第5話:彼女の瞳に映るもの、蓮の覚悟に灯る炎
東京競馬場――午後の陽が傾き、スタンドを流れる空気がゆっくりと落ち着いていく。
水島蓮は、第7レースの的中馬券で手にした払い戻しをポケットに収め、
ふと気づけば渡瀬葉月と並んで、観客席のベンチに腰掛けていた。
かつて、遠くから眺めていた“綺麗な先輩”。
それが今、隣にいる。
たったそれだけのことなのに、不思議な静けさが胸の奥に残る。
「……このレースも、一緒に見ていかない?」
「いいんですか?」
「ええ。母はもう帰ったし、ちょっとだけね」
その言葉に、蓮はうなずいた。
自然な誘い。軽やかで、それでいてほんの少しあたたかい。
⸻
最終レースはダート1400mの条件戦。
蓮はこのレースに賭けていない。
今日はもう、十分に“勝った”。
今はただ、競馬そのものを眺めていたかった。
「俊吾くん、掲示板に載ったのは今日が初めてなんですか?」
「そう。だから今日は、家族で応援に来たの。
でも……応援してたのは、ずっと私だけだったんだけどね」
蓮は、ふと視線を横にずらす。
その表情には、強さと優しさが同時に宿っていた。
「騎手って、簡単じゃないんですね」
「うん。しかも俊吾みたいに器用じゃない子は、時間がかかる。
だから、焦らず支えていこうと思ってるの」
「……素敵ですね、そういうの」
気の利いた言葉が出てこなかった。
けれど、葉月はふっと笑って「ありがとう」とだけ返した。
⸻
レースが始まる。
ファンファーレが鳴り響き、スタンドの空気が一瞬ぴんと張り詰める。
蓮は、無意識に彼女の横顔に目を向けた。
まっすぐな瞳。静かに風に揺れる髪。
その姿に、何も語らなくても伝わるような“強さ”を感じた。
(……ああ、やっぱり綺麗な人だな)
ただそれだけの、素直な印象。
それ以上でも以下でもない。
けれど、たぶん忘れられない風景になる――そんな気がしていた。
⸻
レースが終わり、観客の波がゆっくりと動き出す。
蓮と葉月は、並んで階段を下りていく。
「……今日は、楽しかったです。
一人で競馬に来るのって悪くないけど、誰かと見るのもいいもんですね」
「私も。
なんだかんだで、今日が一番静かに見られた気がする」
蓮は少し笑った。
葉月も、それにつられるように微笑む。
その空気はどこまでも穏やかで、心地よかった。
⸻
「水島くん。今度、俊吾のことでちょっと相談したくて。
サポートを本格的に始めようと思ってるんだけど、一人じゃ手が足りなくて」
「……僕でよければ。何か力になれることがあれば」
「ありがとう。……なんか、心強いな」
駅へと続く道。
コンクリートの道を踏みしめる足音と、遠くで鳴る電車の音だけが響いていた。
葉月の後ろ姿を見ながら、蓮は思った。
(少しだけ、距離が近づいた気がする)
でもそれ以上の意味は――まだ考えない。
今はただ、“競馬で生きていく”こと。
目の前のレースに勝ち続けること。
(この場所に、俺の馬を立たせる。その日まで――)
決意とともに、蓮は空を見上げた。