第15話:消えかけた命と、古びた牧場。最初の交渉へ
1976年(昭和51年)5月3日(月・祝)。
東京の郊外にある、小さな町の外れ。
電車とバスを乗り継ぎ、さらに徒歩で20分。
舗装の切れた坂道を越えた先に、古びた木の看板が見えた。
【現在のクエスト】
● JRA馬主資格を5年以内に取得せよ(残り:4年11ヶ月と8日)
● 所持金:71,400円(交通費差引)
『柏木育成牧場』――風雨に晒されて文字はかすれていたが、それでも歴史の重みを感じさせた。
(ここか……)
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牧場の敷地に入ると、大小の馬房が点在していたが、
敷地の半分は雑草に覆われ、決して裕福な経営とは言えそうになかった。
だが、干し草や土の匂いに交じって、どこか安心感のある静けさがあった。
「……あんた、誰?」
突然、背後から太い声がした。
振り向くと、がっしりとした体格の男が、Tシャツに薄手の作業着姿で立っていた。
日焼けした腕、分厚い指、無精ひげに油っぽいツナギ。
だがその表情は、どこか優しげで、警戒というよりも“気遣い”に近い雰囲気を漂わせていた。
「はじめまして、水島蓮といいます。競馬場の喫茶店で会った方に紹介されて……名前は、うかがっていませんが……」
男の眉がわずかに上がった。
「喫茶店……ああ、俊さんか。あいつ、また変わった若ぇの見つけてきやがって」
「俊さん……?」
「まあ、昔は育成の鬼って呼ばれた男だよ。調教師にはならなかったけどな。今はほとんど人前に出ねぇ、変わり者だ」
男は小さく笑いながら煙草に火をつけ、肩をすくめる。
「俺は柏木。ここの管理やってる。今は半分趣味みたいなもんだけどな」
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蓮は案内され、牧場の一角にある古い馬房の前に立つ。
中にいたのは、栗毛の小柄な牝馬――カゲツスワロー。
図鑑で見た名馬の原点。だが、その姿は思っていたよりもずっと痩せ細り、
毛ヅヤは荒れ、怯えたように馬房の隅で固まっていた。
「……想像より、ひどい状態ですね」
「だろ。飯も残すし、人が来るだけで震える。調教? 冗談じゃねえ。いまや“放牧馬”みてぇなもんだ」
柏木は柵越しにゆっくり手を差し出した。
カゲツスワローは警戒しつつも、そっと鼻先を寄せた。
「根は素直なんだ。たぶん、人間に酷い扱いされてたんだろ。繊細なくせして臆病じゃねぇ。不器用なだけだ」
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蓮は図鑑を起動し、状態を確認する。
【カゲツスワロー:状態詳細】
・身体状態:軽度栄養不足/運動量過多
・精神状態:不安/萎縮/人間不信傾向
・評価:血統的価値は高いが、現状では繁殖対象外
・爆発力構成維持のためには「安心できる人間との接触」が必須
(……このままだと、確実に“消える”)
赤く点滅する非アクティブ化警告。
蓮は柵を握りしめたまま、柏木に向き直った。
「この馬を、残したいんです。走らなくても構いません。
でも、この血は……未来に繋がる“意味”を持ってる」
柏木は一瞬、眉をひそめたが、蓮の真剣な目を見てため息をついた。
「……なんだか知らねえが、お前がそこまで言うなら、聞くだけ聞こうじゃねえか」
蓮は図鑑を見せようかと迷ったが、やめた。
信じてもらうなら、自分の言葉で。
「俺は、まだ馬主でもなんでもない。でも、絶対にこの馬の仔を走らせたいと思ってる。
そのために、俺ができることを、今から始めたいんです」
沈黙が流れた。
柏木は煙草を揉み消し、カゲツスワローの首をもう一度撫でる。
「……分かった。預かってみるさ。すぐにどうこうはできねぇが、
時間かけて、体と心の立て直しならなんとかなるかもな」
蓮は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……必ず、後悔させません」
「礼はいい。ただ、これは“お前の責任”だ。
俺は面倒見るが、決めるのは馬とお前だ。そこんとこ、忘れんなよ」
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その夜。
蓮は下宿に戻り、図鑑を起動した。
【カゲツスワロー:非アクティブ化猶予 延長措置 発動】
条件:柏木育成牧場による長期預託/精神安定化・体調回復期間認定
次評価タイミング:3ヶ月後
画面を見つめながら、蓮は静かに言葉を落とした。
「ありがとう。……俺が、この“血”を繋ぐ」