだぞ?このホラー好きが。警察も気づかない可能性だってあるだろ」
星田もそれに続く。
「ほんっと、こばしゅんって信じないよな。心霊とか呪いとかって」
小林は何か言いたそうな表情を浮かべていたが、そのまま黙って座布団へと腰を下ろした。星田もその隣に座り、手前に置いてあるビールを飲んだ。
「そんな不機嫌になるなってよ」
小林は肩を軽く叩かれたが、特に反応を示さなかった。吉村は笑いながらソファーに寝転び、そのままビールを取って飲み始める。
「そうそう。楽しく飲もうぜ」
寺田は寝転ぶ吉村を一瞥してから東雲の方を見ると、三森の後ろでまだ震えていた。三森が遅れて座ると、東雲もゆっくりと隣へ座る。最後に寺田も手前の座布団に腰を下ろし、紙を見つめた。すると、三森は寺田に尋ねる。
「…これって、私たちも殺されるってこと?…誰に?」
寺田は少し考えて、首を横に振った。
「…分からない。いたずらじゃないかな」
「寺田くんの前に、誰か住んでたの?ここ」
東雲は今にも消えそうな声で言った。寺田は神妙な表情で再び首を振る。
「いや。事件以来、俺以外住んでない」
それを聞いた小林は口を開く。
「…まるで、この前の映画だね」
星田は首を傾げて聞いた。
「映画?」
小林はビールを持っているだけで、口を付けていなかった。ビールをテーブルに置き、紙を見ながら言う。
「うん。最初は紙で警告し、次に壁に文字が書かれて警告される。そして場にいた者が次々殺されて、最後は主人公も殺される…以前住んでいた住居人の地縛霊によって…」
「パラサイト・リゼントメントか」
寺田がそう言うと、小林は紙を見たまま頷いた。吉村と星田も一緒に見ていたはずが、もう内容を覚えていなかった。三森は恐る恐る聞く。
「…ってことは、私たちもその地縛霊に?」
東雲は体育座りをし、口を強く閉じて震えているだけである。小林は小馬鹿にするように笑い、否定した。
「っんなわけないよ。そんなもん、存在しないから」
「っだから、盛り下げんなって!」
星田は小林の頭を軽く叩き、置かれているパンを食べ始める。
「まぁまぁ。ここは空気を明るくして、かんぱーい!」
吉村の音頭に反応したのは星田だけであった。
「ほらほら!」
吉村の手で促すと、遅れて三森も反応し、それに続いて東雲が震える手でビールを持った。小林も先ほど置いたビールを持ち、最後に寺田がビールを持ち上げると、吉村は満足そうにビールをぶつけてきた。
しばらく酒が入ると、三森も吉村と星田の雰囲気に流され、先ほどの恐怖が薄まっていた。三人が楽しく飲んでいる裏で、東雲は三森の隣で必死に作り笑みを浮かべている。
小林は相変わらずビールを持っているだけで飲もうとはせず、紙を見つめていた。その様子を見ていた寺田に気づいた小林は、寺田を一瞥して口角を上げる。そして再び紙に視線を戻す。その一瞬の動作が、寺田には不気味に感じた。それを一蹴するかのように、三森の興奮する声がリビングに響く。
「そのパーカーどこのー?」
吉村は青いパーカーを着ていた。胸にあるロゴマークを引っ張り、自慢げに言う。
「これ?ノーブルってやつ」
そのブランド名を聞き、三森の興奮は増した。
「えー!高いでしょ!」
ブランドに疎い寺田には、その価値が分からなかった。星田もその価値が分からないものの、ビールを飲みながら陽気に言う。
「よっしーって金持ってるよな!高校の…」
吉村は星田に向かって、肘を当てる。
「おい。飲みすぎだぞ」
「お、おお。わりぃ」
一瞬空気が変わったかに思えたが、すぐに宴会は再開される。吉村はリビングを見回して、寺田に聞いた。
「本当、必要最低限の部屋だな。何も揃えないの?」
リビングには小さなテーブルとソファー、それに座布団が人数分あるだけであった。
「うん。また引っ越すと思うから」
吉村の興味はすでに逸れていて、適当に返すだけである。
「ふーん。大変だな」
最後まで吉村と星田、三森が盛り上がる中、東雲は邪魔にならない程度の相づちをしていた。小林は変わらず紙を見ているだけであったが、時折落ち着かない雰囲気を見せていた。寺田は周りの様子を見つつ、吉村が着ているパーカーを調べ、その値段が自身の給料とほぼ同じことに一人驚いていた。
23
寺田が目を覚ましたのは昼過ぎであった。布団代わりにソファーで寝ていたため、腰を起こす際に鈍い痛みが走る。寺田は腰を軽く叩き、テーブルに置かれている残りのパンに手を伸ばした。そのまま剝き出しで置かれていたパンは乾いており、口触りは最悪である。
手をその場で払い、部屋を見渡してから洗面所へと向かう。気怠そうに歯を磨き、再びリビングに戻ると片づけを始めた。いつものようにキッチンからゴミ袋を取ってきては、適当に捨てていく。それが終われば、またソファーで寝転び、意味もなく天井を見つめた。
小腹が空いた寺田は重い腰を上げ、キッチンにある買いだめしたインスタントラーメンを作り始めた。タイマーを使うこともなく、スマートフォンで時間確認し、指定された分数を待つ。
小さくあくびをし、髪を掻くと、床にある血痕を見つめた。その血痕はリビングへと繋がっている。殺された橋本がここで刺されて、リビングに逃げ込み、クローゼットで命を絶たれたのであろう。こんな防犯の欠片もない場所ではなかったら、この事件は解決したに違いない。時間になり、寺田はキッチンに立ったまま、ラーメンを食べ始めた。
この日は恒例の夜ではなく、夕方の時間帯でスマートフォンが振動した。珍しいと思いつつ、寺田が画面を確認すると見知らぬ電話番号が表示されていた。
吉村だと思っていた寺田は、咄嗟に通話ボタンを押していた。今から切るわけにもいかず、スマートフォンを顔に当てる。
「…もしもし?」
その電話番号の主は、東雲であった。
「あ、寺田くん?はるです」
予想外の相手に、寺田は少なからず動揺した。
「えっ?あっ…」
その言葉を聞き、東雲は察した。
「あっ。よっしぃから聞いたの。いきなりごめんね」
吉村のように忘れ物をしたという電話だろうか。寺田はゴミを捨てた際に、それらしき物が何かあったか思い出そうとしたが、適当に放り込んだため思い出すことはできなかった。
「別にいいけど。どうした?」
「今日、時間ある?」
東雲は昨日の気晴らしに、どこかで飲みたいと言っていた。三森を誘えばこと済む話だが、わざわざ聞くのも面倒だった寺田は予定もなかったため承諾する。
東雲はどこでもいいと言うと、普段居酒屋に行かない寺田は例の和風居酒屋しか引き出しがない。そこを提案すると、東雲と十九時に待ち合わせをすることとなった。
東雲が美人ということも、昔惹かれていたということも、変わりのない事実であった。ただそれだけで、関係を発展したいという望みを持っていないのも事実である。それでもいざ東雲が目の前にいて、二人きりという空間に寺田は緊張をしていた。
「あっ…お疲れ」
東雲は笑顔を向け、寺田の正面に座った。
「うん。お疲れ様」
肩に掛けていた小さな鞄を横に置く。東雲は事故物件に来たときとは違い、明るく元気な表情を浮かべている。
女性と二人きりになるのは十年ぶりということもあり、寺田はどう接していいのか困惑していた。テーブルに置かれている電子メニューを取り、東雲の前に置く。
「何頼む?」
「あ、ありがとう。えーっと」
東雲は髪を耳に掛け、メニューを覗いた。一瞬だけ東雲の香りが寺田の鼻に届き、思わず背もたれに身体を預ける。俯いている東雲を見つめ、その艶のある黒髪や白い肌に思わず見とれていた。
「あれ?寺田くんは?」
不意の質問に、思わず動揺する寺田。
「あっ、俺はもう注文したよ」
「食べ物も?」
「あっ食べ物はまだ。何でもいいよ」
「えーっと。何が好き?」
寺田はゾンビ映画を思い出しながら言う。
「レバー以外なら何でも」
「あっ私も。レバー嫌いなの?」
「うん。何か生々しくて」
東雲は苦笑いを浮かべる。
「…仕事の関係かな?」
「そうそう」
顔を上げたままの東雲に、寺田はメニューを指しながら言った。
「え、選んだ?」
東雲は慌てながらメニューに視線を戻す。
「あ、ごめんごめん」
東雲が注文してから数分後、店員はレモンサワー二つと、唐揚げにサラダを届けた。偶然にも同じ飲み物を注文し、思わず目が合って微笑んだ。小さくグラスを当て、寺田と東雲は一口含む。
定型文のような会話を続けていき、引き出しを持っていなかった寺田は、数十分後に話すことが尽きてしまう。聞く必要もないと思っていたが、間を埋めるために聞くしかなかった。
「何で誘ったの?三森は?」
東雲は少し悩んだ表情を浮かべ、背もたれに寄りかかった。
「んー…あこに誘えばって言われて」
「どういうこと?」
再び東雲は悩んだ顔をし、レモンサワーを一口含んだ。
「えっとね。正確には寺田くんの連絡先を知ったのは、あこからで」
「え?三森から?俺は知らないけど」
東雲は慌ててスマートフォンを取り出した。
「えっ?そうなの?ちょっと待って…」
寺田のスマートフォンが振動すると、東雲は言った。
「今、あこの連絡先送ったよ」
特に必要としていなかった寺田であったが、何かに使えるかもしれないと過り、素直に礼をした。
「あ、ありがとう」
「うん…でね」
東雲はほのかに顔を赤らめ、照れた表情を浮かべる。寺田の方を一瞥し、すぐに視線を下に向けた。
「寺田くんが…その、興味あるみたいって言われたから。その、お礼に飲みに行ってあげてって言われて」
その話を知っているのは吉村しかいない。吉村が変な気を遣い、三森を通して東雲を誘わせたに違いないと思った。同窓会のときもそうであったが、当時から東雲は三森の言うことに従順である。それはいいように使われているというよりは、東雲は自身の意見を表に出すことが苦手で、空気を読んでいるのではないかと思った。
寺田がそう考えていると、東雲は手を前に出し、慌てながら振った。
「勘違いだったらごめんね。うわー。私、何か勘違い女になってない?」
ここで気の遣える言葉の一つでも言えたらいいのだろうが、もちろん寺田にはその引き出しさえも持ち合わせていなかった。
想定より早い解散となったのか、店を出ると東雲は寺田を誘った。
「良かったら…」
寺田は東雲の方を振り返り、帰りの方向を聞いた。
「あっち?」
東雲は続きの言葉を抑え込み、寺田の質問に答えた。
「え、あ、うん」
寺田は逆の方向だったため、自分が帰る方向を指して言った。
「俺あっちだから。じゃあ」
「あ、またね」
東雲は寺田が帰る背中を見つめ、溜息を吐いた。何で自分の意見が素直に言えないのだろうかと。スマートフォンを取り出して三森に連絡を入れると、東雲も自身の帰り道を歩き始めた。
吉村のいらない気遣いに、今後も東雲からの誘いが来たらどうするべきか、寺田は考えた。あまりに情が入ってしまうと、自身が思い描く最後に支障が出ないかと。
寺田は帰りながらもう一度構成を考えていると、気がつけば家に辿り着いていた。
この周りには街灯がなく、外が暗いと不気味度は増す。寺田が門の扉を開けるときに発生するこの軋み音さえも、簡単に緊張を演出してくれる。とはいえ、誰かを怖がらせるわけでもない寺田は、スマートフォンのライトを点けていた。
門の扉を閉め、玄関前に立ったとき、寺田に緊張が走る。まだ引っ越してから四日しか経っていなかったが、今までとは違う雰囲気を感じ取った。警察が捜査に来る可能性があると椎平は言っていたが、何もこんな遅くに住人がいない間にそれはないと寺田は思った。
スマートフォンのライトを消し、寺田は玄関の前で考えた。このまま勢いで入るべきか。それともインターホンを押して、けん制するか。静かに入って、その場を目撃するか。そう考えていると、昨日の吉村たちの怯えようを思い出す。もしかしたらと脳裏に過る寺田は、念のためにスマートフォンの動画撮影を起動させた。
ゆっくりと鍵を開け、静かに扉を開ける。寺田は靴を脱がないまま廊下を歩き、リビングを目指した。謎の異臭を感じつつ、リビングのドアを開けた。スマートフォンを周囲に向け、何かしらの反応を待つ。しかし、人の気配はなかった。
寺田はカメラの録画記録を確認したく、動画撮影を止めた。画面を確認したが、特に誰かが映っている様子はなかった。耳を澄ませていると、映像から何か微かに音が聞こえた。この音は何だろうか。音だけは聞こえても、リビングに何かが映るわけではない。偶然入った雑音だろうか。ここでようやく寺田はリビングの照明を点け、洗面所へと向かった。
廊下を歩くと相変わらず異臭がした。この異臭は何だろうか。家自体も古く、建付けが悪くなり外の臭いでも入ってきたか。そう、寺田は思っていた。その異臭の正体は間もなく分かる。
洗面所で手を洗い、リビングに戻ろうとしたとき。ふと壁を見ると、そこには真っ赤な文字でこう書かれていた。
『次はお前の番だ』
身に覚えのない文字を見て、寺田は戦慄する。一体誰が書いたのか。そのとき、寺田は自然と吉村を想像していた。合鍵を持っているのは吉村だけ。東雲のことを気になっていると話したのも吉村だけ。吉村が東雲に誘うよう指示し、出掛けている間に忍び込んだと考えたら辻褄が合う。初めて起きたこの現象を、寺田は吉村の演出と決めつけていた。
あのとき何かしらの気配を外で感じたということは、もしかしたらまだこの家にいるのかもしれない。そう考えた寺田は吉村を探すべきか、このまま放置して様子を見るか悩んだ。その悩みも一瞬で解決する。
寺田はポケットに入れていたスマートフォンが振動すると、一瞬身体を揺さぶった。すぐに取り出して確認すると、吉村からであった。
「…もしもし」
吉村は酒を飲んでいたのか、呂律が安定していなかった。
「おおーう。今から行っていい?」
電話越しで聞こえる大きな声は、家の中からは聞こえてこない。寺田は壁に書かれた文字を触ると、まだ乾いていなく指先に赤色が付着した。無意識に指を鼻に近づけて、その臭いをよく確認する。寺田の反応が返ってこなく、吉村はまた大声で言う。
「おおーい!どーした?行くぞー」
寺田は我に返り、何か反応を返そうとしたが通話は切れていた。変わらず家のどこからも吉村の声は聞こえていなく、その数分後にチャイムが鳴らされると、玄関には顔を真っ赤にした吉村が座っていた。
扉が開いたことに気がつくと、吉村は焦点が合っていない目で視線を向け、ビニール袋を寺田に渡した。
「うぇーい!ほいよ」
寺田は袋を受け取り、吉村を見ながら困惑していた。何で目の前に酔いが回っている吉村がいるのだと。寺田の読みでは、まだ吉村はこの家のどこかにいるはずであった。
袋にはビールが数本とレシートが入っており、寺田は気にすることなくレシートの時刻を確認したが、それは寺田が動画撮影をしていた時刻と一緒であった。
「どうしたー?入んぞ」
その場に立ったまま動こうとしない寺田を、吉村は不思議そうに見る。ふらふらと立ち上がると、寺田に構うことなく家の中に入っていった。
もう寺田の思考は複雑に混ざり合い、弾け飛びそうになる。吉村がリビングへと進んでいく背中を見て、もう一度寺田は指に付着した臭いを嗅いだ。この鉄の臭いは、血なのかもしれない。
「何か、くっせーな!」
奥から吉村の声が聞こえると、寺田はゆっくりと玄関の扉を閉めた。
いつものように寺田を追い出した後に三森を呼び、入れ替わりで来る星田と宴会をする。そんなルーティンをすることはなく、吉村はソファーに寝転んでおり、買ってきたビールに手を付けることなく寝ていた。騒音のようないびきをしているのを見て、一体何をしに来たのか疑問が生まれる。
寺田も少しのアルコールが入っており、眠気は合ったものの、あの文字を考えると寝つきが悪かった。洗面所に歯を磨きに行き、二階の階段を見つめる。リビングのカメラには誰も映っていなく、もし人が隠れているのなら二階であると。そう考えた寺田は、静かに階段を上った。
一つ上がる度に軋み音がし、住居人の寺田でさえも緊張する。廊下まで届くほどの吉村のいびきも、五段ほど上がったところで気にならなくなった。寺田はスマートフォンのライトを点けるべきか、動画撮影を起動するべきか悩みながら、ゆっくりと上っていく。それでも、軋み音は発生してしまう。
緊張を抑えつつ、寺田は動画撮影を起動させ、スマートフォンを前に向けた。そのとき、リビングから吉村の叫び声が聞こえてくる。
「うぅぅがぁぁぁ!」
急な叫び声に、寺田は思わずスマートフォンを落下させる。寺田は鼓動を激しく高まらせ、振り返ったまま動かなかった。まだ聞こえてくる叫び声に、緊迫した空気がまとわりつく。寺田は下まで落ちたスマートフォンを取りに戻り、そのままリビングへと向かった。
暗闇で吉村が激しくのたうち回っており、寺田は急いでリビングの照明を点けた。吉村は首を抑え、寝ころんだまま身体を左右に振っている。
「がぁぁぁぁぁ!」
尋常じゃない様子に、寺田は思わず吉村の腕を掴んだ。
「ど、どうした!?」
すると、吉村は息を切らせながら冷静に戻っていった。ゆっくりと息を整えさせると、口に手を添える。
「うぷっ」
吉村は急いでトイレに行き、嘔吐した。寺田は呆然となり、リビングを見回す。周りに何か変わった様子はなく、廊下に視線を向ける。まだ吉村が戻ってくる様子もないと、設置してあるカメラの録画記録を確認した。
吉村がソファーでいびきをかいていると、急に首を抑えて苦しみだし、叫び声を発していた。そこには吉村しか映っていなく、それ以外は誰も映っていない。寺田はそれを何度も巻き戻しては見るを繰り返したが、やはり吉村以外は映っていなかった。
「み、水…」
戻ってきた吉村に、寺田は過剰な反応を向けた。
「うお!…お、おう。待ってて」
すぐにスマートフォンをポケットに入れ、キッチンへと向かった。コップに水を注ぐと、憔悴しきった吉村に渡した。吉村はそれを奪うかのように取ると、勢いよく飲み干す。
「はぁ、はぁ…おい、本当に何もないのかよ。この家」
勝手に来ている吉村に苛立ちを向けられ、寺田は理解に苦しんだ。
「いや…知らないけど。ちょっと見てもらってもいい?」
寺田が廊下に行くと、吉村は険悪な表情で後に続いた。廊下の照明を点け、寺田は壁に書かれている文字の前に立つ。
「…これ、どう思う?」
「んあっ?…は?は?」
吉村はその文字を見て、驚愕する。
「な、なんだよ。これ?血じゃん」
寺田も血だと思っていたが、シンナーの臭いに違和感を覚えた。
「これが帰ってきたときに書かれてた…」
動揺していた吉村は、寺田の言葉を遮った。
「これって、あの封筒の続きじゃん…お前。やばいって」
これが本当に心霊的なものだとしたら、なぜ襲われたのは吉村なのだろうかと考えた。興奮気味の吉村は続ける。
「えっ。ってことは、俺はお前に間違えられて、幽霊に襲われたってこと!?」
その線はたしかにあった。自分では気づいていなかっただけで、これまでも心霊現象はあったのかもしれない。ただその心霊は、カメラでは撮影することができなかっただけなのかと。しかし、こうも現実的に起こるのは初めてであったため、寺田自身は素直に受け入れられることができなかった。
「お前。本当に何も知らないの?ここって未解決事件の現場だろ?犯人の手掛かりとか、殺された奴の痕跡とか」
吉村は詰め寄るように寺田に聞いてきた。寺田は想定もしていなかった出来事に、自身の思い描いた作品をとん挫すべきか考える。寺田の目的は本当のホラーではなく、その先にある東雲の恐怖であった。すでに演出は始まっている。そのためにも、このまま続けるしか選択肢はない。
「…本当に分からない。何が起きているのかさえも」
寺田が首を振ると、吉村は寺田の顔を凝視して、頷いた。
「…そうか。でも、さすがに引っ越した方がいいんじゃないか?殺されるぞ。面白がって、ふざけてると」
寺田はその言葉に違和感を抱いた。
「…どういうこと?」
吉村は少し慌てながらも、自身の首を指した。
「いや…いや、ほら。ここは本当に呪われてるってこと」
吉村は深い溜め息をすると、リビングへと戻っていった。そのままソファーに寝転び、数分後には眠りにつく。先ほどまで苦しんでいたはずが、構わずここで寝る神経の図太さに、寺田は小藤田の代わりに働けるのではないかと思った。
寺田の感情は興奮していたが、恐怖もしていた。もし本当だとしたら、また襲われるのではないかと。今までは心霊体験を求めて事故物件に住んでいたが、東雲に会ってからは求めていたものは違うと気づかされた。仮にその前にこの実体験を味わっていたら、どれほどの鳥肌が駆け巡っただろうか。そんなことを考えていると、寺田も知らぬうちに寝息を立てていた。
眠りながらも微かに聞こえた軋み音に、寺田は目を覚ました。まだ処理が追い付いていない思考は少しの時間を掛けて、寺田の目を大きく開かせる。
「あっ…!」
思わず声を漏らし、ソファーを見た。そこには大の字で暢気に眠っている吉村がいる。寺田は吉村がいるのを確認すると、まだ確認していない二階へと向かう。
階段まではライトで周囲を照らし、上るときには動画撮影に切り替える。静かに上っていき、二階にある二部屋を確認した。ハウスクリーニングを依頼したとはいえ、簡単な掃除しか施されていなく埃やカビ臭さは残っていた。もし今の今までここで身を潜めていたら、汚さに耐えられないだろう。咳の一つでも聞こえてくるはずである。
誰もいないことを確認した寺田は階段で座り込み、これは本当に起きているのではないかと考え始めた。もし本当だとしたら、早急に作品を進めるべきである。いつまでもここに留まるのは危険である。一人静かに頷くと、小藤田に連絡を送った。
24
星田は大きなあくびをしながら、いつものように廃材が置かれるとプレッシャー機の作動ボタンを押していた。それを押すと廃材をサンドするように圧が掛かり、しばらくすると四角型の鉄くずにまとまる。星田は置かれるたびに、それを量産していた。
午前の小休憩に入ると、星田はヘルメットを脱ぎ捨て、事務所へと向かった。
事務所に入ると、星田の父親は電話を通じて、銀行に融資の依頼をしている最中だ。星田は腰を低く、目の前にいない相手に頭を下げている父親を見て、心底うんざりしていた。小さな町工場ゆえに、銀行も足元を見ているのだろうと思い、星田は舌打ちをするしかなかった。
星田に気がついた父親は、デスクに置いてある封筒を目の前に投げた。星田はそれを受け取り、差出人はもちろん、自分の名前以外が書かれていないことに違和感を抱く。
「なにこれ?」
父親は手で振り払う動作をするだけで、再び見えない相手に対して頭を下げていた。星田はそれを睨むような視線を送り、外の喫煙所へと移動する。
設置されているベンチに腰を下ろし、煙草を咥えて火を点けると、空中に煙を量産した。封筒を透かせて中を確認しようとしたが、分かるのは紙らしきものが入ってる程度。
「ったく」
そう呟くと、気怠そうに封筒の留め口を破り、中を確認した。中には三つ折りになった紙が一枚だけ。星田は紙を隣に置き、咥えていた煙草を指で摘まみ、近くの灰皿に灰を落とす。再び煙草を咥え、紙を広げて確認した。
「…あっ!?」
思わず驚いて声を発すると、咥えた煙草は口から離れた。煙草は広げていた紙に当たり、そのまま地面へと落ちる。しかし、それに気を留めることはなかった。星田が紙を持つ手は大きく震えており、額からは脂汗が溢れ出していた。
25
殺されかけたというのに、吉村は何もなかったかのように翌夜も寺田の家に訪れた。
「一昨日買ったビール残ってる?」
その精神力に驚きつつも、吉村を待っていた寺田は迎え入れる。
「あるよ。冷蔵庫に冷やしてる…あっ!」
寺田はスマートフォンを確認し、慌てる素振りをしてみせた。
「悪い!今から打ち合わせだから家空けるけど、一人でも大丈夫?」
寺田は吉村が三森や星田を呼ぶことを知っていたが、少しでも一人になる時間を避けたい可能性もあり、様子をうかがった。
「全然。余裕、余裕」
「そ、そうか。気をつけて」
この精神力は見習うべきだろうかと思いつつも、早くこの場から離れたい寺田は家を後にし、近くのフランチャイズレストランへと向かった。吉村は軽く手を上げ、寺田を見送ると玄関の扉を閉める。そして早々に、三森へと連絡した。
連絡を受けた三森は玄関のチャイムを押すと、中から酒を飲んで陽気になっている吉村が現れる。それを見て、三森は爆笑していた。
「いやー。本当。もう自分の家じゃん」
「そう。第二宅」
「もう。やだー」
吉村は三森の肩に手を添え、中へと招き入れる。扉を閉めた途端に、吉村のスイッチが入った。三森の顔を寄せ、激しく唇を重ねる。それに応えるように舌を絡めると、二人の息づかいが荒くなっていった。
「もうー。早いよ」
三森は満更でもない表情を浮かべ、顔を高揚させていた。吉村も笑みを浮かべ、リビングへと誘導する。
「だな。続きはあっちだな」
三森はリビングの方に視線を向けると、ようやく壁の文字に気づく。一瞬で表情が固まった。
「…えっ?…何あれ」
吉村は文字を一瞥するだけで、構わずリビングへと向かう。
「んっ?ああ…無視で大丈夫」
玄関で動けずにいる三森に向かって、吉村は声を掛けた。
「おーい。ほら、早く」
「う…うん」
三森は廊下を小走りで抜け、リビングに向かった。そして数分後には先ほどの恐怖もどこかに行き、吉村と三森の息づかいは激しさを増していった。
事が終えると、吉村はいつものように三森が帰った後、星田を呼び出した。自分の家のように、冷蔵庫からビールを出してくつろいでいると、リビングにチャイム音が鳴る。
吉村はビールを片手に持ちながら玄関の扉を開けると、星田が立っていた。星田はいつものように陽気な振る舞いを見せず、どこか神妙な空気をまとっている。
玄関で靴を脱ぎながら、星田は壁の文字を一瞥して吉村に聞いた。
「寺田はどうって?何か知ってるって?」
「んにゃ、あの感じは知らんね」
吉村はビールを一口含み、そのままリビングへと向かった。星田は文字を見ながら進んでいき、リビングの床に腰を下ろす。吉村はキッチンに行き、冷蔵庫から新しいビールを取り出すと星田に渡した。
「うぇーい!おつ!」
陽気に振舞う吉村に対して、星田は作り笑顔を浮かべて返した。
「お、おう!」
どことなくぎこちない態度の星田を見て、吉村はそれを察した。
「…どうした?まだ気にしてんのか?」
星田は左手を振り、そのまま床へと腰を下ろす。
「い、いやいや。全然。仕事で疲れててよ」
「ならいいけど」
星田はビールをすぐには飲まず、あの紙に書かれたことを吉村だけには相談しようかと悩んでいた。中々飲もうとしない星田を見て、吉村は少し苛立ち始める。
「ほら、飲めって!どうした、マジで」
「あ。わりぃ、わりぃ」
その思いを飲み込むかのように、星田はビールを喉の奥へと流し込み、そのまま相談することはなかった。
そして、星田のもとにもう一つの封筒が届く。その封筒を見たのは、翌朝のことであった。変わらず差出元は書かれていなく、怯えながらもその中身を確認すると、星田は身体を大きく震わせながら深呼吸を続けた。
星田は封筒のことを誰にも相談することはなかった。仕事も終わり、自身の部屋に戻るとテーブルに受け取った手紙を並べる。ただそれを見つめ、しばらくすると意味もなく細かく破り、ごみ箱へと捨てた。
「がぁぁぁぁっ!」
星田は意味もなく叫ぶと、置時計で時間を確認する。そして深夜になると、星田は廃材の鉄パイプを持って、何処かに向かった。
26
吉村は上司から与えられた仕事を予定より早く終えたとしても、その旨を報告することはなかった。その間は仕事をしている振りを続け、基本的には社内パソコンでネット記事を読んでは時間を潰しているだけ。
休憩時間になると席から立ち上がり、事務所を出て二つ上の階にある共有スペースに向かった。その際に事務職の姫野を一瞥する。姫野も一瞬だけ視線を動かし、吉村が事務所を出てから二分後に共有スペースへと向かった。
「連絡ねーなー」
吉村は置かれている椅子に座り、背もたれに寄り掛かりながらスマートフォンを操作していた。昨日の夜、星田に送った連絡が返ってこないことに苛立っていたのだ。
姫野が封筒を持って到着すると、先ほどの険しい表情をした吉村は何処かに行き、笑顔で軽く手を挙げながら姫野に近づく。
「おっつー。何飲む?」
吉村が自販機を指差すと、姫野は自販機の方を見る。
「えー悪いですよー。いいんですかー?」
姫野は言葉とは裏腹に、最初から財布を出す素振りも見せずに選ぶ。
「じゃあー…これで」
「いつものね。おけ」
吉村は取り出し口からフルーツティーを取ると、それを姫野に渡した。吉村も自分の分のコーヒーを買うと、二人は椅子に腰を下ろす。姫野はフルーツティーを両手で持ち上げ、笑顔を見せる。
「いただきまーす」
そう言って一口飲むと、小悪魔のような笑みを浮かべる。
「何で毎回ここなんですか?一つ下にも休憩スペースあるのに」
吉村もコーヒーを一口含む。
「馬鹿。ここなら事務所の連中も来ないだろ?」
吉村は床にコーヒーを置くと、姫野の胸に軽く触れた。姫野は満更でもない顔を浮かべ、吉村の手を払った。
「誰か来るかもですよー。他のテナントの人とかー」
「大丈夫、大丈夫。姫野が入る前から使ってるけど、他のテナントもここを使ってんの見たことないから」
「えー?そのときは誰と来てたんですか?」
「そんなの一人でダラダラとよ」
吉村はもう一度姫野の胸に触れると、同じように払われる。それに構うことなく、吉村は姫野の太ももに触れた。
「なぁ。今度はいつよ?」
姫野は何かを考えるように首を傾げ、天井を上目遣いしながら見た。
「ねー。吉村さんが同棲してなかったら、いいんだけどねー」
吉村は太ももに触れている手を動かした。
「大丈夫だって。別邸があるって言ったじゃん」
「えー。だって、事故物件でしょー。私苦手ー」
「大丈夫だって。もし出てきても見せつけてやれば、召されるから」
「はは。うける」
姫野はようやく自身の太ももから吉村の手を引き離す。吉村は笑ってはいたものの、内心は面白くなかった。姫野が持っている封筒に気がつくと、吉村はそれを顎で差す。
「何持ってんの?」
姫野は封筒を見て、思い出した。
「あっ!これ吉村さん宛ての封筒だったー。はい」
吉村は受け取ると、差出人を確認する。
「あれ?誰からだろう?無記名じゃん」
姫野は首を傾げた。
「さぁ?一応吉村さん宛てだから、持ってきたの-」
「ふーん。サンキュー」
違和感はあったものの、それは警戒ではなかった。吉村は手首をひねりながら、封筒の表面と裏面を何度も流し見する。吉村はその場で封筒を開け、中身を確認した。中にあるのは一枚の写真。
「何だこれ?」
吉村はその写真を取り出した瞬間、身体が硬直した。
「なになにー?」
姫野が写真を覗き込もうとしたが、吉村は押し退けて拒んだ。強く押された姫野は体勢を崩し、床に落ちかける。
「いったー。何なのよ!」
吉村は顔面蒼白になり、写真を見ながら言った。
「…わりぃ。先戻ってて」
「はい?」
聞き返す姫野に、吉村は怒鳴り声で言った。
「戻ってろ!」
姫野は不快感をあらわにし、何かを呟きながら事務所へと戻っていく。しばらく写真を見つめ、吉村は小林に電話をした。繋がると、余裕のない吉村は叫ぶように言う。
「てめぇか?」
要件も言われず、急に激怒している吉村に小林は困惑した。
「えっ?」
吉村の手は怒りで震えており、写真を掴んでいる箇所はしわになっていた。
「てめぇが…」
吉村は写真を裏返すと、そこには血のような文字でこう書かれていた。
『次はおまえの番だ…』
それを見た吉村は怒りの表情のまま、奇妙に笑い出した。状況が把握できない小林は、変わらず困惑する。
「ど、どうした?」
吉村は笑うのを止めた。
「今日の十九時に寺田の家に行く。用意しとけ」
「え…」
小林が何かを言おうとしたが、吉村は一方的に通話を切った。そして直後に寺田へと電話を掛ける。
「どうした?」
寺田が電話に出ると、吉村は小林のときと同様に叫ぶように言った。
「おい!お前の家に十九時。小林と行くから」
吉村に寺田の予定を考慮する気はない。それだけを言い捨て、すぐに通話を切る。吉村は写真を睨みつけ、寺田と小林の顔を思い出し、目の前にある椅子を強く蹴った。
27
いつもなら吉村たち全員が揃ってから来るはずが、小林一人が約束の五分前に来た。寺田は小林を迎え入れて聞いた。
「吉村は?」
この日、小林はマスクを着けていたが、それでも表情は暗くみえた。
「分からない…ごほっ」
「風邪?」
咄嗟に聞いた寺田であったが、小林の体調が良かろうが悪かろうがどちらでもよかった。
「いや、喉が…いや、大丈夫」
「吉村が電話越しで凄かったけど、何か知ってる?」
寺田の質問を聞いて、小林は黙ったままスリッパに履き替えた。俯きながら何かを考え、顔を上げたときには再びチャイムが鳴る。
「悪いけど、開けてもらえる?スリッパのままでいいから」
「あ…分かった」
小林が扉を開けると、そこにはいつもの陽気な吉村はいなく、怒りの表情を浮かべている吉村がいた。今にも叫びながら噛みついてきそうな雰囲気に、小林は思わず後退りをする。そのまま小林は玄関と廊下の段差につまずき、尻もちを付いた。
寺田は困惑しながらも、吉村をリビングに来るよう促す。
「とりあえず…中で話そう」
吉村は寺田を睨みつけた後、すぐに小林を睨みつけた。
「…ああ。おらっ!どけ」
座り込んでいる小林を蹴ると、小林は慌てて立ち上がりながらリビングへと向かった。吉村は壁の文字を一瞬だけ睨み、リビングへと向かう。
リビングについて早々に、吉村は立ったまま口を開いた。
「分かってん…」
しかし、それはチャイムで遮られた。吉村は寺田を睨みつける。
「おいっ!誰だ!」
「いや、誰って…」
寺田はその場を避難するように小走りで玄関に向かった。扉を開けると、三森と東雲がいる。吉村も玄関へと向かい、高圧的に寺田に詰め寄った。
「は?呼んでないんだけど」
吉村は寺田と小林の三人で会うのが目的であった。寺田が三森と東雲を呼んだことに、吉村は腹を立てる。寺田は壁の文字を指して言う。
「今日呼んだのは、紙とこの文字だろ?そしたら、聞いてもらった方がいいって」
吉村は首を軽く傾げ、眉間にしわを寄せた。寺田の胸ぐらを掴み、顔を近付ける。
「あ?」
「ち、違うのか?」
吉村は三森を睨むと、三森は咄嗟に目を避けた。
「…まぁいい。すぐ帰れよ」
吉村は舌打ちをし、寺田を押すように手を離すと、そのままリビングに戻った。寺田は首元のしわを軽く伸ばしながら三森を見た。三森は気不味そうにスリッパに履き替え、そそくさとリビングに行く。東雲は寺田にすれ違いざまに声を掛けた。
「だ、大丈夫?」
「うん」
寺田はそう言って頷くと、玄関の扉を施錠しないままリビングに向かった。
リビングでは吉村がソファーに腰を下ろし、テーブルの周りに置いてある座布団に寺田、小林、三森、東雲が腰を下ろしていた。小林は星田が来ていないことに気づくと、吉村に聞いた。
「…あれ、星田は?」
吉村は腕を組み、目を据えたまま言った。
「死んだよ」
一同の視線は吉村に集中する。
「…え?」
三森が聞き返すと、吉村は淡々と言った。
「殺されたよ」
重苦しい雰囲気がリビングに流れる。最初に口を開いたのは三森であった。
「…え?あの封筒の…せい?」
小林は鼻で笑う。
「…偶然だろ。星田は誰かから恨みを買っていた。もしくは通り魔だろ」
吉村は小林を睨みながら不機嫌そうに言った。
「何でそんなこと言えるんだ?何か知ってんの?」
「…い、いや。普通に考えて…そうだろ。呪いだっていうの?ば、馬鹿馬鹿しい」
「いやいやいや…」
吉村はテーブルを強く叩き、持っていた写真を小林の目の前に投げた。
「これ何だと思う?」
そこには首を抑える星田と、その背後に両手を広げている誰かがいた。その誰かは青いフードを被っており、性別は不明であった。小林はその写真を見て、動揺を隠すかのように目を泳がせる。
「…ほら。誰かが星田を殺したんだろ、両手を広げてるんだから、何かロープかワイヤーなんだろ?の、呪いなんてありえない」
「…何でこの写真を俺が持ってると思う?」
吉村の言葉を受け、三森は声を震わせた。
「この殺人犯が、よっしぃに渡してきたってこと…?」
吉村は立ち上がり、小林に近づいた。
「何でワイヤーかロープなんだ?何でそんなこと分かるんだ?」
小林は溜め息を吐きながら首を振り、写真を手に取った。
「首を抑えて、その後ろに手を広げている誰か。首を紐状の何かで絞めている以外、考えられないだろ。そもそも、何でこの写真持ってるんだ?この青いパーカーだって、よっしぃのと同じやつじゃない?」
三森は吉村と小林の顔を交互に見始めた。
「ど、ど、どういうことなの…?あの封筒には、お、お、お前らってあったよ…」
寺田は一人黙っている東雲を見た。恐怖で涙をにじませ、小刻みに身体を震わせていると、少しばかりの鳥肌が立っていた。
吉村の口調は次第に激しくなっていく。
「知らねぇよ!会社に俺宛で届いたんだよ!なぁ、お前の仕業だろ!小林!」
寺田、三森、東雲はなぜ執拗に小林を責めているのか、理解できなかった。小林は吉村と目を合わせようとはせず、写真を見ながら言う。
「…ま、まぁ落ち着けって。星田が殺されて感情的になるのは分かるけど、その犯人が俺って決めつけるのは…お、おかしいだろ」
寺田はスマートフォンを取り出し、時刻を確認するため目を離したとき、床に倒れ込む小林が瞳に映った。顔を上げると、吉村は怒りで身体を震わせ、息を荒げていた。顔を抑えながら倒れ込む小林に向かって、吉村は声を荒げる。
「てめぇには動機があるだろ!そうか、俺も殺す気だな」
吉村は三森と東雲の方を向いて叫ぶ。
「おい!関係ないやつは帰れ!」
三森と東雲は身体を硬直し、蛇に睨まれた蛙のように動けないでいた。
「ど、動機ってどういうことだよ…」
寺田がそう発すると、吉村は強く睨みつける。テーブルに置いてある封筒を乱暴に取り、勢いよく破いてみせた。
「この封筒、お前のだろ?寺田。お前らグル何だろ?こんなこと仕掛けられるのは、住んでいるお前の協力が必要だもんな?」
そう言って、吉村は寺田へと近づく。寺田は吉村の発言を理解できないままでいた。たしかに封筒という演出は寺田が仕掛けたものであったが、それは緊張からの驚きを味合わせることが目的である。それに小林は関係していない。
吉村が寺田の胸ぐらを掴むと、小林は倒れ込みながら失笑した。
「な、何言ってんだ?さっきから。お、俺と寺田がグル?妄想もそこまで行くと、こ、滑稽だな」
「…あっ?」
吉村は寺田を押すように手を離すと、小林の方を睨みつけた。小林は頬を抑えながら、壁に腰を預けた。
「あれだろ、お前。実行犯のお前らだけいい思いして、俺だけ取り分が少なくて。そ、それが原因だと言いたいんだろ?」
「…何言ってんだお前?」
吉村はドスの利いた声でそう言い、三森と東雲の方を一瞥した。小林は不気味に笑い、興奮していたのか大声で言った。
「ね、猫鳴町殺人事件って知ってっか?ここだよ!ここ!あの犯人は…」
小林の言葉に、寺田は身震いする。それと同時に小林の続きに注目した。それを阻むかのように、吉村は座り込む小林の顔面に右足を放つ。
「…!」
元サッカー部だけあり、その衝撃は凄まじかった。小林は大きく右へと飛んでいくと、掛けていた眼鏡も何処かに飛んでいった。小林はリビングの入り口付近に倒れたが、マスクを顎まで下げ、その続きを叫んだ。
「おおおおお、俺たちだよ!俺たちが殺したんだ!」
先ほどまで怒りを露わにしていた吉村であったが、小林の言葉に動揺を隠せない。目を左右に動かし続け、何度も寺田たちの表情をうかがった。
「…いや。な、何言ってんだよ」
その様子を見た小林は再び笑った。
「はははははは…も、も、もう無理だよ。ほ、星田が誰かに殺されて、それをお前に送り付けてきたんだろ?もうバレてるんだよ…ぜ、全部。橋本の知り合いの誰かに」
身体を起こし、その場で座り込むと、すべてを悟ったかのように話し始めた。猫鳴町殺人事件の真相を。
28
――事の発端は、星田の些細な発言であった。部活動も引退し、同じ高校に通っていた吉村と星田は時間を持て余していた。いつもの自販機の横で座り込み、星田は飲み干した缶ジュースを横に振る。
「あー金が欲しい」
吉村は溜め息を吐いて頷いた。
「…だな」
少しの沈黙が生まれ、星田はスマートフォンを取り出し、誰かに電話する。
「あ、もしもし。いつものところに、すぐに来て」
その五分後に現れたのは小林であった。息を整えていると、星田は小林の頭を軽く叩いた。
「おせぇよ。んっ?」
そう言って右手のひらを前に出すと、小林は目線を下に向け、言いにくそうにした。
「いや、それが、悪いんだけど…」
吉村は立ち上がり、小林の前に一歩近づいた。
「何?聞こえないけど」
小林は少し身体を震わせ、意味もなく吉村と星田の靴を交互に見た。
「はっきりしてくれよ?なっ?」
星田の高圧的な態度に、小林は声を震わせて言う。
「…そ、それが、もう金なくて。わ、悪いんだけど」
吉村と星田は顔を見合わせて笑うと、星田は小林の右足を蹴った。
「じゃあ、どうすんの?んっ?」
小林は蹴られた右足を抑え、黙り込むしかなかった。
「仕方ねぇ。ほら、頭だけは良いんだから猶予をやるよ」
吉村は悪びれもせず、むしろ寛大な心だとばかりに星田へ困り顔を向けた。星田は溜め息を吐き、小林の肩を軽く叩く。
「良かったな。まとまった金が入れば、俺たちも無理させるのはやめるよ」
小林は髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。吉村は満面の笑みで、付け加えた。
「この意味分かるよな?」
その表情と言葉で、小林には痛いほど伝わった。それは犯罪行為でもいいから、大金を用意しろと。そうすれば、もうこの地獄から解放するという意味であった。
星田は何度も頷き、吉村の優しさを称えながら言う。
「いや、お優しい。とういうことで、明日中に連絡しろよ」
「えっ?明日って、無理に決まってるだろ」
小林の言葉などを無視して、吉村と星田は空き缶を片付けとくよう命じると、その場から去っていく。小林は地面に置かれている空き缶を蹴飛ばそうとしたが、黙ってそれを捨てた。――
当時を思い出し、小林には苦痛な日々であったが、それでも笑いながら話していた。寺田はそれを見て、小林の抱える闇の深さに恐怖を覚える。小林は膿を吐き出すかのように話を続け、寺田たちは黙ってそれを聞いているしかなかった。
小林は落ち着きがなく、常に身体を前後に揺らしながら話を続けた。
「て、適当な理由を付けるので必死だったよ。星田の馬鹿が明日中何て言うからよ。そ、それっぽい理由を考えたよ。雑草が生い茂っているとか、家の老朽化が進んでいて、年寄しか住んでないとか、防犯カメラも一切ないとか…も、もう色々だ!色々言ってやったよ」
吉村と星田による悪質ないじめによって小林が追い込まれ、偶然にもこの家が標的として選ばれてしまったのだと、このとき寺田は事件の真相を初めて知った。寺田は小林の話に引き込まれていき、早く続きを知りたいと思うのと同時に、吉村を一瞥する。
先ほどのように妨害されたら困ると思っていたが、立ちすくむ吉村を見て、その心配はないと寺田は思った。
「一日で調べることなんて無理に決まってんのに、星田は上機嫌に褒めてたよ。あの豚。よ、吉村は疑ってたから、念を押してきたけど…」
小林は何度も瞬きをし、吉村を見ながら続ける。
「もしバレたら、俺らの名前を絶対出すなよ。そ、そのときはお前の家族に迷惑掛かるぞ、だって。いやー最低な脅し文句だったけど…さ、最強の脅し文句だったよ。実行日の当日に通報してやろうと思ったけど、恐くてとてもじゃないけど、む、無理だったね」
もう小林の独壇場であった。誰も小林を止める者はいない。当初は強気であった吉村も、小林の逆らう姿を見るのは今日が初めてで圧倒されていた。
今日という日まで、小林は心にある膿を吐き出すことなく、溜めていくだけであった。その器から膿は溢れ出し、止まるすべを誰も知らない。
「がたがた震えだす俺を見て、星田は殴ってきたね。そ、それでも震えが止まらない俺にしびれを切らせたお前が、星田を連れて乗り込んだのは興奮したよ。な、何度心の中で捕まれ、見つかって殺されろって祈ったことか」
小林は両手を叩きながら笑った。
「お、俺の適当に言った理由がまさか本当だったなんて。事実は小説よりも奇なりって言うけど、自分の優秀さを呪ったよ。そうか、呪いはあったんだ。はははははは」
寺田は椎平から見せてもらった新聞の切り抜きを思い出す。小林が適当に吐いた理由は、不運にも殺された橋本に一致してしまった。
「戻ってきた豚はビビってたくせに、一番興奮してやがった。か、顔を見られたから、めった刺しにしてやったって。けど、お前が一番不気味だったよ。返り血のついた服を、キッチンから盗んだゴミ袋に押し込んで戻って来てよ。ひ、人を殺してんだぞ?普通、動揺するだろ?」
小林は何度か痙攣しているかのような動きを見せ、天井を見つめながら笑い始めた。その笑い声だけが、不気味にリビングで木霊する。吉村を見て、小林は聞いた。
「お、俺だけ取り分が少なくて、星田を殺したんだと思ってんだろ?」
吉村は身体を微かに震えさせ、言葉には出さないものの、脳裏には当時の記憶が蘇っていた。
――橋本の退職金を得た吉村は、星田と一千万ずつ分け合った。そして、小林にも十万だけ渡す。
「ほら」
金額の問題ではなく、小林は受け取るのを躊躇した。しかし吉村は小林の目を強く睨み、無理やり握らせる。
「いいか?お前も共犯なんだよ。これで俺たちは対等だ」
最後に強く念を押すと、吉村と星田はその場から立ち去った。
帰り道に星田は興奮していたが、懸念も抱いていた。
「小林の奴、チクらねぇかな?」
「大丈夫だろ。むしろ、俺たちが実行犯でよかった」
「何で?」
「俺らは実際にした側の人間だ。もしチクったら、奴もどうなるか想像できるだろ?」
「おー確かにな。それでどうするよ?解放するわけ?」
「それはそうだろ。これ以上、あいつを追い込んでいいことはない。潮時だ。言ったろ?対等だって」――
追い込まれる手前で小林を解放した吉村は、星田の殺害理由を取り分であると思っていた。小林は何も答えない吉村に向かって叫んだ。
「お前、自分が頭いいと思ってるようだけど、豚と何にも変わんねぇよ!いいか?お、俺はお前らの存在自体が、死んでほしいほど憎かったよ。もし呪いがこの世にあればと、何度祈ったこか!」
寺田は小林ほど呪いを信じ、呪いを信じなかった人間は身近にいなかったと思った。小林は寺田を指して言う。
「こいつにバレてないか不安がってたよな?あんな自作自演で苦しみやがって、笑い転げないように必死だったよ!」
「…自作自演って?」
小林は寺田の方に視線を向けたが、焦点が定まっていない。
「壁に書いてあった文字だよ!レバーとペンキを混ぜて!あんな汚ねえ二階で必死に耐えてたんだよ!てめぇが寝るまでな!」
小林は再び吉村の方に視線を向けた。
「この何年もお前らは運良くバレなかったけど、もう終わりだ。ししししし、死ね!死ね!死ね!呪いはあったんだ!はははははははははははははは」
人が壊れだす様は、何とも異様なものだろうか。寺田たちは黙って、小林を見ていることしかできない。寺田はこれまで見てきたホラーは、すべて創作の域を抜けだせていないことが分かった。リアルというものは、こういうものなのか。
あまりの衝撃に、これまで知っていた恐怖とは違う、何か別の恐怖が襲ってくる。東雲は腰を抜かし、大きく身体を震わせていた。三森は感情のコントロールが自身で保てなくなり、思わずその場で嘔吐する。
寺田は壊れる小林を見つめ、立ち尽くしたまま呟く。
「…え、星田を殺したのは。…小林じゃないの?」
あまりにも衝撃な出来事に、玄関の扉が開いたことに誰も気づかなかった。誰かが廊下をゆっくりと歩き、リビングのドアを開ける。姿を現したのは、あの青いパーカーを着た誰か。
寺田がポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認すると約束より五分ばかり早かった。
29
――前と同じ居酒屋で、前と同じ偽名を使って、今度は寺田が小藤田を呼び出した。
小藤田は寺田が連絡を送った時間よりも、五分ほど早く到着した。個室で待っていた寺田は姿を現した小藤田を見て、軽く頭を下げる。小藤田も軽く頭を下げ、対面へと座った。
小藤田の頬は以前よりもこけており、寺田はその頼りなさから話を切り出しづらくいた。すると、小藤田から言葉が発せられる。
「…あの、大事な話ってのは?」
寺田はあの憎悪に溢れた小藤田の顔を思い出し、小藤田の前に自身のスマートフォンを置いた。
「聞いてもらえますか?妹さんがあの日、誰に轢かれたかを」
そう言って、寺田は遠隔カメラで録画した映像を再生する。そこには、吉村と星田が映っていた。
「あれはどうなったんだよ?」
「ふん?あれ?」
「車だよ、車」
「あーあへね。うちでしょふんしたから、へへへ」
「頼むぜー。あれ見られたら、さすがにバレるからな」
「だーじょぶだーじょぶ」
「車代割り勘だからな」
「んなかねねーよ」
「馬鹿。彼女に車どうしたの?って聞かれて、大変なんだぞ」
「どーせいちゅうほ?」
「ったく、やっぱり飲酒はよくねーよ。今回も偶々良かったものの」
「だなー」
「運がいいのか、悪いのか。とりあえず金頼むぞ。まだ残ってるだろ?」
「いやーほんとねーて」
「まじかよ。何に使ったんだ?」
「へへへへへ」
「ったく。もうあんなん無理だろ…いや、田舎なら意外と」
吉村と星田は大声で笑い、愉快に酒を交えていた。
「あんな夜道歩かれて、こっちも迷惑だわ」
「なー」
小藤田はスマートフォンを手に取るのではなく、テーブルに両手を付き、スピーカー部分に耳を最大限近付けていた。それは聞き終えた後でも、変わらずスピーカーに耳を近付けたままである。ただ違うのは、両手は握り拳に変わっていた。少しの間を空けて、寺田は言う。
「この映像を取った日は、妹さんが亡くなった二日後です。確定的なことまでは分かりませんが、この二人が…」
小藤田は寺田の言葉を遮って言う。
「ああ!間違いない」
姿勢を戻す小藤田の顔には、怒りが滲み溢れていた。
「どうして!どうして、そのまま逃げたんだ!もし!もし救急を呼んでいたら、助かっていたのかもしれないのに!」
爆発する怒りは個室から漏れ出し、慌てた様子で店員が現れる。
「お、お客様。いかがされましたか?」
寺田は小藤田を一瞥し、店員に頭を下げた。
「す、すみません。何でもないです。静かにします」
店員が去っていく足音を聞いて、寺田は声を小さくして小藤田に提案をする。
「どうします?偶然にも、俺の知り合いです。協力できますよ」
小藤田は怒りで身体を震わせ、鼻息を荒くしながら寺田を見た。
「協力?」
寺田は頷いた。決して笑みがこぼれないように、真剣な表情を作りながら。
「…はい。奴らがどこにいるのか。それを小藤田さんに教えます」
「教えてどうなるんだ?」
「人影の少ない、防犯カメラもないところに呼び出すんです。そこで小藤田さんが復讐するんです」
「…復讐。…復讐か」
「ええ。加害者と被害者を知っているのは小藤田さんと俺だけ。きっと、妹さんが復讐を望んでいるに違いありません」
「…復讐」
「法の裁きで満足できるんですか?すべてを奪った奴らに対して」
寺田は柄にもなく、熱く語っていた。そう、これはすべて演出である。小藤田を操り、恐怖という名の驚きを作り上げるために。
そこからは寺田の演出通り、物事は恐ろしいほど順調に進んでいった。
寺田は例の居酒屋に小藤田を呼び出し、袋を差し出した。
「これを使ってください」
小藤田は中を確認すると、そこには青いパーカーと手袋、ワイヤーが入っていた。小藤田が確認していると、寺田は淡々と説明を加えた。
「そのパーカーを着て、フードも被ってください。場所は人気もなく、防犯カメラもないですが、念のため。あと星田は体格がいいので、このワイヤーで後ろから。手にワイヤーがくい込まないように、手袋も入ってます」
小藤田は中身を見つめたまま、寺田の話を聞いていた。しばらくしてから静かに頷き、ゆっくりと顔を上げる。小藤田の瞳には復讐の念が宿っていた。
「…わかりました。この怨みが晴らせるなら」
「日時は追って連絡します。しばらくはゆっくりしてください」
寺田がそう言うと、小藤田は袋を抱き締めて頷いた。
寺田は差出元を無記名のまま、星田の会社宛てに封筒を投函した。そこには偶然知りえた轢き逃げに関する情報を紙にまとめ、寺田は不気味な笑みを浮かべながら最後にこう入力した。
『この件について、貴殿と交渉がしたい。場所は追って知らせる。この手紙について他言した場合、貴殿は社会的抹殺だけでは済まない。この手紙は確認後、破棄することを勧める。貴殿のためにも』
寺田は星田が警察や親、吉村など第三者に相談をしないか、注意深く観察した。とはいえ、星田を尾行して変に気づかれてでもしたら、この作品は台無しになってしまう。そう考えた寺田は、自身の家と勘違いしている吉村を遠隔カメラから観察した。
吉村は寺田の家に来ては何かと理由を付けて追い出すと、その間に三森を呼び、入れ替わりで星田が登場するという一定の流れがあった。そして吉村が帰ると、後片付けは寺田がする。これも決まってそうであった。小林の言っていた『ドンマイ』とはこのことかと思ったが、今の寺田にとっては好都合であった。
この日も吉村は殺されかけたというのに、何もなかったかのように翌夜にやってきた。寺田はリアルタイムでその様子を、フランチャイズレストランの奥で密かに見守る。耳にイヤフォンを付け、周りに警戒しつつもスマートフォンの画面を凝視した。
吉村に何か変わった様子は見受けられない。いつものように陽気に酒を飲み、しばらくしてから三森と交わる。それを見る限り、吉村は星田から何かを聞かされているようには思えなかった。
それは入れ替わりで星田が来ても、様子に変化はなった。仮に警察へ相談していたら、吉村の耳にも入るだろう。寺田はカメラを凝視し、耳を澄ませて録音していた会話を聞き逃さなかった。
「うぇーい!おつ!」
陽気に振舞う吉村に対して、星田の態度は少しぎこちなかった。
「お、おう!」
カメラは一か所にしか設置していないため、様々な角度から確認することは不可能である。星田の表情を確認できなくても、寺田はその表情が作り笑顔であることが容易に想像できた。
「…どうした?まだ気にしてんのか?」
これはきっと、轢き逃げのことであろうと寺田は思った。星田は飛んでいる虫をあしらうかのように左手を振り、床へと腰を下ろす。
「い、いやいや。全然。仕事で疲れててよ」
「ならいいけど」
吉村と星田のやり取りを見て、現状は誰にも口外していないと寺田は感じ取った。それと同時に、寺田はいつ星田に場所と日時を指定するか考えた。日を空けて、何事もなかったと安心させてから、再び封筒を投函し恐怖を味合わせることも考えたが、それは都合が悪かった。なぜなら、轢き逃げの件を知っている内容が紙に書かれているのだから。また日を空けることで、吉村だけには相談しようと考え直されても困る。
小藤田の復讐の念が燃えているうちに、寺田はラジオ代わりに吉村と星田の会話を聞きながら、テーブルにノートパソコンを出して新たに文章を打ち始めた。画面で吉村と星田の動向を確認し、寺田は会計を済ますと近くのコンビニエンスストアで印刷を済ませ、そのまま星田の会社へと持参した。
30
寺田は星田を人気もなく、防犯カメラが未設置の公園に来るように指定した。寺田は約束より一時間早く公園に到着したが、ここで想定外の事態に陥る。
公園に近づくにつれて、寺田は嫌な予感がしていた。微かに聞こえる若者たちの声が、次第に大きくなっていく。公園を通り過ぎながら横目で確認すると、数人が遊具の周りで何やら盛り上がっていた。寺田はそのまま公園を過ぎ、近くの電柱の陰へと隠れる。
星田にはすでに日時と場所を連絡しているため、ここを変更することはできない。警察に連絡して若者たちを追い払おうとしても、その後ここで星田が殺害されたら疑いの目が向く。今日は見送り、また日を改めることを考えたが、その案は抹消された。
星田は見えない相手に怯え、交渉する余地がないと思われたなら、いっそのこと自首をしようと行動を移すかもしれない。寺田は想像しつつ、それはないと首を振った。放置された星田が逆上し、吉村に封筒の件を口走ってしまう可能性の方が遥かに高いと頷く。
それよりも小藤田であった。ついに復讐の時間が来たと思ったら、それが延期となれば納得するのだろうか。すべてを失ってでも復讐しようとする小藤田を、寺田は説得できるほどの術を持ち合わせていない。
寺田はスマートフォンで時間を確認すると、約束の時間まで三十分を切っていた。待機している小藤田に連絡を入れる。
「もしもし。小藤田さん?緊急事態です。今から言うところに来てください」
公園から少し離れた暗闇で待機していた小藤田は、電話越しで早口になっている寺田の声を聞き、公園の方を向く。若者たちの盛り上がる声を聞いて、その理由を理解した。
「…分かった。すぐに向かいます」
「じゃあ、近くのコンビニに。すぐに」
星田は万が一に備えて、廃材の鉄パイプを片手に公園へと向かっていた。ここを右折し、もうしばらく歩けば公園が見えてくる。そう思った星田の手に汗が滲み、強く鉄パイプを握った。
何かを呟きながら星田は道を曲がると、そこには寺田と小藤田がビニール袋を持って歩いていた。寺田は星田が家から公園に向かうのなら、この道を通るだろうと予想していた。もし出発地点が家ではなく他の場所だったとしたら予測不可能なため、これは賭けであった。
寺田はわざとらしく偶然を装うと、星田に話し掛ける。
「…あれ?星田?どうしたの、深夜に」
緊張していた星田は身体を硬直させ、相手が寺田だと気がつくと、深い溜め息を吐いた。
「…っんだよ。驚かせんなよ」
寺田は星田が持っている鉄パイプを一瞥した。
「どこ行くの?」
寺田が鉄パイプに視線を向けたことに気がつくと、星田は自身の後ろに隠し、苛立ちと焦りを混ぜた雰囲気をかもし出す。
「いいだろ。どこでも。どけよ」
星田は構わず前に進み、避けそこなった寺田は肩がぶつかると、少しよろけた。
「公園?なら止めた方がいいよ」
後ろから寺田がそう言うと、星田は足を止めて振り返る。
「…何でだよ」
「パトカーと救急車が来てたよ。通り過ぎた感じ、誰かが怪我してて、その周りを誰かが叫んでたって感じ」
星田はしばらく黙り込み、寺田に聞いた。
「…それって、今か?どんな奴がいた?」
寺田は考えるふりをし、思い出したかのように言ってみせた。
「…あっ。何か俺が見た感じ、集団が一人を痛めつけてた感じ。周りにいた奴らは、俺たちの縄張りがどうとかって言ってたよ」
星田は再び黙り込むと、急に笑顔を見せた。
「っんだよー。早く言えよ!」
寺田は星田が安堵する様子を見て、都合よく自己解釈したのだと感じた。
星田を呼び出した誰かが公園に行くと、集団に暴行されて病院送りになったのだと。もし仮にそうだとしたら、星田が誰かに依頼して痛めつけてきたと勘違いし、交渉の話も水の泡となり、轢き逃げを警察に密告されるとは思わないのだろうか。目の前の恐怖から解放され、その先のことを考えていない星田は能天気そのものであった。
星田はここでようやく小藤田の存在に気がつく。
「…あれ?誰?」
「この人は同僚の小藤田さん。今から心霊スポットに行って、飲みながらカメラ回そうと思ってて」
目の前に妹の仇がいる、それでも小藤田は計画に支障が起きぬよう、必死で憎悪を抑え込んだ。
「…どうも」
星田は小藤田を一瞥しただけで、寺田の持つ袋の中身を気にした。
「もしかして、酒?」
寺田は袋を軽く上げてみせた。
「そうだけど。もし暇なら、一緒に行く?」
ただ酒が飲めるのならと思った星田は、言われるがまま寺田と小藤田に付いていった。小藤田は近くに停めておいた車に乗り込むと、続けて寺田と星田も乗り込む。
星田は後部座席に座ると靴と靴下を脱ぎ、寝そべり返った。
「どのくらいで着くの?その心霊スポット」
無反応な小藤田の代わりに、寺田が答える。
「二、三十分かな」
「ふーん。ふわぁ…」
興味が無いような相づちを打ち、星田は盛大にあくびをした。車内の天井を見つめ、小藤田に話し掛ける。
「これってあんたの車?」
また無視をすると思い、寺田は素早く答えた。
「そう。小藤田さんの」
「ふーん。廃車するなら、星田組重工がおすすめだよ。一瞬でサイコロになるから」
その言葉に、小藤田はようやく反応をみせた。
「最近はいつ廃車にしたの?」
「…あっ?」
星田がその言葉の意味を理解する前に、寺田は袋からビールを取り出して渡した。
「もう少しかかるから、先に始めてて」
星田は上体を起こし、ビールを受け取ると上機嫌になった。
「お!わりいねぇ」
寺田は小さく溜め息を吐くと、小藤田を横目で見た。小藤田は気にすることなく、ただ前を見つめてハンドルを握っている。それを見て、寺田は再び小さく溜め息を吐いた。
着いた場所は山奥にあるペンション。誰も管理していなく、出入りは自由と言っていいほど扉は壊れており、窓は割れていた。
近くに車を停めると、寺田と小藤田は荷物を持って降りた。星田は千鳥足になりながら車を降り、寺田が代わりにドアを閉める。後部座席には空き缶が五つあり、寺田は持っている袋の中身を確認した。
寺田はまっすぐ歩けない星田を誘導し、リビングと思われる場所でそのまま座らせた。
「すげぇなぁ。廃墟って感じ」
何とか聞き取れる言葉で星田がそう言ってるのを耳にし、寺田と小藤田は準備を始める。三脚を立て、リビング周りが撮影できるようにビデオカメラを設置した。
寺田は持参した携帯照明で僅かな明かりを点すと、袋からビールを取り、星田の顔の前に差し出す。
「もう一本飲む?」
「わりいねぇ。おっと、そ、その前に、と」
星田は立ち上がろうとしたが、そのまま体勢を崩して尻もちを付いた。寺田は激しくなる鼓動を抑え、表情に出さずに聞く。
「…どうした?」
何か察したかと懸念したが、それは杞憂に過ぎなかった。星田は床に手を付き、何とか立ち上がる。
「そーめん」
唐突に意味不明なことを言い出した星田を見て、寺田の思考は一瞬止まる。つまみで素麵が食べたいのかと想像したが、星田はリビングの端へ行くと、その場で放尿を始めた。
それを見た寺田は星田の酔いが回っていることを確信し、小藤田に視線を向ける。薄暗い部屋であったが、小藤田の身体は小刻みに揺れているのが分かった。
小藤田は袋から青いパーカーを取り出すと、静かに着替え始めた。
星田は右へ左へと行き来しながら戻ってくるだけで息を切らせている。
「いやぁー。飲みすぎ…」
その瞬間、小藤田は星田の後ろからワイヤーを回し、すべての力を注いで締め付けた。星田は混乱しながらも、手を首元に持っていったがほどなくして息絶えた。
リビングでは、小藤田が激しく呼吸する音だけが響く。寺田はスマートフォンで時間を確認すると、小藤田に声を掛けた。
「時間がないです。そのワイヤーで自殺したように見せかけるんで、手伝ってください」
小藤田は身体を大きく揺らしたまま、反応がない。ただ星田を上から見下ろしているだけであった。
「小藤田さん?」
小藤田は寺田を無視して、星田の顔を蹴る。それを見た寺田は慌てて駆け寄った。
「小藤田さん!?ダメですよ!外傷があったら、怪しまれます」
しかし、小藤田の耳には届かない。
「こいつが妹を…こいつが妹を!」
小藤田は構うことなく攻撃を加えようとしたが、寺田は身体を使い、必死になってそれを止めた。
「小藤田さん!もしここでバレたら、最後の一人に復讐できませんよ!?ここは堪えてください」
ようやく小藤田の耳に届いたのか。小藤田は鼻息を荒くしたまま動きを止め、静かに頷いた。
それから寺田と小藤田は協力して星田を二階へと運び、ドアノブにワイヤーを掛けると、星田が自殺をしたように手を加えた。しかし、そのドアノブは星田の体重を支えるほどの強度はなかった。
壊れるドアノブを見て、寺田は焦りながら周囲を見回す。
「柱しかなさそうですね…」
寺田は小藤田を肩車し、ワイヤーを柱に通した。二人がかりで体重を加えて星田を吊るすことに成功すると、すぐにリビングへと向かった。
「日が明けるまでに、ここを離れましょう」
小藤田からの反応はないものの、二人の意志は通じていた。持参した物をすべて片付けると、寺田と小藤田は車に乗り込み、その場を後にした。
寺田は途中で車から降り、ドアを閉める前に小藤田に言う。
「もう一人の件は、また追って連絡します。あと…」
後部座席にある星田が持っていた鉄パイプに視線を向けた。
「あれも処分してもらっていいですか?」
小藤田は鉄パイプを見て頷いた。
「…早いうちに頼む」
そう言うと、小藤田の車は去っていった。寺田はその場で深呼吸をし、一度感情を落ち着かせる。ビデオカメラの確認をしたかったが、はやる気持ちを抑え、帰路を進んだ。寺田は無意識に小走りをしており、その身体は興奮で震えていた。
部屋に戻ると、早々に寺田は玄関でビデオカメラを確認した。小藤田が星田を絞殺するシーンを見て、再び興奮する。それでも鳥肌が立つことはなかった。目の前で初めて人が死ぬ瞬間を見ても、興奮を超える何かがない。事故物件に住み続けて、感覚が狂ったのか。そう思った寺田であったが、これは結末に向けた一種のスパイスに過ぎないと納得した。
寺田はそのシーンだけを切り取ると、L判サイズで写真印刷した。さらなるスパイスを加えるためにも、その写真を封筒に入れ、宛名を貼り付ける。
これを見たときの吉村は、どのような表情や反応をするのだろうか。想像するだけで、寺田は興奮していた。星田が絞殺されているだけではなく、自身と同じパーカーを着た誰かがそこにいるのだから。緊張が走り、恐怖に怯えるに違いないと、寺田は確信していた。
そして会社で封筒を受け取った吉村は、すぐに寺田と小林に連絡を取った。寺田はその理由を知っていたが、ここでも何も知らない振りを演じ続けた。
「どうした?」
電話越しで、吉村が苛立っているのが手に取るように分かる。
「おい!お前の家に十九時。小林と行くから」
一方的に電話を切ると、寺田は笑みを浮かべるしかなかった。急いで、小藤田にそれを伝える。
「今日の二十時には、もう一人の男が来るので」
寺田は部屋に置かれていた封筒と、今回の件を結び付けたかったため、あえて一時間遅く伝えた。その間に演出を施し、最後に小藤田の登場を思い描いた。
「…分かった」
「特徴は言った通り、男で、眼鏡はしてません。裸眼です」
反応はないが、呼吸から聞いていることは分かった。寺田は続ける。
「玄関の扉は鍵を開けておくので、時間になったら入ってきてください」
変わらず反応がないものの、寺田は心配をしていなかった。
「では、また…後で」――
31
吉村の瞳に、小藤田が着ている青いパーカーが映っていた。それでも頭は正常に処理をしてくれない。リビングの入り口で、小林が天井を見上げながら奇声を発していると、小藤田は鬼の形相で額に鉄パイプを振り下ろした。鉄パイプは歪み、小林の後頭部が床に叩きつけられる。
小藤田はそのまま小林に馬乗りになると、何度も鉄パイプを振り下ろした。鈍い音がリビングで響き渡り、床には血飛沫が広がっていく。その血飛沫が吉村の顔に跳ねると、ようやく目の前の光景のおぞましさに気がついた。
「…えっ?」
吉村は顔に飛んできた血飛沫を指で触り、付着した血と目の前にいる誰かを交互に見る。その間も小林に振り下ろされる鉄パイプが止まることはなかった。
「だだだだだだ、誰だ!?はは、橋本かっ!?ししし、死んでなかったのかっ!?」
吉村はその場で腰を抜かし、絶叫していた。それに構うことなく、小藤田は手を止めることはない。その間にも血飛沫が跳ねると、部屋の隅にいる三森と東雲の顔にも付着していた。しかし、まだ状況を理解することができず、悲鳴を上げることはなかった。ただ脳の処理が追い付いていなくても、身体は恐怖を感じている。
三森は身体を震わせながら動悸が激しくなり、過呼吸になっていた。東雲も身体を震わせ、上下の歯を何度も激しくぶつけている。
目の前で小林が殴られ続けているのを見て、恐怖から脳を遮断していたに違いない。吉村に至っては、目の前に橋本がいる感覚に陥っている。そして、小藤田を呼んだ張本人でもある寺田自身も、今の状況が理解できていなかった。
「ははは、橋本だ!全部本当だったんだ!封筒も壁の字も!俺らを殺しに来たんだ!」
吉村は笑いながら叫んでいると、その近くで状況をようやく理解した三森は嗚咽と悲鳴を混ぜた声を上げる。寺田は小林の付けていたマスクが真っ赤に染め上がるのを見ながら、寺田は吉村と三森の間に小林の眼鏡が落ちていることに気づいた。
『特徴は言った通り、男で、眼鏡はしてません。裸眼です』
溢れ出す興奮を抑えていた小藤田の目の前に、裸眼である小林がリビングの入り口にいると、すぐに復讐という名の狂気に移ったのだ。本当の復讐相手は、その殴り続けている横で絶叫している吉村であったが、それに気づいた寺田が訂正することはなかった。なぜなら、寺田にはどうでもいいことであったからだ。恐怖を演出してくれるのならば、吉村だろうと小林だろうと、東雲以外なら誰でもよかった。
寺田は東雲の方に視線を向けると、大きな瞳から涙を溢れさせ、両耳を塞ぎながら身体を大きく震わせているだけであった。寺田は感情を昂らせ、身体に鳥肌が駆け巡るも、まだあのときの興奮ほどではない。
猫鳴町殺人事件の真相や、吉村たちの過去が明らかになるといった想定外の驚きがあり、寺田の思い描いた恐怖をはるかに上回る演出が施されていた。
あとは東雲だけである。そのためにも、寺田は三森を脅したのだから。
――吉村から連絡を受け取った寺田は、小藤田に連絡した後、すぐに三森にも連絡した。三森は寺田からの着信に、東雲のことで相談かと思い、通話ボタンを押す。
「珍しいねー。どうしたの?」
時間を掛けたくなかった寺田は、すぐに本題へと入った。
「今日、吉村と小林が家に来るけど、誘われてる?」
「えっ?知らないよ」
吉村から小林の名前しか出ていなかったことに違和感があった。寺田の予想通り、三森たちは聞いていなかった。
「東雲も連れて、今日の十九時に来てほしい。うちに」
「えっ?何で?急に言われてもー」
「いいから。吉村との関係をバラされたくないだろ」
これはホテル代わりに使われていた寺田の怒りも含まれていた。それでも声を荒げていては、事が進まない。そう考えた寺田は渋る三森に、声色を変えずに淡々と言う。
電話越しでも三森が動揺していることが分かった。
「…えっ?えっ?どういう意味…」
「想像してる通り。映像もある。東雲と一緒に来てくれたら、映像は消すよ」
「えっ?えっ?」
「吉村に相談はするなよ。いいか。今日の十九時に家に来てくれ。東雲を連れて」
三森はまだ何か言っていたが、寺田は一方的に電話を切る。そして口元だけが笑みをこぼし、こう思った。役者がそろったと。――
すべてはこの瞬間のためである。
『あの林間学校のように絶叫する君が、そこにはいた』
このオチを最後に、この作品は完成する。恐怖はあまりにも度を越えると、求めている反応を示してくれない。小藤田が退出することで、少しでも冷静さを取り戻すのではないかと考えた。寺田は頭の中で、文章を付け加えた。
『目の前で起きていた出来事が現実だと知ったとき、あの林間学校のように絶叫する君が、そこにはいた』
寺田は絶叫する東雲を想像しただけで、帯びていた鳥肌が増していく。もしそれを見たとしたら、あのときの興奮が再来する、もしくは超えてくるのではないかと胸を高鳴らせた。
その寺田の思いが通じたのか、小藤田は殴り続けていた鉄パイプを止めた。鉄パイプは真っ赤に染まり上がり、歪に変形していた。小林の顔は原型を留めていなく、赤い塊に変わり果てている。
寺田は立ち上がった小藤田を見て、そのまま消え去っていくのかと思っていた。
「終わりだ!橋本だ!次は誰だっ!?ほらほらほら…」
笑っている吉村が目障りだったのか、小藤田は虫を払うかのように鉄パイプで殴ると、吉村は床に倒れながらもまだ何かを言っていた。
小林が殺されるといった手違いはあった。寺田は小藤田自身がそれに気づかなければ、妹の復讐を果たして気分が晴れたはずだと思っていた。しかし、小藤田は去ろうとしない。
ポケットから本のようなものを取り出し、寺田に近づいてくる。小藤田の予期せぬ行動に、寺田の身体は硬直した。そして寺田の目の前には床が現れ、頭に激痛が走る。
「…えっ?…小藤田さん?」
血を流しながら見上げてくる寺田に、小藤田は持っていた本を目の前に投げた。そして、小藤田は言う。
「…お前のせいだ」
小藤田は変形した鉄パイプで、何度も寺田を殴り続ける。その置かれた本にはダイアリーと書かれており、表紙には唯一付き合っていた彼女の名前が記されていた。
薄れゆく意識の中。寺田の瞳には、林間学校のときのように絶叫する東雲がそこにはいた。それでも、寺田の身体が反応することはもうなかった。
32
「やぁやぁやぁ。どうぞこちらに」
男が約束の時間に不動産屋へ訪れると、中から椎平が笑顔で出迎えた。男は誘導されるがままソファーに腰を下ろすと、そのまま対面に椎平が座る。
「今日はご足労いただき、ありがとうございます」
椎平は名刺を差し出すと、男は受け取りながら軽く周囲を見回す。その様子に気がついた椎平は、テーブルに書類を置きながら言った。
「今ちょうど出払ってまして」
男は頷きながら視線を書類に向けると、五年前にニュースになった新聞記事の切り抜きが置かれていた。椎平は笑顔を崩さずに言う。
「ええ。そうなんです。呪われた猫鳴町殺人事件はご存じですか?」
<了>




